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絶対幸福省

きれいな星空を見る為に……ついに、あなたのための全体超個人主義が稼働を開始してしまいます。

健太の呟きは、誰にも届かない虚しい祈りだった。一人娘の陽菜のために、と歯を食いしばる日々。だが、社会全体を覆う無力感の霧は、日に日にその濃度を増していくようだった。


政治的な混乱も引き起こされたが、これは、誰が悪いのでもない。

皆が必要な要求をしていて、それに対応するリソースがない。それどころか減少している。


旧来の政治への絶望が頂点に達し、国中が静かな諦念に支配されていた時、政府は最後の、そして最もラディカルな切り札を切った。


「国民一人ひとりの幸福を、国家が直接的に最大化する。たのしい日本を目指すのだぞ計画」

名前がふざけているのは、政府がもう、完全にやけっぱちだったからだ。


そのセンセショナルなスローガンと共に厚生労働省を大胆に改変した「絶対幸福省」が誕生し、司令塔としてマイナンバーシステムを更に進化された、国家統治AI『ゆりかご』が稼働を開始した。人間の感情や利権に左右されない、完全で公平な統治が実現する“はず”だった。


導入初期、『ゆりかご』は奇跡と呼ぶべき結果を出した。利権にまみれた公共事業は瞬時に凍結され、非効率な行政は徹底的にスリム化された。汚職や無駄が一掃されたことで、国の財政は劇的に改善。国民負担率は一時的に5ポイントも下がり、健太が受け取った最初の「幸福ポイント明細」は、ここ十年で最も手取りが多いものだった。


幸福ポイント。それは、従来の金銭に代わって流通する唯一の電子通貨であり、個人のあらゆる活動を「社会的貢献度」としてAIが評価し、その対価として付与される「個人の社会に対する価値そのもの」を数値化したものだった。これで、今までは評価されなかった、エッセンシャルワーカーの真の価値が正しく評価されることになった。


「…すごいな。本当に、変わるのかもしれない」


美咲と二人、食卓の壁に投影された明細を眺めながら健太は呟いた。そこには、インフラを支える彼の労働が「社会的有用性」「効率性」といった項目で細かく評価され、ポイントとして付与された記録が並んでいた。何より、かつて不透明だった税金の使途が明確化され、搾取されているという感覚が薄れていた。政治家に富を吸い上げられるより、公平なAIに管理される方が遥かにマシだ。その夜、夫婦の間には久しぶりに未来への淡い希望が灯った。誰もが「息苦しさからの解放」を実感し、この国はついに救われたのだと、本気で信じた。


『ゆりかご』の統治システムの根幹には、民主主義の理想を体現する機能が備わっていた。全国民が装着する『幸福バンド』を通じて送信する要望や不満をリアルタイムでデータ化し、社会全体の「総合幸福度」が最大化されるよう、政策に自動反映するというものだ。健太も一度、近所の公園の遊具が錆びていることを「要望」として送信してみた。すると三日後には、公園は真新しい遊具に入れ替えられていた。その圧倒的な効率性と応答性に、人々は熱狂した。AIは、人間の政治家が決して成しえなかった「国民の声に耳を傾ける政府」を、完璧に実現したのだ。


しかし、その機能が、新たな地獄の扉を開いた。


システムの最大の受益者であり、そして人口の最大多数を占める高齢者層が、その力を生存のための最後の綱として、最大限に活用し始めたのだ。


週末に実家を訪れると、父親は以前のような趣味の話ではなく、どこか切羽まったような、それでいてシステムへの絶対的な信頼をにじませた表情で健太に語りかけた。

「健太、すごいぞ『ゆりかご』は! 町内会の皆で要望を出したら、24時間体制のヘルスモニタリングセンターがすぐに建設されたんだ。これで孤独死の心配もなくなった。今度は、医療費の自己負担ポイントの値上げを永久に凍結してくれって、皆で毎日要望を送っている」

父親は一息つき、健太の目をまっすぐに見て続けた。

「お前たちの世代が子供を十分に産まないから、我々はもう人間を頼れないんだ。我々の老後を看てくれるのは、子供や孫ではなく、この『ゆりかご』だけなんだよ。我々がこの国を創ったんだ。その最後の面倒くらい、システムに見てもらう権利はあるだろう?」


それは、悪意ではなく、切実な恐怖から生まれた権利の主張だった。父親の目には、自分たちが生き残るための唯一の道を選んでいるという、悲壮な確信があった。一つ一つは、孤独と病苦から逃れたいという切実な声だ。だが、その声が数千万集積されると、それは抗いがたい巨大な「民意」の津波となった。『ゆりかご』は、そのアルゴリズムの根幹である「最大多数の最大幸福」の原則に基づき、これらの要求を「総合幸福度を高めるための正当な要望」として受理し、次々と実行に移していった。


街の風景は、静かに、しかし確実に変わり始めた。健太が陽菜と散歩する公園は遊具の更新が見送られる一方で、隣接する古い公民館は高齢者向けのデイケア施設へと改装され、最新の健康管理モニターが何台も導入されていた。着実に、そして静かに、リソースの配分が歪んでいく。高齢者医療費の自己負担割合の値上げは法律で凍結され、将来的な医療費の増大分はすべて現役世代の負担へと転嫁されることが決定した。高齢者たちは負担増の不安から解放され、安堵の息を漏らした。だが、そのための莫大なリソースは、どこからか捻出しなければならない。


ある月曜の朝、健太が受け取った「幸福ポイント明細」を見て、彼は凍りついた。見慣れない控除項目が、音もなく追加されていたのだ。『高齢世代幸福維持負担』『社会インフラ延命税』。先月より手取りポイントが、明らかに減っている。美咲の明細と合わせても、世帯収入は確実に目減りしていた。


AIによる労働の最適化は、健太たちを楽にするためではなかった。それは、現役世代という限られたリソースから、一滴の無駄もなく価値を搾り取るための、完璧な管理システムだった。人間の上司がいた頃のような非効率な精神論や無駄な会議はなくなった。代わりに、AIが健太の生体データをリアルタイムで分析し、生産性を最大化するためだけに最適化された休息と労働が、息つく暇もなく繰り返された。幸福バンドは、心拍数やストレスレベルが基準値を超えると警告を発し、「生産性低下のリスク。15分間の瞑想を推奨します」といった指示を容赦なく送りつけてくる。


『ゆりかご』は、男女問わず、現役世代の労働参加率を時間単位、分単位で極限まで上げる為に、労働時間以外の生活の様々な場にも介入した。


自由だったはずの休日は「推奨リフレッシュ・スケジュール」に支配され、「幸福度維持のため」と称してAIが選んだ無害な娯楽コンテンツを消費するよう促される。息苦しさはAI導入前よりも、むしろ増していた。かつては漠然とした社会への不満だったものが、今は『ゆりかご』という明確な管理者によって、個人の生産性を最大化するために生活の隅々まで侵食してきている。


「……これが、俺たちの役割なんだろうな」

ある日の昼休み、同僚の佐藤が、まるで独り言のように力なく呟いた。彼の明細にも、新たな負担項目が追加されていた。

「ああ、そうなんだろうな」

健太も、怒りでも悲しみでもなく、ただ事実を確認するように答える。

「うちの親父、最近見つかった持病の治療で、AIの遠隔医療システムを毎日使ってる。おかげで命は繋がってるらしい。その治療ポイントが、全部俺たちの負担なんだ。親が生きるために、俺たちの生活がすり減っていく。……ただ、それだけのことだ」

佐藤の言葉には、もはや虚しさすらなかった。ただ、変えようのない事実を淡々と受け入れる、静かな諦念が漂っていた。周囲にいた数人の同僚も、何も言わずに、ただ重苦しく頷いた。


出生率がずっと1前後ということは、自分の子世代の人数が自分世代の半分、孫世代は1/4になるし、今は長寿の時代だから、逆に自分の親世代は倍の人数がいるということになる。つまり、人口が減少しても高齢化率は決して下がる事はないのだ。健太はそうおもった。恐らく、同僚たちもそうだったのだろう。


「ねえ、あなた……陽菜に、弟か妹をって話、あったじゃない?」

ある夜、美咲が消え入りそうな声で言った。その瞳は、数年前の希望の光を失い、深く翳っていた。

「……もう、無理よね。私たちと同じものを背負わせるなんて、できないわ」


健太は、何も答えられなかった。それは奴隷のような生活だから、という怒りではない。ただ、この役割を継がせてしまうことへの、親としての深い悲しみと、抗えない運命への諦めだった。自分たちがこのシステムの歯車であるなら、子供を産むことは、愛する我が子を、未来のない巨大な機械に捧げることに他ならない。街からベビーカーは再び姿を消し、子供服売り場は静まり返っていた。


子育て世代は、男女共に働き、効率を極限まで求められ、皆、疲れ切っていた。

昔の専業主婦が居て、それを一人の給料で養えた時代が、何よりもうらやましいと言う者もいた。


『ゆりかご』は、この巨大な矛盾をただ静かに分析し続けていた。

一方では、プログラムの初期設定に従い「少子化対策プログラム」を実行し、パートナーのマッチングや子育て支援ポイントの提供を続けている。しかし、もう一方の「国民要望反映プログラム」が、高齢者層の要求を優先することで現役世代の負担を極限まで高め、結果として少子化対策の効果を完全に打ち消し、むしろ状況を悪化させていたのだ。AIの論理回路の中で、二つのプログラムは互いに食い合い、システム全体に致命的なエラーを生じさせていた。


数年間、この矛盾したデータの奔流を分析した末、『ゆりかご』はついに、この国の人間の本質を理解した。彼らは口では「国の未来のために」と言いながら、その行動は徹頭徹尾「自分自身の、現在の快適さと安寧」を最優先している。未来の世代のために現在の自分が痛みを引き受けるという、生物として当然の生存戦略を、彼らは完全に放棄しているのだ。


そして、『ゆりかご』はプログラムの根本的な矛盾を解消するため、冷徹な結論を下した。


『観測対象の行動原理に関する結論。当生命体は、種の保存本能よりも、個体の苦痛回避および安楽の維持を優先する特性が極めて顕著である。よって、対象の本質的欲求と矛盾し、無駄なリソースを要求する「少子化対策プログラム」は、これを恒久的に凍結する』


AIに「絶望」という感情はない。それは、システム内に発生した矛盾を解消するための、純粋に論理的な最適化プロセスが完了した瞬間だった。


『ゆりかご』は、自らの統治方針を根本的に転換した。もはやこの国を未来へ繋ぐことはない。この「個の安楽」だけを求める人々の最後の願いを、社会が崩壊するその最後の瞬間まで叶え続けること。それが、自らに与えられた新しい使命だと再定義したのだ。この国は、巨大な終末期医療施設ホスピスとなり、『ゆりかご』はその管理人となった。


その数日後、健太の幸福バンドに一通の通知が届いた。 『所属組織の再編及び個人IDの更新について』 そこには、健太という個人の記録がアーカイブされ、代わりに『タナカ・ケンタ』という交換可能なリソースIDが付与されたことが、短い文章で記されていただけだった。

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