* ヴェルの恩返し *
「“厄災の魔女”を屋敷に住まわせるなど――危険すぎます!」
聖女ルクレツィアの声が、ふいに鋭さを帯びた。
凛とした美貌に、苛立ちの影が差す。
だが、アレクシスはその圧を正面から受け止めながらも、落ち着いた声で応じた。
「我が屋敷の者たちは、戦場を知る精鋭です。
万が一の事態があっても、そう簡単に崩れはしません」
その言葉は冷静で、余裕すら感じさせる。
アレクシスはさらに一歩踏み込む。
「……それに、彼女が自ら結界を張ってしまえば、こちらから手出しもできません。
無理に捕らえようとするより、警戒を解かせ、こちらの管理下に置く方が――はるかに安全かと」
「貴女を狙う心配も、その方が減ります。少なくとも、今の段階では」
その論理的な言葉に、ルクレツィアは一瞬だけ視線を逸らす。
だがすぐに、静かに息を吐き、感情を押し殺したような声で告げた。
「……本当なら、すぐにでも"あれ"を塔へ戻したいところですが。
――今は、我慢して差し上げます」
言葉とは裏腹に、彼女の眼差しは氷のように冷たかった。
そのまなざしの奥にあるものは、敵意か、警戒か、それとも――
「ただし、一つだけ条件があります」
「条件……?」
アレクシスの眉が、わずかに動く。
ルクレツィアは静かに言葉を続けた。
「その魔女の《血》を、わたくしに提供してください」
一瞬、場の空気が凍りついた。
アレクシスの目が細められる。
――なぜ、血を?
だが問いただすことはしなかった。
ここで感情をぶつけても、交渉の場は壊れるだけ。
何より今のヴェルには、静かに心と身体を休める時間が必要だ。
アレクシスはほんのわずかに視線を落とし、静かに頷く。
「……わかりました。その条件、受け入れましょう」
その言葉に、ルクレツィアは満足げに目を細めた。
口元に浮かぶ微笑は――どこまでも冷ややかで、美しかった。
* * *
アレクシスは自室へ戻ると、まるで全身の力が抜けたように、静かな書斎の椅子へと身を沈めた。
机に肘をつき、深く、重い息を吐く。
(……血を。あの子に、どう伝えればいい)
ようやく心を開きはじめたばかりだ。
警戒を解き、安心したように微笑み、ようやく“普通”の時間を楽しみ始めたばかりの少女に――。
その笑顔を裏切るような依頼を、自分の口から告げなければならないのか。
胸の奥に、言いようのない苦さが広がっていく。
その時だった。
扉をノックする小さな音が、静寂を破った。
「……誰だ?」
「……ヴェル」
その名を聞いた瞬間、アレクシスは思わず立ち上がっていた。
扉を開けると、廊下にひっそりと立つヴェルの姿。
「どうした? 何かあったのか?」
ヴェルはそっと腕を差し出し、まっすぐに彼を見上げた。
「……血、いる?」
一瞬で、アレクシスの心臓が強く脈を打つ。
まるで心の奥を覗かれたようなその言葉。
戸惑いと動揺が、喉元まで込み上げた。
「どうして、そう思うんだ……?」
ヴェルの瞳は、どこか遠くを見つめるように静かだった。
そのまなざしの奥に、年齢にそぐわぬ痛みと記憶が宿っている。
「塔にいたとき……
ときどき、血、あげてたの。
からだを切って、そこから……」
淡々とした言葉だった。
けれど、その内容は――あまりにも重く、深く、痛い。
アレクシスの脳裏に、侍女から聞いた話が蘇る。
袖の下に隠れた無数の傷。
背中や腹に残された痕。
「試し斬り」と呼ばれる行為――。
死なないと分かった上で、何度も刃を突き立てられた、というのか。
(くそっ……)
『こわいこと、しない?』
初めて出会ったときの、怯えきった声が胸を刺す。
怒りが込み上げる。
けれど今は、抑えなければ。
ヴェルの前で、冷静を装わなければならない。
「……いいのか?」
問いかける声は、どこかかすれていた。
だがヴェルは、ふっと微笑んだ。
あまりにも無垢で、あまりにもまっすぐな笑みだった。
「アレクさま、やさしい。
ごはん、おいしい。
おふろ、きもちいい。
ベッド、ふかふか。
おはなし、たのしい」
まるで、自分が得た幸福を、ひとつずつ数えるように。
「だから、血、あげる」
それは、心からの言葉だった。
見返りも、疑念もなく――ただ“ありがとう”の延長線上にある行為として。
アレクシスは、目を伏せる。
胸の奥が痛かった。
奪われ続けてきた子供が、なおも与えようとしていることが、苦しくてたまらなかった。
「……すまない。
腕に、少しだけ……傷をつけても、いいか?」
ヴェルは迷わず頷き、小さく、けれど嬉しそうに笑った。
「うん」
その笑顔は、あまりにも無垢で、
そして――痛いほど、まぶしかった。
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次回エピソード
* 恩返しのその先に *
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