* 恩返しのその先に *
それは、穏やかな午後だった。
木漏れ日の差す庭を、軽やかな足音が駆け抜ける。
「アレクさま!」
声に振り向くと、ヴェルが陽の光を浴びながら駆け寄ってくる。
頬を紅潮させ、瞳を輝かせながら、小さな胸を弾ませて――。
「私、傷をなおす魔法、使えるようになったよ。見て」
嬉しそうに腕をまくると、そこにあったはずの細かな傷跡は、すっかり消えていた。
真っ白な肌が、陽射しに透けるように輝き、どこにも痛みの痕は見えない。
「いっぱい練習して、やっと使えるようになったの」
そう言って誇らしげに胸を張る姿に、アレクシスは思わず目を細めた。
「……すごいじゃないか。よく頑張ったな」
その言葉とともに、優しく頭に手を置く。
ヴェルは少し照れたように肩をすくめ、えへへ……と頬を染めた。
けれど次の瞬間、ふいにその笑顔が消える。
「それでね、ずっと気になってたの」
そう言って、アレクシスの右腕を指さした。
そこには、あの日――魔物に襲われたときの傷跡が、うっすらと残っていた。
もう治りかけではあるが、深く斬られた痕は完全には癒えていない。
「……まさか、これのために?」
アレクシスの問いに、ヴェルは黙って頷いた。
その表情はどこか幼さを残しながらも、儚げな決意に満ちていた。
胸が、じんわりと温かくなる。
この子は、自分のために魔法を覚えたのか――。
「……じゃあ、お願いしようかな」
そっと右腕を差し出すと、ヴェルは小さく息を吸い、胸の前で手を重ねる。
その姿はまるで祈る巫女のように、清らかで、静謐だった。
――ふわり。
淡く優しい光が、彼女の掌から零れ落ちた。
それはまるで春の陽だまりのように、アレクシスの腕をそっと包み込む。
痛みはやがて、雪のように静かに溶けていった。
「……大丈夫?」
小さな手が、そっと彼の腕に触れる。
じんわりとした温もりが広がり、心まで癒されていくようだった。
アレクシスは、微笑んだ。
「うん。……痛くない」
「よかった」
ヴェルもまた、安堵のように微笑み返す。
その微笑みを見たとき――アレクシスの胸の奥が、かすかに震えた。
……この笑顔を、知っている。
七年前。
まだ幼かった自分が、倒れていたあの時――
静かに、そばにいてくれたあの少女の微笑み。
優しく、あたたかく、すべてを包み込むような――
そのときだった。
ヴェルの首にかかる黒い首輪が、突然、禍々しい光を放った。
ビリビリと空気が揺れる。
まるで空間そのものがきしむような、異様な気配が奔った。
ヴェルの顔が、さっと蒼ざめる。
「アレクさま……“あれ”が、くる……」
その声は、かすかに震えていた。
風にさらわれるほど小さく、恐怖を帯びていた。
* * *
――屋敷では誰かに瘴気が触れてしまうかもしれない。
そう言って、ヴェルは庭へと向かった。
静かな夜の庭。
月明かりが差し込むなか、少女はひとり、木々の影に立っていた。
小さな胸に両手を重ね、祈るように目を閉じる。
細い肩がわずかに震えていた。
目に見えぬ何かと、必死に戦っている。
――俺のために。
いつからだろう。
彼女はずっと、右腕の傷を気にしていた。
そして今日、それを癒せるようになったと、笑顔で見せてくれた。
あれほどあった自分の傷は、すっかり消えていた。
きっと、何度も、何度も練習したのだろう。
『大丈夫?』
なんでもない事のように、優しく微笑みかけて。
けれど今――
彼女が苦しむこの時、自分は何一つしてやれない。
ただ傍で、見ていることしかできないのか。
今、彼女はひとりで痛みに耐え、闇に立ち向かっている。
――お前は、彼女に助けられて満足なのか?
――彼女を、孤独にしていいのか?
違う。
絶対に、違う……!
拳が、震えた。
歯を食いしばる。
心の奥で、何かが叫んでいた。
彼女にだけ、痛みを背負わせたくない。
その小さな肩に、これ以上、苦しみを背負わせたくない。
静かに、決然と、アレクシスは前を向いた。
「ヴェル、結界を外してくれ。俺が君を支える」
その言葉に、ヴェルは目を見開いた。
「……ダメ……
そんなの、ダメ!」
かすれた声が夜に響く。
けれど、アレクシスはまっすぐに言った。
「君だけが、苦しむなんて――俺は、もう見ていられない」
ヴェルは、唇をかみしめた。
胸にしまい込んでいた、誰にも言えなかった記憶が、そっとこぼれる。
「……小さいころ。
私、これが来るたびに、お母さまに抱きついていたの」
震える声。
月明かりの下、彼女の涙が静かに光る。
「お母さまは、しょう気にいっぱいさわって……死んだわ」
――もう誰も、巻き込みたくない。
――大切な人を、失いたくない。
「アレクさまが死ぬのは、絶対にいや!
……私、大丈夫だから。
お願い、来ないで……」
涙に濡れた微笑みが、ひどく痛かった。
それでもヴェルは結界の内に立ち続ける。
そして――瘴気が現れた。
闇の中からにじみ出す、禍々しい気配。
冷たく、重く、少女を飲み込むように迫ってくる。
「……っ、……く……」
ヴェルは声を押し殺し、ただ耐える。
痛みに顔を歪めながらも、それを悟られまいと、ただ一人で。
アレクシスは、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
――もう、彼女を一人にはしない。
ゆっくりと目を開け、真っすぐに歩き出す。
結界の境界を、ためらいなく踏み越えて――
「……!」
ヴェルが悲鳴のように叫ぶ。
「どうして……?
アレク……さま、来ちゃ……ダメ……!
……いやああ……!」
その叫びは夜空に溶けた。
だが、アレクシスは微笑んで言った。
「大丈夫」
そう言って、彼女を抱きしめた。
痩せた肩。細い背中。
震える身体を、まるで壊れ物を包むように、静かに抱きしめる。
だが――その瞬間だった。
恨み。妬み。憎しみ。絶望。
人の心の底に溜まり続けた澱が、黒い嵐となって彼に襲いかかる。
胸が裂け、頭が焼ける。
無数の声が耳元でささやく。
――裏切られるぞ
――憎め
――奪われたものを返せ
――愛など、無意味だ
意識が、心が、染まっていく。
重さと痛みに膝が折れそうになる。
それでも――
アレクシスは腕を緩めなかった。
彼女の震えを、逃さぬように。
その痛みを、少しでも支えられるように。
「ああ……君は……
こんなものを、ずっと……ひとりで受けていたんだね」
声はかすれていた。
それでも、その言葉には確かな真心があった。
「ヴェル……もう、ひとりじゃない。
一緒に、乗り越えよう」
その言葉に、ヴェルの目から溢れた涙が、頬を伝った。
そして、震える腕を伸ばして――
子どものように、アレクシスにしがみついた。
その瞬間。
ふわりと、あたたかな光が二人を包み込んだ。
禍々しい瘴気は、光に溶けるように、静かに霧散していく。
まるで、嘘のように。
まるで、闇が初めから存在しなかったかのように。
世界から、ひとつの闇が消えた。
ヴェルは、涙に濡れた瞳で、その光景を呆然と見つめていた。
アレクシスはそっと微笑む。
「……よく頑張ったね、ヴェル」
その優しい声が、夜の庭に、静かに溶けていく。
ヴェルもまた、ほっとしたように微笑んだ。
「……アレクさま……ありがとう」
静寂の中、そよ風がふたりを包み込む。
まるで――
これまでの痛みも、悲しみも、すべてを癒してくれるかのように。
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次回エピソード
* 恋の芽生え *
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