* 聖女の訪問 *
ある日、聖女ルクレツィアが、護衛を伴い、初めてこの屋敷を訪れた。
玄関ホールに足を踏み入れる彼女の姿は、変わらぬ気品と華やかさをまとっている。
アレクシスは静かに歩み寄り、丁寧に頭を下げた。
ルクレツィアは微笑み、まるで何でもない世間話のように、さらりと言った。
「突然お邪魔してごめんなさいね。ちょっと市井に用事があったものだから……ついでに、血をいただきに参りましたわ」
あまりにも自然に告げられた言葉に、使用人たちは息を呑む。
だが、アレクシスは微かに笑みを浮かべ、落ち着いた声で応じた。
「お待ちください。すぐにご用意します」
そのまま静かに踵を返し、奥へと向かっていった。
本を抱えたヴェルが、玄関ホールを横切ろうとしていた。
ルクレツィアと、目が合う。
その瞬間、空気が凍りついたかのように静まり返る。
ルクレツィアの視線が、無言のままヴェルを射抜く。
ヴェルは思わず本を抱きしめ、柱の陰へと身を隠した。
ほどなくして戻ってきたアレクシスは、瓶に入った血を差し出した。
「お待たせしました」
ルクレツィアがそれを受け取ろうとした、そのときだった。
彼女は、ふと思いついたかのように微笑み、静かに一歩、アレクシスに近づいた。
「……聖女様?」
「アレクシス様、そろそろ婚約しましょう。聖女と騎士は結ばれる運命なのですから。
これ以上、先延ばしにはできませんわ」
それは、ずっと言われ続けてきたことだった。
聖女と騎士が結ばれる――それが、国の安定と象徴になるという“常識”。
だが、その言葉を受け取った瞬間――
胸の奥に、微かな痛みが走った。
(……?)
以前なら、当然のように頷けたはずなのに。
今は、言葉がすぐに出てこない。
「……いえ、まだ……魔女の件が解決していません」
自分でも驚くほど、ためらいの色がにじむ声だった。
「アレクシス……"あれ"はもう、あなたに心を開いているのでしょう?
捕らえるのは簡単なはず。今すぐ塔に閉じ込めてしまいましょう。
……いつまでもこうして、わたくし達が引き裂かれるなんて、そんなこと、あってはならないわ」
声こそ穏やかだが、その奥にある焦りが、アレクシスの胸を鈍く締めつける。
「しかし……」
言いかけた言葉が止まる。
何を言いたいのか、自分でもはっきりとは分からなかった。
その曖昧さに苛立ったように、ルクレツィアが言葉を強める。
「民を苦しめる“厄災の魔女”が、平気な顔で暮らしているなんて、おかしいでしょう?
"あれ"が、あなたから施しを受けるなんて――耐えられませんわ」
ルクレツィアの声は静かだったが、その奥には確かな怒りと、揺れる感情があった。
アレクシスはまっすぐに彼女を見つめ、静かに言葉を返す。
「……俺も、屋敷の者たちも見ています。
彼女が魔物を呼んだことは、一度もない。
あなたを襲う気配もない。――事実だけを見れば、今の彼女は、ただ静かに暮らす、ひとりの少女です」
それは、偽りのない本心だった。
言葉にしながら、胸の奥が熱を帯びる。
「……それでも、魔女は魔女。民の脅威なのです」
冷たく返されたその声に、アレクシスは言葉を失う。
「あなた……まさか、あの魔女に心を寄せているわけではありませんわよね?」
その瞬間、アレクシスの心がかすかに揺れた。
(……心を、寄せている?)
いいや、そんなはずはない――
そう反射的に否定しようとした。けれど――
言葉が、喉の奥で止まった。
なぜか、それができなかった。
ルクレツィアが、じっと彼を見つめる。
戸惑いを湛えたまなざしで。
「アレクシス……? 本当に……?」
震えるように問うその声に、アレクシスは顔を背けた。
「どうして……?」
ルクレツィアが、ほんのかすかな声で言う。
「わたくしを……命に代えても守ると、言っていたのに……!」
その言葉に、胸が軋む。
痛みのような感情が、全身に広がっていく。
(……聖女様の言うとおりだ)
あの日、命を救われたあの光景は、今でも目に焼きついている。
彼女の光が、俺を照らしてくれた。
あのときから、ずっと――俺はこの人のために剣を振るってきた。
自分のこの命は、彼女に捧げるためにある――
そう、何度も誓ってきた。
だが今、その誓いが揺らぎ、彼女を不安にさせている。
――こんなこと、あってはならないのに。
ルクレツィアがアレクシスの胸に飛び込むように身を寄せた。
「目を覚ましなさい。アレクシス。
あなたが結ばれるべきは、この"わたくし"ですわ。
それが、この世界の、そして民のためでもあるのですから」
その言葉に、アレクシスは腕を伸ばしかける。
――彼女を抱きしめて、安心させるのが正しいのだろう。
それが、“騎士”としての正解なのだ。
でも、俺が守りたいのは――
ペンダントを差し出すときの無邪気な笑顔。
頬を染め、目をそらす仕草。
額にそっと唇を寄せたとき、自分でも知らなかった想いがあふれそうになった、あのぬくもり――
(だめだ。こんな気持ちで……聖女様を、民を、犠牲にするなど!)
思わず首を振る。
胸の奥で渦巻く迷いを、力ずくで押さえ込むように。
「……分かっています。
魔女に心を寄せるなど――ありえません」
わずかに、声が震えた。
アレクシスはその揺らぎを封じるように、ルクレツィアをそっと抱きしめる。
「俺が守ると誓ったのは……聖女様、貴女です。
その誓いを裏切るようなことは――決してしません」
逃げ場のない思いを封じ込めるように、抱く腕に静かに力を込めた。
「……それが、俺の使命ですから」
――それが、正しさなのだと。
自分に、必死に言い聞かせながら。
*
柱の陰に身を潜めていたヴェルは、二人のやり取りを静かに見ていた。
目を伏せ、胸に抱えた本を強く握りしめる。
かすかに震える指先。
心の奥で、何かが音を立てて崩れていった。
全身が悲鳴をあげる。
言葉にならない痛みが、胸を、身体を、じわじわと蝕んでいく。
焼けつくような苦しみが、容赦なく、ヴェルを支配する。
――でも、泣いてはいけない。
声に出したら、すべてが壊れてしまうから。
だから彼女は、痛みに蓋をした。
俯いたまま、そっと踵を返す。
足音ひとつ立てず、静かに、その場を離れていく。
彼女の気配が、淡くなっていく。
彼女がいたことさえ、すべて夢だったかのように、
何もなかったように――消えてしまいそうだった。
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次回エピソード
* 動き出した想い *
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