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ラムネ


 忘れもしない。 

 あの日は、期末テストの最終日だった。

 

 乾物屋の店先の古いテントは日に焼けていて、ガラス戸の奥でおばちゃんが暑そうに花柄エプロンを脱いでいる。平日昼前の海岸通りはほとんどの店が閉まっていて、炎天下に僕ら三人分の話し声がよく響いた。

 

「えーやば、おれ留年かもしれないどうしよ」

「斉藤くん、数B自信なさそうだったもんね」


 三島さんは鈴が鳴るみたいな声でクスクス笑った。汗にじむ柔らかそうな頬を、日傘から透けて落ちる薄桃色の影が染めていた。眩しくて、思わず顔を背ける。


「お前……俺が貸したノートより、小説書いたノート開いてたもんな」

 

 チリチリ、チリチリ、と自転車を押している正吾の声で、僕は現実に引き戻される。こいつは基本いいやつだしいつも正しいことを言うんだけど、それがたまに急所を抉る。


「いや、そんな、そんなに書いてないよ! 進んでない!」


 手をバタバタとさせて僕は正吾を止めようとする。


「あの小説、続き考えてくれてるんだ」

「あっ……三島さん……」


 耳が熱くなる。あれ三島にも読ませてたのかよ、と正吾は苦笑いした。


「わたし、斉藤くんのあの雷の小説、すごく好きで。寺田くんもあれ、読んでたんだ」


 僕は三島さんの口から出た『斉藤くん』『好き』を何度も脳内でリフレインさせて浸っていた。正吾と三島さんが僕を挟んでなにか喋っているらしかったが、それどころではなかった。


「――で、続きは書けたのか?」

「斉藤くん?」


 二人に両側から覗き込まれ、わ、と思わず声が出て我に返る。


「いや、それが……最後どうするか決めてなくてさ、はは」


 あ、やば、三島さん、ガッカリしたかも。どうしよう。なんかカッコいい答え……ないか。数秒、チリチリチリ、と自転車の音だけがアスファルトの熱で揺らぐ空気に広がる。僕を一瞥して正吾が口を開く。

 

「……そういうの、書く時に初めに決めないのか?」

「決めて書く人もいると思うんだけど、おれは決めない派……なんだよね」

「そうなんだ! まだどうなるか、書いてる斉藤くんにも分かんないってすごくすてき……!」

  

 三島さんが長いまつ毛の奥の黒い瞳をひときわ輝かせて微笑んでくれた。ありがとう正吾。助かった。目線で訴えておく。やがて僕たちは交差点に差し掛かり、正吾は竹刀を担ぎ直してから自転車に跨った。


「俺、稽古行くから、ここで」


 自転車の音が遠くなって――

 僕は三島さんと二人きりになったことに、気がついてしまった。どうしよう。何喋ろう。


「斉藤くんの小説、面白いよね。あの、雷で戦う主人公かっこよくて好き」


 三島さんの黒くて長い髪から、制汗剤なのかシャンプーなのか分からない甘酸っぱい匂いがする。僕はここで多分、生返事をしていたと思う。三島さんは続ける。


「斉藤くんっていつもふわふわしてるけど、カッコいいキャラ書くの得意だよね」


 ――斉藤くんって、いつも、ふわふわ……?

 面食らった僕は気づいてしまった。三島さんの切りそろえられた前髪に縁取られた、愛玩動物を愛でるような眼差しに。ぬるい風が、肌にまとわりついてくる。


「斉藤くんってちょっと不思議系というか、どっちかっていうと可愛い系じゃん。だから、意外だなーっていうか」


 ――背伸びしてるのなんて、三島さんにはお見通しなんだ。無理して「おれ」なんて使って。帰宅部のくせに筋トレなんか始めたりして、分かりもしないのにクラシックなんか聴いてみたりして。

 普段、小説投稿サイトでテンプレ小説しか読まないのに。本なんて真面目に読んだのなんて読書感想文のときくらいだったのに。三島さんが、図書館のファンタジー小説を読みつくして暇を持て余したって聞いて。それで……どうにか気を引こうと思って、書いたこともない小説なんか書き始めたりして。思えば僕はずっと、三島さんにカッコよく思われることだけを考えて生きていた。

 

 さっきまで自分の中で形を保っていた「おれ」が、砂みたいに崩れていく。

 

 『所詮、付け焼刃ってこと――分かってんだよ、彼女も』


 陰り始めた水平線に遠雷が鳴る。書いた小説の主人公が、雷をまとった剣を振りかざして、僕を裁いている気がした。大粒の雫が、空から日に焼けた腕に落ち始めた。


「あ、いけない、雨。斉藤くん傘ある?」


 やべ。リュックに刺さっていたはずの折りたたみは、多分玄関に干しっぱなしだ。僕がわたわたしていると、三島さんがそっと薄桃色の日傘を僕にかざしてくれた。


「入る? これ、晴雨兼用なんだ」


 三島さんはたぶん、優しいだけなんだ。

 でも――やっぱり三島さんにとって僕は守りたいって感じなのかな。


「いや、おれはいいから……」


 ぼくは日傘から抜けでる。三島さんはまだ傘を差し出している。


「えー、風邪ひいちゃうよ」

「……平気だよ夏だし」


 今僕にできる精一杯のつよがりだった。雨は全然冷たくなくて、むしろ気持ちいいくらいだった。しばらく、ざんざ降りの中、僕と三島さんは県道に沿って歩いた。雨音が三島さんの日傘を不規則に揺らしている。海上に横たわる黒くて分厚い雲から閃光が見える。


「雷すごいね。斉藤くんの小説みたい」


 朗らかに笑う三島さんに見とれていると、地鳴りのような雷鳴が空気を震わせた。


「だ、大丈夫……?」


 心配そうな三島さんが上から覗いている。僕は反射的に耳を塞いで屈んでしまっていた。


「あ、……はは、平気だってこんなの……」


 立ち上がり笑ってみせようとした途端、また雷鳴が空気を引き裂いた。きゃっ、と小さく悲鳴を上げる三島さんの横で、僕は情けなくアスファルト尻もちをついた。


「斉藤くん……! まって、絆創膏」


 三島さんはカバンが濡れるのも厭わずに、花柄の絆創膏を取り出した。僕はようやく指先を切ったことに気がついた。


「いいよいいよ、このくらい大したことないって!」


 僕は強引に立ち上がって、逃げるように雨の中を早足で歩き出す。さっきの……絆創膏を差し出す三島さんの表情は、子供に向けるような庇護の眼差しだった。


「待って、ばいきん入っちゃう。せめて、傘に入ろうよ」


 ぴしゃぴしゃと三島さんの足音がする。僕は逃げることを止められなくて、家に帰る道から逸れて、気づけば堤防の前まで来てしまっていた。コンクリートで固められた道が、荒れた海に伸びている。町外から人が来ることもある、地元で人気の釣りスポットだけど、今日みたいな天気じゃ釣りに来る人もいない。


「斉藤くん……ごめん……」


 彼女の不安げな声に僕は、はっとして振り返った。


「ごめん……わたし、斉藤くんのなにか嫌がることしちゃってたかも」


 三島さんの顔を直視するのが怖くて、海を見る。雷が光る。


「え、そんな事ないよ。なんで……」

「斉藤くん、変だもん。さっきからずっと、いつもと違うから……」

 

 傘を上げた三島さんの瞳は心配そうに潤んでいて、僕は何も言えなくなってしまった。三島さんだって家はこっちじゃない。今思えば、たぶん心配して着いてきてくれてたんだと思う。

 なんて……情けなくて弱いんだろう。好きな子をしょうもないプライドで困らせて、心配させて、泣かせて。

 三島さんには笑っていてほしい。何とかして笑わせないと。雷が閃く。『お前だってやればできるさ』、小説の主人公が言ってる気がする。このときの僕は覚悟を決めたつもりだったが、今思えば――情けなさとつまらないプライドで三島さんを傷つけてしまった自分から、逃げ出したかったんだと思う。


「……え、いつも通りだよ! ほら!」


 南堤防は荒れる太平洋に向かって滑走路のように伸びていた。雷が鳴ってるけど、怖くなかった。僕はとにかく、三島さんの前でカッコつけ直そうと、必死だった。


「待って! どこいくの!?」


 突然顔を上げて走り出した僕に三島さんは戸惑っている。僕は後ろを向いて、ありったけの声で叫んだ。

 

「海だよ! 海! 行こ!」 

「もー! 危ないってば!」


 三島さんは口調こそ怒っているもののすっかり笑顔になって、日傘を持ったまま一緒に堤防に駆け出した。雨が、風が、雷すらも、僕の背中を押してくれているような気がする。僕は大きく踏み込んで、堤防の先端から海に飛び込んだ。


 光。衝撃音。近くに雷が落ちたんだろう。シュワシュワと泡が僕の身体を包んでいるのが見えた。まるで、ラムネ瓶の中のビー玉になったみたいだ。もともと雨でずぶ濡れだった体が海に洗われていく。生まれ変われるかもしれないな。そう思えた。

 やがて浮上した僕は堤防に手をかけて這い上がる。

 

 錆びた鉄の匂い。

 焦げた匂い。

 風で転がる日傘が――焼け落ちていた。


「三島、さん……?」


 眠るような表情で、三島さんは血まみれのセーラー服に包まれていた。雨が頬を打っている。おそるおそる白い首筋に手をやると、脈が止まっていた。


「あ、あ、」


 とにかく、誰かに知らせないと……! 僕はポケットを探り始めてから、スマホを持ち込めない校則だったことを思い出す。やばい、人、人探さなくちゃ――僕はパニックのまま来た道を戻って走り出した。

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