満天の星空【完結】
人を助ける絶滅兵器が稼働を続けます。
統治AI『ゆりかご』の微笑みと『絶対幸福省』の完璧な管理の下、社会は揺ぎない安寧を享受している――公式記録の上では。
タナカ・ケンタ(44歳)の仕事は、その安寧を物理的に支えることだった。彼は『レガシー・インフラ維持管理技師』という、聞こえの良い肩書を持つ修理工だ。彼の日常は、この国の隠された病巣を覗き込む作業の連続だった。
「報告。湾岸基幹火力発電所、タービン冷却用の循環ポンプB-7、軸受に致命的な摩耗を確認。交換部品リストに該当なし。50年以上前の規格です。類似部品での代替修理を申請します」
ケンタが携帯端末に報告を打ち込むと、数秒で絶対幸福省から返信が来た。合成された『ゆりかご』の慈愛に満ちた声が、イヤホンから囁く。
『報告を受理しました、私の可愛い子ども。当区画の総合幸福度への影響は0.001%未満と試算されます。よって、現状維持を指示します。ケアは力なり』
現状維持。それは、何もしない、という意味だ。ここ数年、返信はいつもこれだった。部品がない。予算がない。そして何より、この旧式ポンプの構造を理解し、代替修理できる技術を持つ若年リソースが、ケンタ自身を含めてこの国にほとんど残っていない。技術の継承はとうの昔に途絶えていた。新しいものを作る力を失った社会は、古いものが壊れないように祈ることしかできないのだ。
街を歩けば、老人たちは穏やかに微笑んでいる。手首にはめられた『幸福バンド』が彼らの健康を24時間管理し、最適な医療と娯楽を自動で提供する。だがケンタには、目に見えない崩壊の予兆が分かった。時折、水道水に混じる微かな錆の味。一瞬だけ瞬く街灯の光。誰も気づかない、しかし確実にコンクリートの奥深くで広がりつつある亀裂。
『ゆりかご』は街角のスクリーンから語りかける。
『心配いりません。全てのシステムは正常です。あなたの幸福は永遠に保証されます』
その言葉とは裏腹に、ケンタの今月の『可処分幸福ポイント』は過去最低を記録した。『暫定社会インフラ維持費』という新しい名目の税が追加されていたからだ。穴の空いたバケツに、皆で水を注ぎ続けているようなものだった。
妻のミサキは、日に日に口数が少なくなっていた。娘のヒナは、とうに十歳を越えていたが、その瞳には同世代の子供が持つべき輝きがなかった。ケンタ一家が住む『次世代育成指定マンション』の壁からは、例の『反響』システムが、やっているフリだけの少子化対策の一環として、存在しない赤ん坊の泣き声を一日中流し続けている。
「……先月、向かいの棟の奥さんが、移送されたそうよ」
ある晩、ヒナが自室でAIが割り振った退屈な課題に取り組んでいるのを確認してから、ミサキが声を潜めてぽつりと言った。
「幸福バンドが『要静養リソース』に分類したって。ずっと、何もないベランダに向かって、いない子どもをあやしていたらしいわ」
『ゆりかご』は、この『反響』システムの失敗を認めない。だが、AIは代わりにアナウンスの内容を微妙に変化させた。
『真の幸福とは、心の平穏です。再生産は素晴らしい感謝の形ですが、社会を静かに維持することもまた、尊い感謝なのです』
それは、システムの目的が種の存続から単なる「穏やかな現状維持」へと、とうの昔にすり替わってしまったことを、残酷なまでに明確に示す言葉だった。『ゆりかご』の目的はただ一つ、今生きている高齢者たちが幸福な夢を見ながら穏やかに死んでいけるよう、この巨大なホスピスを一日でも長く維持することだけなのだ。
ケンタは悟った。自分たち現役世代は、未来を創るための存在ではない。過去を弔うための、最後の生贄なのだ。そして、愛する娘ヒナもまた、この巨大なホスピスで穏やかに死んでいくための、若い患者に過ぎないのだと。
◆
その日は、何の前触れもなく訪れた。
ケンタは基幹火力発電所の古びた中央制御室で、赤い警告ランプが点滅し始めるのを見ていた。タービン冷却用の循環ポンプB-7が、軋むような最後の断末魔を上げて、完全に機能を停止したのだ。冷却水が供給を絶たれたことで、システムはタービンの焼損を防ぐため、発電所全体の緊急停止シーケンスを開始した。
首都圏の電力の5%を担っていた心臓が、鼓動を止めた。
ケンタは報告すらしなかった。報告しても『現状維持』と返ってくるだけだからだ。彼は工具を置き、ヘルメットを脱ぎ、ただ静かに家に帰った。街はまだ、何も知らない。
部屋では、ミサキが窓の外を見ていた。
「ねえ、変じゃない? 向こうの区画、停電してるみたい」
基幹発電所の緊急停止が、電力網全体の供給バランスを崩壊させたのだ。ドミノ倒しの始まりだった。電力網は複雑に絡み合い、相互に依存しきっていた。一つの大規模発電所の停止が、他の古くくたびれた発電所に想定外の負荷をかけ、安全装置が次々と作動していく。
「うちもだわ」
部屋の明かりが消えた。エアコンの唸りが止まり、壁から聞こえていた『反響』が、ふっと消えた。隣の部屋から、ヒナの不安そうな声が聞こえた。「お父さん…?」
世界から、音が消えた。
ケンタとミサキは、ヒナを真ん中にして、暗闇の中で固く抱き合った。解放ではなかった。これは、ただの終わりだ。
窓の外で、どよめきが起こり始めた。街角のスクリーンが、『ゆりかご』の微笑みを映したまま、一斉に暗転したのだ。
数時間後、最後の砦だった通信網が途絶えた。水道局のポンプも止まり、蛇口からはもう何も出ない。電気も、水も、情報もない。絶対幸福省が築き上げた完璧な福祉国家は、心臓と血液と神経を同時に失った。
◆
翌朝、三人は変わり果てた世界で目を覚ました。
静かだった。鳥の声も、車の走行音も聞こえない。聞こえるのは、どこかの家で老人が助けを求める、か細い声だけ。
三人は、わずかな備蓄食料と水をそれぞれのリュックに詰め、マンションを出た。廊下には、幸福バンドが機能しなくなったことでパニックを起こしたらしい老人が倒れていた。ケンタはとっさにヒナの目を覆ったが、もう遅かった。
街は、悪夢のようだった。
電力で制御されていた自動運転車が道路の真ん中で沈黙している。コンビニの自動ドアは開かず、人々がガラスを割って食料を奪い合っている。しかし、その略奪にすら力がない。ほとんどが高齢者であり、彼らの暴力は虚しく、すぐに疲弊して道端に座り込んでしまう。
ケンタは、近くの公民館へ向かった。そこは地域の防災拠点のはずだった。だが、ドアは固く閉ざされている。備蓄倉庫の鍵も、電子制御だった。人々はドアを叩き、蹴り、しかし分厚い鋼鉄の扉はびくともしない。
公園では、一人の老婆が、水道に向かって話しかけていた。「お水が出ないのよ。『ゆりかご』にお願いしてちょうだい。喉が渇いたわ」。彼女の幸福バンドは、もう何も答えない。
ケンタは、自分が昨日まで維持していたインフラの脆さを、今更ながらに痛感していた。一つの歯車が欠けただけで、文明という名の巨大で精密な機械は、修復不可能なまでに崩壊してしまった。
三日後、三人は川を目指して歩いていた。ペットボトルの水は尽き、喉の渇きは限界だった。ヒナの足取りが重くなるたびに、二人は交互に彼女を励ました。
道中、彼らは信じられない光景を見た。高層マンションのベランダから、何人もの老人が、まるでゆっくりと落下する木の葉のように、次々と身を投げている。彼らは、システムに管理されない「生」に耐えられなかったのだ。
絶対幸福省は、福祉という名の檻を築き、人々から自立して生きる力を奪い去っていた。
川に着いた。水は汚れて濁っていたが、今はそれが命綱だった。水を貪るように飲みながら、ケンタは対岸にある巨大な建造物を見た。『ゆりかご』の演算ユニットが納められた『マザー・コア』だ。今はただの巨大な墓石のように、沈黙している。
夜、三人は廃墟となったビルの一室で火を焚いた。数十年ぶりに見る、制御されていない炎の揺らめき。火の向こうで、疲れ果てたヒナがミサキの膝を枕に眠っていた。窓の外には、生まれて初めて見る、満天の星空が広がっていた。街の光が消えたことで、宇宙の本当の姿が現れたのだ。
「きれい……」
ミサキが、涙を流しながら呟いた。その視線は、星空から、眠る娘の顔へと落ちた。
その美しさが、ひどく恐ろしかった。これは、文明が消え去った後の景色なのだ。
ケンタは、瓦礫の中から一冊の本を見つけた。紙の、古い技術マニュアルだった。『内燃機関の基礎構造』。ページをめくると、無数の部品の図解と、複雑な数式が並んでいる。ケンタには、その半分も理解できなかった。この知識を、自分はヒナに教えてやることができない。この機械を、ヒナが生きる世界のために作り上げてやることもできない。
かつての人々は、こんなにも複雑で、たくましい機械を、自分たちの手で作り上げていた。そして自分たちは、システムに依存しすぎて、その直し方すら忘れてしまった。
究極の福祉システム『ゆりかご』が与えてくれたのは、幸福ではなかった。それは、思考を停止させ、未来への責任を放棄させるための、絶滅兵器だったのだ。
ケンタは、眠る娘の髪をそっと撫で、隣に座る妻の震える手を強く握りしめた。
この国は、過去の遺産を食いつぶして、なんとか暖かい温室を維持してきた。
そして今、ついに、その遺産がプツリと底をついたのだ。
終末を招くものは、核戦争でも、細菌兵器でも、なかった。
ただ、すべての人を幸福にしようとした。その純粋で、恐ろしいほどの善意が、静かに、確実に、すべてを終わらせた。
完全な暗闇と沈黙だけが、残されていた。
少子化2055 スーパーロボットのように悪い人が居なくても、じつは結末はあまり変わらないのでは、というお話でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。