* 恋の芽生え *
三カ月が過ぎ――
ヴェルはすっかり言葉を覚え、今では滑らかに話すようになっていた。
屈託のない笑顔を浮かべることも増え、その明るい声は、屋敷の空気をふんわりと和らげていく。
無邪気な笑みがひとつあるだけで、重苦しかった空気がほどけていく。
それは、まるで春の光のように柔らかで、ささやかな奇跡のようでもあった。
勉強にも熱心だった。
一通りの言葉を習得すると、今度は自ら図書室にこもり、本を手に黙々と読みふけるようになった。
最初こそ分からない言葉を見つけるたびに戸惑い、アレクシスやルイスに質問していたが、
やがて彼女の問いは日ごとに難しく、鋭くなり――
今では、ほとんどのことを自分の力で理解するまでになっていた。
そして何より――
その姿そのものが、目に見えて変わっていた。
かつては骨ばった細い腕に、怯えた目をしていた少女が、
今では血色を取り戻し、頬もうっすらと紅を差し、瞳には確かな光が宿っている。
痩せ細っていた体は、日に日に丸みを帯び、
小さかった背も少しずつ伸びて、しなやかで美しい輪郭を形づくっていった。
今の彼女は、もう”儚げな少女”ではない。
見る者の息をふと止めさせる、凛とした気配と美しさを纏っていた。
その変化に、屋敷の者たちも気づかぬはずがなかった。
最初は驚き、やがて自然と目を向けるようになり、
今では誰もが、彼女の存在を一人の「淑女」として認め始めていた。
噂は、静かに広まりはじめている。
――アレクシス殿下が迎えた娘は、まるで月の姫のようだ、と。
* * *
それは、昼下がりの柔らかな陽射しが差し込む、穏やかな時間だった。
書斎で資料を整えていたアレクシスのもとへ、弾むような足取りでヴェルがやってくる。
「アレク様。ちょっとだけ、お時間よろしいですか?」
ふだんより声が弾んでいる。
彼女は両手でそっと、小さな布包みを差し出した。
「ふふ……できました。ついに完成です」
アレクシスが振り向くと、ヴェルの頬はほんのり上気しており、目はきらきらと輝いていた。
「これは……?」
「簡単な魔道具です。昨日、やっと完成して!
疲労を少しだけ癒す効果を込めた、回復のペンダントなんです。
アレク様、お忙しいでしょう? 少しでも、お力になれたらと思って……」
その声も仕草も、どこか嬉しそうで、誇らしげで――
“役に立てること”への喜びが、全身からあふれていた。
アレクシスはふっと笑い、ペンダントを手に取る。
「……ありがとう。嬉しいよ。つけてもいいかな?」
「はいっ、ぜひ……!」
弾んだ声で答えたヴェルは、すぐに手を伸ばし、アレクシスの首元へペンダントをかけていく。
指先が、かすかに彼の肌に触れた。
その一瞬のあたたかさに、はっとする。
心がふわりとざわついた。
思い出したように、ヴェルは少しだけ真顔になって口を開いた。
「……あの、効果がちゃんと発動してるか、確認してもいいですか?
左の鎖骨の下あたりに、手を添えたいのですが……」
「もちろん。どうぞ」
快く頷かれて、ヴェルはほんの少し緊張しながら、彼の胸元へそっと手のひらをあてた。
静かに、魔力の感触を探る。
(……うん。流れてる。ちゃんと、癒しの力が働いてる……)
安心した次の瞬間――
ふと、彼の匂いがした。
(……っ)
落ち着いた横顔。なめらかな喉元。
指先から伝わる、しっかりとした体温。
(……ち、近い……)
じわじわと、心臓が高鳴り出す。
「ば、ばっちりです! 効果、ちゃんと出てました!」
慌てて手を引っ込めて、一歩下がる。
すると――
「失礼いたします」
書斎の扉がノックもなく開き、ナタリーが湯気の立つティーセットを運んできた。
「お茶をお持ちしました。机に置いておきますね」
「ありがとう、ナタリー」
ナタリーはふとヴェルに視線を向け、問いかけた。
「そういえばヴェル様。
今朝――首輪が光った件については、もうご相談なさいましたか?」
「えっ……!」
ヴェルは、はっと目を見開く。
(そうだった……その相談も、しに来たんだった……)
けれど今、抱きしめられたら――
「……そうなのか? ヴェル」
アレクシスがやさしく声をかける。
「は、はい……今朝、少しだけ……」
ナタリーはそれを聞いて深く一礼し、静かに退室した。
「お気をつけて」
扉が閉まり、ふたたび静寂が戻る。
「……そろそろか?」
「……だと思います」
ヴェルが小さく頷いたそのとき――
「分かった。おいで」
アレクシスはいつものように両腕を広げ、やわらかく迎える。
けれど。
(……ど、どうしよう。今、行ったら……)
ふだんならすぐに飛び込めるその腕が、今日は遠く感じた。
胸がどくん、どくんと暴れて、足がすくむ。
アレクシスが小さく笑い、ゆっくりと歩み寄った。
「心配してるの? 大丈夫だよ」
そう言って――
ためらうヴェルを、優しく、しっかりと抱き寄せた。
「……っ!」
体が触れ合った瞬間、ヴェルの心臓が大きく跳ねる。
(ち、近い……)
さっきよりも、ずっと深く、しっかりとした抱擁。
包み込む腕の力。
すぐそこにある彼の胸の音。
そして、やさしくてあたたかい匂いが――ヴェルをふわりと包んでいく。
思わず身じろぎした瞬間、彼の顔が近づき、ふと目が合った。
「ヴェル……大丈夫か? 顔が赤い。熱でも?」
その声音に、また心が跳ねる。
男の人の声。低く、あたたかくて、真っ直ぐで。
その瞳に、やさしさと強さが宿っていて。
見つめられるだけで、呼吸が浅くなる。
(や、やだ……見ないで……)
必死に目をそらそうとするのに、できない。
まっすぐに絡まる視線。
息が止まりそうになる。
「い、いえっ! なんともありませんっ!」
あわてて顔をそむけ、裏返った声で言った。
でも、彼の目はずっと――変わらずやさしく、自分だけを見つめていた。
(だめ、心臓が……こんなに、うるさい……)
頬が熱くてたまらず、ヴェルは目を伏せて胸元の布をぎゅっと握りしめた。
そのとき。
闇の気配が、ふわりと生まれた。
黒い瘴気が、ヴェルに向かって渦巻く。
だが。
その一瞬――
ふたりを包むように、あたたかな光が舞い上がる。
瘴気はまるで溶けるように、音もなく霧散していった。
「……消えたみたいだね。よく頑張ったね」
アレクシスはそう言うと、ヴェルの額に――そっと、唇を触れさせた。
「……!」
一瞬で、全身が熱を帯びる。
ヴェルは驚いて、反射的にアレクシスから身体を離した。
けれど、顔を上げることはできない。
頬が、心臓が、あまりにも熱くて――
「……はい。ありがとうございます……っ」
なんとかそれだけ言って、一礼し、足早に部屋を後にした。
扉が閉まるまで、アレクシスの顔は見なかった。
(……だめ、顔、見られたら……)
胸の奥で、鳴り止まない鼓動。
それが、どうか彼に聞こえていませんように――
* * *
アレクシスは、書斎の椅子に座り考え込んでいた。
先程ヴェルからもらったペンダントに触れ、
少し前の出来事を思い出す。
*
ナタリーが退室したあたりから、ヴェルの様子がおかしかった。
「……そろそろか?」
「……だと思います」
ヴェルが小さく頷いたのを見て、アレクシスはいつものように両腕を広げた。
「分かった。おいで」
彼女がこの屋敷に来てから、こうして何度も瘴気を祓ってきた。
触れればすぐに光が生まれ、瘴気が霧散する――そんな日常のひとつだった。
けれど、今日は――
何かが、違った。
ヴェルは、こちらに来ない。
じっとこちらを見つめたまま、足が動かないようだった。
(……?)
戸惑うように揺れるまなざし。
まるで、何かを怖れているようで、でも――拒んでいるわけでもない。
(俺が瘴気を浴びるのを心配している?)
アレクシスはやわらかく微笑んで、彼女のそばへゆっくりと歩み寄った。
「心配してるの? 大丈夫だよ」
そう言って――ためらうヴェルを、そっと、抱き寄せた。
「……っ」
彼女の小さな体が腕の中にすっぽりと収まる。
(……細い。でも、あたたかい)
柔らかな髪が肩にふれて、仄かに甘い香りがした。
その瞬間、自分の胸が、かすかに鳴った気がした。
(……?)
これまでも、彼女を時々襲う瘴気が発生するたびに、何度も抱きしめてきた。
いつもの習慣だった。
けれど、今は違う。
さっきから、ずっと――ヴェルの心臓の音が聞こえる気がする。
どくん、どくんと、小刻みに、でも必死に打ち続ける音。
(……怖がってるのか?)
違う。これは――
ふと、彼女が身じろぎした瞬間、顔が近づいた。
視線が、重なる。
ヴェルの顔が赤くなっている。
水色の瞳が熱に浮かされたように潤んでいた。
「ヴェル……大丈夫か? 顔が赤い。熱でも?」
そう問いかけながら、自然と彼女の頬に視線が吸い寄せられた。
ほんのり染まった肌。伏せられた睫毛。震える唇。
目が合うと、ヴェルの肩がぴくりと震えた。
(……ヴェル?)
彼女は――俺を、見ている。
でも、見つめ返すと、なぜか目をそらしてしまう。
まるで、何かを知られたくないみたいに。
「い、いえっ! なんともありませんっ!」
裏返った声。慌てて顔を背ける動作。
それが、あまりに不自然で――
……愛おしい、と思ってしまった。
その瞬間、自分の胸が強く鳴った。
信じたくて、でも信じたくないような、奇妙なざわめきが胸をかき立てる。
見つめたくなる。触れていたくなる。
彼女が俺の腕の中にいる。それが、妙に自然で――
(……心地いい……)
ヴェルがぎゅっと胸元の布を握りしめたとき、空気が揺れた。
黒い瘴気が、彼女の周囲にふわりと渦巻く。
――だが、その瞬間。
あたたかな光が、ふたりを包み込んだ。
瘴気は、音もなく溶けるように消えていく。
(……ああ、このままずっと……)
今――この腕の中にいる彼女を、もう誰にも渡したくない。
そんな思いが、ふと胸に生まれた。
「……消えたみたいだね。よく頑張ったね」
その言葉とともに、彼はそっとヴェルの額に顔を寄せ――
唇が、柔らかな額に触れた。
彼の胸の奥で、何かが音を立ててほどけた。
「……!」
ヴェルがびくんと小さく震え、驚いたように身を引く。
(あ……)
我に返る。
彼女が顔を上げられないほど動揺しているのが、伝わってきた。
(……まずい、これは……)
「……はい。ありがとうございます……っ」
絞り出すようにそう言って、ヴェルは一礼すると、足早に部屋を後にした。
*
アレクシスは、ペンダントを見つめたまま、静かに息を吐いた。
(……なぜ、あんなことを)
額へのキス。それは労いや、祈りのようなものだ。
何もおかしくはない――はずだった。
(嫌だっただろうか)
そう考えて、胸が少し痛んだ。
知りたいと思った。
彼女の気持ちを。
(……知って、どうする)
ただ、守ってやりたい。
できる限り、力になりたい。
それだけのはずなのに――
なぜか、自分の胸の奥が、妙に落ち着かなかった。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
次回エピソード
* 聖女の訪問 *
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