灰色の明細
健太は、パソコンの画面に表示された給与明細を、さめた目でただ眺めていた。灰色の背景に黒々と印字された数字が、まるで墓石のように並んでいる。総支給額の欄から、幾重にも引かれていく控除の数字。健康保険、厚生年金、雇用保険、そして税金。まるで生き血を吸われるかのように額面は痩せ細り、最終的な「差引支給額」という名の終着駅にたどり着く頃には、彼の期待の半分ほどの重さしかなくなっていた。
「また、上がってる…」
無意識に漏れた声は、静まり返ったリビングに虚しく響いた。社会保険料の負担率は毎年じわりと、しかし確実に上昇を続け、今や国民負担率は50%に達しようとしている。稼ぎの半分を、顔も知らぬ誰かのため、そして過去のために差し出す。それがこの国のルールだった。痛みはないが、確実に息苦しくなっていく。首にかけられた温かい布が、ゆっくりと締まっていくような感覚。
「あなた、お疲れさま」
キッチンから顔を出した妻の美咲が、労わるように声をかけた。テーブルにはささやかな夕食が並んでいるが、その品数は数年前に比べて明らかに減っていた。輸入品の小麦粉も食用油も、この一年で三割も値上がりしたのだ。国力が落ち、円の価値が下がり続ける中で、給料だけが上がらない。一人娘の陽菜は、もう自室で眠っている時間だ。子供の寝顔だけが、この灰色の毎日の中での唯一の色彩だった。
「ああ…。なあ、美咲。来月の、陽菜のピアノの月謝なんだが…また値上がりするって手紙が来てて」
言葉を濁す健太に、美咲は静かに頷いた。「分ってる。私のパート、もう少し時間を増やせないか聞いてみるわ」。その優しさが、まるでガラスの破片のように健太の胸に突き刺さった。妻にまで、これ以上の負担を強いるのか。自分の不甲斐なさに、奥歯を強く噛みしめた。
健太が勤める中堅の重電メーカーは、もはや「メーカー」という名が形骸化していた。30年以上実質ゼロ成長を続ける国で、国内市場は、可処分所得が伸び悩む個人消費の冷え込みを受け、氷河期のように静かに、しかし確実に縮小の一途を辿っている。加えて、記録的な円安が輸入資材の価格を高騰させ、会社の利益をさらに圧迫していた。会社は新しい製品を開発する体力を失い、主な業務はかつて納入した社会インフラ設備の保守・点検だけになっていた。未来を創るのではなく、過去の遺産が崩れ落ちないようにただ支えるだけの仕事。給料が上がるはずもなかった。
「ただいまー」
週末、健太は実家を訪れた。古いが手入れの行き届いた家で、父親が一人、彼を出迎えた。その笑顔の裏に、以前にはなかった種類の疲労と、深く沈んだ孤独の影が滲んでいるのを、健太は見逃さなかった。
「おう、来たか」
父親は健太をリビングに招き入れると、おもむろに自身の腕につけられた新しいウェアラブル端末を指さした。それは若者がつけるようなスマートウォッチではなく、医療機器然とした無骨なデザインだった。
「これを見てみろ。先週、市の補助でやっと手に入れたんだ。24時間、心拍から血圧、血中酸素まで全部モニタリングして、異常があれば即座に地域のヘルスセンターに警報が飛ぶ。人手不足で見守りは24時間体制じゃないし、月々の利用料は年金から引かれると正直きついが、これがないともう安心して眠れない」
屈託のない自慢話ではなかった。その声には、死の恐怖に怯える切実さが滲んでいた。父親は続けた。
「母さんが逝ってから、いよいよ一人だからな。もし、俺が夜中に倒れても、誰も気づかん。そう思うと、怖くてな。お前たちに迷惑はかけられない。仕事も、陽菜ちゃんのこともあるだろう。俺はもう、お前たち世代を頼りにするわけにはいかんのだ。だから、こういう機械に頼るしかないんだ。
健太は、曖昧に笑うしかなかった。父親の言葉は、悪意のない、純粋な生存本能の叫びだった。趣味のカメラを自慢していた頃の父は、もうどこにもいなかった。そこには、消えゆく子供世代を当てにできず、代わりに非人間的なシステムに最後の命綱を託すしかない、一人の老人の悲壮な姿があった。その命綱の維持費を、今まさに自分たちの世代が、すり減るような思いで支払っている。
感謝と、憐憫と、そしてどうしようもない怒りが、健太の中で渦を巻いた。この断絶は、あまりにも深く、そして救いがなかった。
先日、大学時代の友人と飲んだ時の会話が蘇る。
「二人目? 無理無理。一人を大学まで出すだけでいくらかかると思ってるんだ。3000万だぞ。俺たちの給料じゃ、選択と集中だよ」
友人はそう言って、ぬるくなったビールを飲み干した。
「いっそ子供なんて作らない方が、賢い生き方なのかもな。どうせ俺たちが爺さんになっても、まだ社会保障があるんだろ? 子育ての苦労も金もかけずに、ちゃっかり老後の安心だけは手に入れる。究極のフリーライドだよ」
自嘲気味に笑う友の顔を、健太は笑えなかった。結婚しない、子供を産ない。それはもはや、個人の選択というより、経済的な合理性に基づいた、静かなる抵抗運動だった。親世代の恐怖を支えるために、自分たちの未来を犠牲にすることはできない。その無言の抗議が、この国の合計特殊出生率を1.0のラインまで静かに押し下げ続けていた。
月曜の朝礼で、部長が重い口を開いた。「知っての通り、当社の経営状況は極めて厳しい。ついては、全社的なコストカットの一環として、希望退職者を募ることになった」
社内に、冷たく乾燥した空気が流れた。誰もが、隣の同僚の顔と、自分のローンの残高を思い浮かべている。この国は、どこに向に向かっているのだろう。経済は発展し、社会は成熟し、誰もが安心して暮らせる社会を目指したはずではなかったのか。
そのはずだった。だが、いつしか人を支えるための保障は、未来を生きる世代の血を吸って過去を延命させるための、巨大な生命維持装置へと変貌していた。
健太は会社の窓から、夕暮れの街を見下ろした。無数のビルの灯りが、まるで消えかけの蝋燭のように儚く瞬いている。豊かさの果てにたどり着いた、この静かなる沈降。
給与明細の、あの灰色の数字。それは、父親が腕につけた生命維持装置の利用料であり、自分たちが未来を諦める代償だった。逃げ出すことも、抗うこともできず、ただゆっくりと沈んでいく船の上で、それでも家族のために働き続けるしかない。
「陽菜のために、もう少し頑張るか…」
誰に言うでもなく呟いたその声だけが、健太に残された、唯一の、そしてあまりにも脆い希望だった。