* 動き出した想い *
アレクシスの部屋。
静まり返った空間で、彼は椅子に身を沈め、ただ黙って俯いていた。
ルクレツィアの言葉が、繰り返し胸を打つ。
――婚約。使命。そして、ヴェルへの想い。
どれも簡単には割り切れず、思考は深く絡まり、解ける気配もない。
そのとき――
ふいに、静かなノックの音が扉を叩いた。
「……アレク様」
扉越しに響いたのは、か細く、それでいて決意の滲む声だった。
「お願いがあります」
おずおずと扉が開き、ヴェルが小さく頭を下げて入ってくる。
拳をそっと握りしめたまま、真っすぐ彼を見上げていた。
その瞳は、不安と――それを上回る決意に染まっている。
「旅に出たいのです。
この……首輪を、外したくて」
震える声で、確かな意思を込めて、彼女は言葉を重ねる。
「首輪は、自分では外せません……
お母さまにも、ナタリーにも、できませんでした。
でも、本で読んだのです。
伝説の魔道具師様が、どこかにいると。
その方なら……もしかしたら、外せるかもしれません」
ほんの僅かな希望にすがるように、必死で訴える。
「――お願いします。
出立の許可を、いただけないでしょうか?」
それは、彼女が初めて口にした“願い”だった。
これまで、わがままひとつ言わず、
命じられるままに黙って従ってきた少女が――
どうしても、と願わずにはいられなかった想い。
その切実さが、アレクシスの胸を、痛いほど貫く。
けれど今の彼には――
ルクレツィアのことも、国のことも、そして彼女自身のことも。
すべてにまだ、答えを出せずにいた。
ほんのわずかな沈黙のあと、
アレクシスは苦しげに息を吸い、静かに口を開いた。
「……考えておくよ。
少し、待っていてくれないか」
それが、今の彼にできる――たったひとつの、誠実だった。
ヴェルは、わずかに俯いたまま黙礼し、
静かにその場を後にした。
扉が閉まり、
アレクシスはひとり、深く、深く息を吐いた。
*
どれほどの時間が過ぎただろうか。
アレクシスは沈黙の中で、ひとり思考の海に沈んでいた。
「……殿下」
背後から、静かな声が割り込んだ。
その一言が、深く沈んだ意識を水面へと引き戻す。
「……ああ。大丈夫だ」
立っていた護衛は、手にしていた書類の束を差し出した。
「ヴェル様の出自について、調べがつきました」
「……珍しく、時間がかかったな」
「申し訳ありません。十年前の事件に関与しており、王国によって意図的に隠蔽されていました。関係者の記録も抹消。痕跡の洗い出しに時間を要しました」
「……そうか。ご苦労だった」
アレクシスはそれを受け取り、黙って目を通す。
一文に目が留まり――思わず、息を呑んだ。
「……これは……」
護衛は淡々と告げる。
「ヴェル様は、現国王陛下が侍女に産ませた子――妾腹の姫君です。
正式な名は、イヴェルナ・ルミエール様」
十八年前。
聖女が誕生したその少し後、もうひとりの王女として生を受け、八歳まで城に暮らしていたという。
だが――
「十年前、“厄災の魔女”の烙印を押され、
その証として、あの首輪をつけられたそうです。
以降、魔物を呼ぶ存在として、母君とともに塔に幽閉されました」
アレクシスは低く問う。
「……彼女は、本当に“何か”を?」
護衛は静かに首を振る。
「いいえ。
少なくとも、確たる証拠は一切存在しません」
ただの言いがかり。
理不尽な罪。
アレクシスの胸に、じわりと鈍い痛みが広がっていく。
「……母親は?」
「幽閉から一月後、原因不明の病で急逝。
その日を境に、イヴェルナ様のもとに近づく者は誰ひとりいなくなりました」
――小さな声が、ふと蘇る。
『……小さいころ。
これが来るたびに、お母さまに抱きついてたの』
『お母さまは、しょう気にいっぱいさわって……死んだわ』
自分が原因で、母が死んだ。
そう信じて、少女は生きてきた。
誰にも触れられず、誰にも声をかけられず。
ただ冷たい塔の中で、十年もの歳月を――
「さらに、イヴェルナ様は“不死の体ゆえ、食事も不要”とされ……誰ひとり、食べ物を与えなかったと――」
アレクシスは絶句した。
食事も、水も、何も与えられずに――
十年間、生かされたまま、独りきりで。
初めて屋敷で食事をした時、震えながらスープを口に運んだヴェルの姿が、胸によみがえる。
あのときの、あまりにも無垢な笑顔が、
今、ひどく痛ましく思えた。
「……なんてことだ」
アレクシスは静かに拳を握りしめた。
想像を超える孤独と残酷。
胸の奥に、怒りと悲しみがせり上がる。
――なぜ、そんな仕打ちを。
「……殿下」
護衛の控えめな声が、揺れる感情を現実に引き戻した。
アレクシスは目を閉じ、ひとつ、深く息を吐く。
今は冷静に考えなければ。
感情ではなく、正しい道を――
ゆっくりと瞳を開き、護衛に目を向ける。
「……続けてくれ」
「月に一度、兵士が“血”を採取していたそうです」
「……その血は、何に使われていた?」
低く問うと、護衛は首を振った。
「そこまでは不明です。ただ……
聖女様の側近に、必ず渡していたとのことです」
アレクシスの眉がわずかに動く。
「……側近?」
「長身で、黒いローブを身にまとった男。
十一年前から、聖女様のそばに仕えているようですが……
誰ひとり、その素顔を見た者はいません」
脳裏に浮かぶ。
無言でルクレツィアの背後に立っていた、あの男――
静かに、存在そのものを溶け込ませながら、
常に“見ていた”ような視線を放っていた。
(……あいつか)
嫌な予感が、確かに胸に広がる。
「……その側近、もっと詳しく探れ。必ず、何かある」
「御意」
短く頷くと、護衛の気配は音もなく消えていった。
部屋に再び、静寂が戻る。
けれどアレクシスの胸の中では、嵐のような感情が渦を巻いていた。
「……ヴェル」
小さな少女が、ある日突然“魔女”と呼ばれ、誰にも救われることなく、塔に幽閉された。
想像を絶する孤独と痛みの中で、どれほど心を擦り減らしてきたのか――。
八歳になるまで、普通に城で暮らしていたというのに。
そのとき、ふと記憶の底から、ひとつの光景が浮かび上がる。
七歳のあの日。
王宮の中庭。
突如現れた魔物に、幼い自分は為す術もなく立ち尽くしていた。
恐怖に凍りついた視界の中――
銀の髪がふわりと舞い、まばゆい光がすべてを包んだ。
裂かれた腕の痛みさえ忘れるほど、美しく、優しい光。
その中心で、静かに佇む少女がいた。
淡い水色に、かすかに紫を帯びた瞳。
透き通るような白い肌。
そして――震えるように差し出された、小さな手。
その手が、傷ついた自分にそっと触れた瞬間――
胸が、強く脈打つ。
……まさか。
あれは――
──『記憶』と「ヴェルが治癒魔法で腕を治してくれた時」の情景が、静かに重なる。
*
『……だいじょうぶ?』
「……大丈夫?」
小さな手が、同じように傷に触れる。
じんわりと、温もりが広がっていく。
『……いたくない』
「うん。……痛くない」
思わず、同じ言葉が口をつく。
そして――
『「……よかった」』
少女が、ふっと微笑んだ。
*
ヴェルと、あの日の少女の微笑みが、ぴたりと重なった。
「あれは……まさか、ヴェルだったのか?」
思わず息を呑む。
ひとつ、またひとつ――断片が頭の中で繋がっていく。
第一王女ルクレツィアのすぐ後に生まれた、もう一人の王女。
――イヴェルナ・ルミエール。
もし彼女も、“聖女”だったとしたら――。
広大な結界。優れた治癒魔法。
それらは、古い文献に記された“先代聖女”の力と、確かに一致していた。
だが、腑に落ちないことがある。
(……魔物を撃破する“聖なる光”を使っているのは、ルクレツィアだ。
でも――ヴェルも俺を救ったとき、確かに光を放っていた。
それなのに、今の彼女には、その力が見られない。なぜだ?)
そして、もうひとつ――より本質的な疑問が胸をよぎる。
(そもそも、“聖女”は歴史上一度にひとりしか存在しない。
その力は代々、ただ一人にだけ継承されてきたはず。
ならば、二人の“聖女”が同時に存在することなど……ありえない)
違和感が胸を占めていく。
(魔物を撃破する力しか使えないルクレツィアは、本当に“聖女”なのか?
むしろ――すべての力を備えていたヴェルこそが、“本物”では……?)
ルクレツィアが“聖女”と称されるようになったのは、十一年前――
アレクシスを助けた、あの日を境にだった。
そして、“聖なる光”で魔物を討伐し始めたのは、その一年後。――十年前だ。
(十年前……)
脳裏に、護衛の報告が蘇る。
『十年前、“厄災の魔女”の烙印を押され、
その証として、あの首輪をつけられたそうです』
(まさか……)
――すべては、そこから始まったのだとしたら。
時折、淡く光る首輪。
光るたびに、ヴェルの体を蝕んでいた瘴気。
(……あの首輪に、何かある)
胸の奥に重く広がっていく、疑念と怒り。
アレクシスは、そっと目を閉じる。
「……ヴェルと旅に出よう」
これは、彼女の願いを叶えるためだけの旅ではない。
――真実を知るための旅だ。
そしてその先に、
彼女の「光」が取り戻せる道があるのなら――
迷いなく、進む。
その決意を胸に刻んだ瞬間。
静かに積み上げてきたはずの思考が、ふと揺らいだ。
七歳のあの日。
光の中で、まぶしげに笑った少女。
その時から、ずっと焦がれ続けていた――それが、ヴェルだったのだと。
その事実が胸を打った瞬間、心の奥で何かがはじけた。
これまで“聖女を守る騎士”として抑えてきた想いに、もう理由は必要なかった。
彼女は、本物の聖女だった。
誰よりも尊く、そして、誰よりも大切な――たった一人の存在。
そう確信したとき、胸の奥に押し込めていた感情が、堰を切ったようにあふれ出す。
――会いたい。
あの瞳に。
あの声に。
あの、あたたかいぬくもりに。
愛しさが込み上げる。
どうしようもなく、彼女の顔が見たくなる。
いてもたってもいられず、アレクシスは勢いよく席を立った。
「……ヴェル」
名前を呼ぶ声が、ほんの少し震えていた。
――ただ、会いたい。
それだけが、すべてだった。
* * *
「ヴェル!」
荒く扉を開け、アレクシスが駆け込む。
息が上がっている。頬は紅潮し、胸は激しく上下していた。
「ア、アレク様……?」
ヴェルはベッドのそばで本を抱えたまま、呆然と振り返る。
その瞳に浮かぶのは、驚きと、戸惑いと――かすかな不安。
アレクシスは一歩、彼女に近づいた。
「さっきは……すまなかった」
真っ直ぐな声。
戸惑いを振り払うように、まっすぐに彼女を見つめる。
「一緒に行こう。旅に出よう。
君の首輪のこと、俺も一緒に調べたい」
「えっ……アレク様も?」
ヴェルは目を瞬かせる。
「もちろんだ」
それだけ言って、彼はヴェルを抱きしめた。
決して離さないと誓うように。
優しく両腕で包み込む。
「君をひとりでは行かせない。
――これからは、俺が守る。絶対に、一人にはさせない」
ヴェルの目が、大きく見開かれた。
驚き、戸惑い、信じたくても信じられない感情が、ゆっくりとその瞳に滲んでいく。
「そんな……」
声は、かすれるように小さく。
そして、
ヴェルの瞳に、ふわりと涙が浮かんだ。
こらえようとしても、堪えきれない。
熱が、頬を伝う。
「アレク様は……優しすぎます」
ぽつりと零れた言葉は、どこか諦めにも似た、自嘲の響きを帯びていた。
ヴェルには分かっていた。
この人の優しさは、誰かを見捨てられない優しさだ。
哀れな魔女が放っておけないだけだ。
恋でも愛でもなく――ただ、慈悲から来るものなのだと。
それでも。
それでも、彼の腕の中はあたたかかった。
ヴェルは、そっと顔をうずめる。
震える指が、彼の服をつかむ。
――ただの勘違いでいい。
今だけ、夢を見させてほしい。
傷ついた心に、少しだけ、光が差した気がした。
ボロボロの魂が、もう一度立ち上がれるように。
今だけは、すがりたかった。
そして、彼の鼓動の中に身をゆだねながら、
ヴェルは、声もなく泣いた。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
次回エピソード
* 魔道具の街 *
よろしくお願いいたします。