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7/21

* 恋の芽生え *

三カ月が過ぎ――


ヴェルはすっかり言葉を覚え、今では滑らかに話すようになっていた。

屈託のない笑顔を浮かべることも増え、その明るい声は、屋敷の空気をふんわりと和らげていく。


無邪気な笑みがひとつあるだけで、重苦しかった空気がほどけていく。

それは、まるで春の光のように柔らかで、ささやかな奇跡のようでもあった。


勉強にも熱心だった。

一通りの言葉を習得すると、今度は自ら図書室にこもり、本を手に黙々と読みふけるようになった。


最初こそ分からない言葉を見つけるたびに戸惑い、アレクシスやルイスに質問していたが、

やがて彼女の問いは日ごとに難しく、鋭くなり――

今では、ほとんどのことを自分の力で理解するまでになっていた。


そして何より――

その姿そのものが、目に見えて変わっていた。


かつては骨ばった細い腕に、怯えた目をしていた少女が、

今では血色を取り戻し、頬もうっすらと紅を差し、瞳には確かな光が宿っている。


痩せ細っていた体は、日に日に丸みを帯び、

小さかった背も少しずつ伸びて、しなやかで美しい輪郭を形づくっていった。


今の彼女は、もう”儚げな少女”ではない。

見る者の息をふと止めさせる、凛とした気配と美しさを纏っていた。


その変化に、屋敷の者たちも気づかぬはずがなかった。

最初は驚き、やがて自然と目を向けるようになり、

今では誰もが、彼女の存在を一人の「淑女」として認め始めていた。


噂は、静かに広まりはじめている。


――アレクシス殿下が迎えた娘は、まるで月の姫のようだ、と。



* * *



それは、昼下がりの柔らかな陽射しが差し込む、穏やかな時間だった。


書斎で資料を整えていたアレクシスのもとへ、弾むような足取りでヴェルがやってくる。


「アレク様。ちょっとだけ、お時間よろしいですか?」


ふだんより声が弾んでいる。

彼女は両手でそっと、小さな布包みを差し出した。


「ふふ……できました。ついに完成です」


アレクシスが振り向くと、ヴェルの頬はほんのり上気しており、目はきらきらと輝いていた。


「これは……?」


「簡単な魔道具です。昨日、やっと完成して!

疲労を少しだけ癒す効果を込めた、回復のペンダントなんです。

アレク様、お忙しいでしょう? 少しでも、お力になれたらと思って……」


その声も仕草も、どこか嬉しそうで、誇らしげで――

“役に立てること”への喜びが、全身からあふれていた。


アレクシスはふっと笑い、ペンダントを手に取る。


「……ありがとう。嬉しいよ。つけてもいいかな?」


「はいっ、ぜひ……!」


弾んだ声で答えたヴェルは、すぐに手を伸ばし、アレクシスの首元へペンダントをかけていく。


指先が、かすかに彼の肌に触れた。


その一瞬のあたたかさに、はっとする。


心がふわりとざわついた。


思い出したように、ヴェルは少しだけ真顔になって口を開いた。


「……あの、効果がちゃんと発動してるか、確認してもいいですか?

左の鎖骨の下あたりに、手を添えたいのですが……」


「もちろん。どうぞ」


快く頷かれて、ヴェルはほんの少し緊張しながら、彼の胸元へそっと手のひらをあてた。


静かに、魔力の感触を探る。


(……うん。流れてる。ちゃんと、癒しの力が働いてる……)


安心した次の瞬間――


ふと、彼の匂いがした。


(……っ)


落ち着いた横顔。なめらかな喉元。

指先から伝わる、しっかりとした体温。


(……ち、近い……)


じわじわと、心臓が高鳴り出す。


「ば、ばっちりです! 効果、ちゃんと出てました!」


慌てて手を引っ込めて、一歩下がる。


すると――


「失礼いたします」


書斎の扉がノックもなく開き、ナタリーが湯気の立つティーセットを運んできた。


「お茶をお持ちしました。机に置いておきますね」


「ありがとう、ナタリー」


ナタリーはふとヴェルに視線を向け、問いかけた。


「そういえばヴェル様。

今朝――首輪が光った件については、もうご相談なさいましたか?」


「えっ……!」


ヴェルは、はっと目を見開く。


(そうだった……その相談も、しに来たんだった……)


けれど今、抱きしめられたら――


「……そうなのか? ヴェル」


アレクシスがやさしく声をかける。


「は、はい……今朝、少しだけ……」


ナタリーはそれを聞いて深く一礼し、静かに退室した。


「お気をつけて」


扉が閉まり、ふたたび静寂が戻る。


「……そろそろか?」


「……だと思います」


ヴェルが小さく頷いたそのとき――


「分かった。おいで」


アレクシスはいつものように両腕を広げ、やわらかく迎える。


けれど。


(……ど、どうしよう。今、行ったら……)


ふだんならすぐに飛び込めるその腕が、今日は遠く感じた。


胸がどくん、どくんと暴れて、足がすくむ。


アレクシスが小さく笑い、ゆっくりと歩み寄った。


「心配してるの? 大丈夫だよ」


そう言って――

ためらうヴェルを、優しく、しっかりと抱き寄せた。


「……っ!」


体が触れ合った瞬間、ヴェルの心臓が大きく跳ねる。


(ち、近い……)


さっきよりも、ずっと深く、しっかりとした抱擁。


包み込む腕の力。

すぐそこにある彼の胸の音。

そして、やさしくてあたたかい匂いが――ヴェルをふわりと包んでいく。


思わず身じろぎした瞬間、彼の顔が近づき、ふと目が合った。


「ヴェル……大丈夫か? 顔が赤い。熱でも?」


その声音に、また心が跳ねる。


男の人の声。低く、あたたかくて、真っ直ぐで。


その瞳に、やさしさと強さが宿っていて。


見つめられるだけで、呼吸が浅くなる。


(や、やだ……見ないで……)


必死に目をそらそうとするのに、できない。


まっすぐに絡まる視線。


息が止まりそうになる。


「い、いえっ! なんともありませんっ!」


あわてて顔をそむけ、裏返った声で言った。


でも、彼の目はずっと――変わらずやさしく、自分だけを見つめていた。


(だめ、心臓が……こんなに、うるさい……)


頬が熱くてたまらず、ヴェルは目を伏せて胸元の布をぎゅっと握りしめた。


そのとき。


闇の気配が、ふわりと生まれた。


黒い瘴気が、ヴェルに向かって渦巻く。


だが。


その一瞬――

ふたりを包むように、あたたかな光が舞い上がる。


瘴気はまるで溶けるように、音もなく霧散していった。


「……消えたみたいだね。よく頑張ったね」


アレクシスはそう言うと、ヴェルの額に――そっと、唇を触れさせた。


「……!」


一瞬で、全身が熱を帯びる。


ヴェルは驚いて、反射的にアレクシスから身体を離した。


けれど、顔を上げることはできない。

頬が、心臓が、あまりにも熱くて――


「……はい。ありがとうございます……っ」


なんとかそれだけ言って、一礼し、足早に部屋を後にした。


扉が閉まるまで、アレクシスの顔は見なかった。


(……だめ、顔、見られたら……)


胸の奥で、鳴り止まない鼓動。

それが、どうか彼に聞こえていませんように――



* * *



アレクシスは、書斎の椅子に座り考え込んでいた。

先程ヴェルからもらったペンダントに触れ、

少し前の出来事を思い出す。





ナタリーが退室したあたりから、ヴェルの様子がおかしかった。


「……そろそろか?」


「……だと思います」


ヴェルが小さく頷いたのを見て、アレクシスはいつものように両腕を広げた。


「分かった。おいで」


彼女がこの屋敷に来てから、こうして何度も瘴気を祓ってきた。

触れればすぐに光が生まれ、瘴気が霧散する――そんな日常のひとつだった。


けれど、今日は――


何かが、違った。


ヴェルは、こちらに来ない。

じっとこちらを見つめたまま、足が動かないようだった。


(……?)


戸惑うように揺れるまなざし。

まるで、何かを怖れているようで、でも――拒んでいるわけでもない。


(俺が瘴気を浴びるのを心配している?)


アレクシスはやわらかく微笑んで、彼女のそばへゆっくりと歩み寄った。


「心配してるの? 大丈夫だよ」


そう言って――ためらうヴェルを、そっと、抱き寄せた。


「……っ」


彼女の小さな体が腕の中にすっぽりと収まる。


(……細い。でも、あたたかい)


柔らかな髪が肩にふれて、仄かに甘い香りがした。

その瞬間、自分の胸が、かすかに鳴った気がした。


(……?)


これまでも、彼女を時々襲う瘴気が発生するたびに、何度も抱きしめてきた。

いつもの習慣だった。


けれど、今は違う。


さっきから、ずっと――ヴェルの心臓の音が聞こえる気がする。

どくん、どくんと、小刻みに、でも必死に打ち続ける音。


(……怖がってるのか?)


違う。これは――


ふと、彼女が身じろぎした瞬間、顔が近づいた。


視線が、重なる。


ヴェルの顔が赤くなっている。

水色の瞳が熱に浮かされたように潤んでいた。


「ヴェル……大丈夫か? 顔が赤い。熱でも?」


そう問いかけながら、自然と彼女の頬に視線が吸い寄せられた。


ほんのり染まった肌。伏せられた睫毛。震える唇。

目が合うと、ヴェルの肩がぴくりと震えた。


(……ヴェル?)


彼女は――俺を、見ている。

でも、見つめ返すと、なぜか目をそらしてしまう。

まるで、何かを知られたくないみたいに。


「い、いえっ! なんともありませんっ!」


裏返った声。慌てて顔を背ける動作。

それが、あまりに不自然で――


……愛おしい、と思ってしまった。


その瞬間、自分の胸が強く鳴った。

信じたくて、でも信じたくないような、奇妙なざわめきが胸をかき立てる。


見つめたくなる。触れていたくなる。

彼女が俺の腕の中にいる。それが、妙に自然で――


(……心地いい……)


ヴェルがぎゅっと胸元の布を握りしめたとき、空気が揺れた。


黒い瘴気が、彼女の周囲にふわりと渦巻く。


――だが、その瞬間。


あたたかな光が、ふたりを包み込んだ。


瘴気は、音もなく溶けるように消えていく。


(……ああ、このままずっと……)


今――この腕の中にいる彼女を、もう誰にも渡したくない。

そんな思いが、ふと胸に生まれた。


「……消えたみたいだね。よく頑張ったね」


その言葉とともに、彼はそっとヴェルの額に顔を寄せ――


唇が、柔らかな額に触れた。


彼の胸の奥で、何かが音を立ててほどけた。


「……!」


ヴェルがびくんと小さく震え、驚いたように身を引く。


(あ……)


我に返る。


彼女が顔を上げられないほど動揺しているのが、伝わってきた。


(……まずい、これは……)


「……はい。ありがとうございます……っ」


絞り出すようにそう言って、ヴェルは一礼すると、足早に部屋を後にした。





アレクシスは、ペンダントを見つめたまま、静かに息を吐いた。


(……なぜ、あんなことを)


額へのキス。それは労いや、祈りのようなものだ。

何もおかしくはない――はずだった。


(嫌だっただろうか)


そう考えて、胸が少し痛んだ。


知りたいと思った。

彼女の気持ちを。


(……知って、どうする)


ただ、守ってやりたい。

できる限り、力になりたい。


それだけのはずなのに――

なぜか、自分の胸の奥が、妙に落ち着かなかった。

ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。


次回エピソード

* 聖女の訪問 *


よろしくお願いいたします。

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