* ヴェルの謎 *
ヴェルの部屋には、やわらかな灯りが静かに揺れていた。
暖炉の火は穏やかで、窓の外には月の光がうっすらと差し込んでいる。
ヴェルは恐る恐るベッドに足をかけ、そっと身体を沈めた。
ふわりと沈み込んだ感触に、思わず小さく声がこぼれる。
「……ふかふか」
その頬がふにっと緩み、目がきらきらと輝いた。
扉の前で様子を見守っていたアレクシスは、その無邪気さに思わず小さく笑みをこぼした。
「……一人で、寝られるか?」
やさしく問いかけると、ヴェルはしばしアレクシスをじっと見つめ、やがてこくりと頷いた。
だが、布団に包まった彼女の体は、どこか落ち着きなくもぞもぞと動いていた。
目を閉じようとしては開き、何度も小さく寝返りを打つ。
「……眠れないのか?」
問いかけると、ヴェルはまた小さく頷いた。
アレクシスは一瞬考え、そしてふっと微笑む。
「じゃあ……“この世界のはじまりの物語”、知ってるか?」
「はじまり……?」
ヴェルは不思議そうに眉をひそめ、首をかしげた。
その仕草があまりに子どもらしくて、アレクシスは目を細める。
「そうか。じゃあ……聞かせてやろう」
そう言って、そっと椅子を引き、ベッドのそばに腰を下ろした。
夜の静けさの中、優しい声がゆっくりと語り始める――。
* * *
遥か昔、この世界は魔物がはびこる暗黒の時代だった。
夜ごとに命を奪われ、人々は恐怖に震え、やがて希望の光をも失いかけていた。
そんな絶望の闇を裂くようにして、天から一人の聖女が、そして一人の騎士が降り立った。
聖女は世界に祝福と癒しをもたらす膨大な力を携え、
騎士はその力を制御し、聖女を守る盾となった。
二人は力を合わせ、魔物たちを打ち払い、ついに長き戦乱に終止符を打ったのだ。
やがて平和が訪れ、彼らは子を成し、
聖女の血を受け継ぐ国――「ルミナリア王国」と、
騎士の力を継ぐ国――「グランヴァルト王国」を築き上げた。
世界は安寧の時代を迎えたのだ。
その後、何十年かに一度、
強き聖女と強き騎士が、両国に生まれ出でる。
二人が出会い、結ばれることで、
世界の平和は守られてきたという。
しかし時が流れるにつれ、その均衡は次第に崩れ始めた。
聖女も騎士も、その力を受け継がぬ世代が現れ、その隙を狙うかのように、魔物の被害は拡大の一途をたどっていく。
特にここ最近は、長きにわたり聖女も騎士も不在となり、世界はかつてないほどの危機にさらされていた。
* * *
「そして、ようやく十八年前に、神託が降りた。その後、生まれたのが――俺と、聖女様だ。」
語り終えたアレクシスの声は、静かで、どこか重たかった。
けれど、その言葉を聞いたヴェルの目は、まるで違っていた。
「アレクさま……きしさま……すごい」
ぱっと顔が明るくなり、きらきらとした瞳で彼を見つめる。
まるで物語の登場人物に出会ったかのように、心からの尊敬と憧れがあふれていた。
アレクシスは、その無垢な反応に思わず苦笑した。
「……はは、そんなふうに言われると、ちょっと照れるな」
騎士としての覚悟や誇りはあっても、褒められることには慣れていない。
だが、ヴェルのまっすぐな眼差しを見ていると、不思議と肩の力が抜ける気がした。
「でもまあ……ヴェルにそう言ってもらえるなら、悪くないか」
柔らかな声でそう言い、アレクシスは優しくヴェルの頭を撫でた。
静けさの中、ヴェルはぽつりと問いかけた。
「……そのおはなしに、まじょ、いる?」
その声には、かすかな震えと怯えが混じっていた。
アレクシスは一瞬だけ言葉を探し、それから穏やかに微笑んだ。
「いや、いないよ。
そのお話には、魔女は出てこない。
出てくるのは、聖女と、騎士だけだ」
ヴェルは小さく息をついて、ほっとしたように目を伏せた。
けれど、次の瞬間――ふと、何かを思い出したように顔を上げ、アレクシスを見上げる。
「……わたしは、どうして……
あの とう に、いたの?」
それは、ずっと胸にしまい込んでいた疑問だったのだろう。
小さな声には、戸惑いと不安がにじんでいた。
アレクシスの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「ヴェルは……知らないのか?」
問い返すと、ヴェルはかすかに首を振った。
「……わからない。
きづいたら……そこ に いた」
その言葉は、まるで霧の中で迷子になった子供のように、頼りなく響いた。
「はじめは……おかあさまと、いっしょ だった」
その声はかすかに震えていた。
「でも、すぐ……しんだの。
それから、ずっと……ひとり」
アレクシスは、何も言えなかった。
ヴェルの小さな背負ってきた孤独を思い、ただ、静かに彼女の言葉を受け止めた。
しばらくして、彼はそっと尋ねた。
「……塔では、どんなふうに過ごしていたんだ?」
ヴェルは少しだけ眉をひそめ、言葉を探すように口を動かした。
「……くろい、モヤモヤ……
……へいしさん……、ねてた……」
「……え?」
聞き返したアレクシスに、ヴェルは困ったようにうつむき、言葉を詰まらせる。
「ことば……わからない。
なんていうか、わからないの……」
記憶が曖昧なのか、言葉にできないのか――
ヴェルはもどかしげに唇を噛んだ。
アレクシスはそっと息を吐き、やわらかく微笑んだ。
「大丈夫。ゆっくりでいいんだ。
これから、少しずつ覚えていこう」
その言葉に、ヴェルは小さく微笑んだ。
けれど、そのまぶたは重たくなり、ゆっくりと閉じかけていた。
「……もう、ねむい。
ねて、いい……?」
「もちろんだ。おやすみ、ヴェル」
「……おやすみ、アレクさま……」
小さな囁きのような声を残して、ヴェルは静かに眠りについた。
アレクシスはしばらく、静かにその寝顔を見つめていた。
* * *
「――それで、どう思う?」
部屋に戻ったアレクシスが静かに問いかけた、その瞬間だった。
背後に、気配を断った影が立つ。
まるで闇そのものが人の形を取ったように、音もなく。
「少女に、不審な動きはありません。ただ……本日も、魔物が突如出現しています」
現れたのは、アレクシス直属の護衛。
名を持たず、姿も公には知られぬ存在――
幼い頃から影のように彼に寄り添い、ただ命を懸けて守ることを使命としてきた男。
寡黙で冷静。感情を表に出すことはほとんどない。
だがその沈黙の奥には、揺るぎない忠誠と、誰より深い思慮が秘められている。
アレクシスは、短く息を吐いた。
「“厄災の魔女”……そんな存在、我が国では聞いたこともない。
……本当に突然、現れたというのか?」
その言葉には、割り切れぬ迷いが混じっていた。
尊敬してきた聖女ルクレツィア――その足元に、かすかな影が見える気がして。
「……何かを、隠しているのか」
胸の奥に、微かな痛みが走る。
信じたいという想いと、見極めねばならないという責任の狭間で、アレクシスは目を伏せた。
「……殿下」
護衛が、静かに諫めるような声を落とす。
「……ああ、分かっている」
今は、情に流されてはいけない。
王子として、いや、未来の国の主として――冷静に、この国の真実を見定めなければならない。
「ヴェルについて、調べてくれ。
彼女はどこから来たのか。なぜ塔に封じられていたのか。……何を背負っているのかも」
「御意」
護衛はただ一言だけ残し、風のように姿を消した。
その気配すら、痕跡も残さず。
アレクシスはしばし黙考し、視線を部屋の奥の暗がりに向ける。
「……ルイス」
その名に応え、闇の中から静かに一人の男が現れる。
完璧な所作と穏やかな声音。グランヴァルト王家付き執事の中でも一際信頼の厚い男だった。
「ヴェルに家庭教師をつけてくれ。一通り、言葉と礼儀作法を学ばせたい」
「かしこまりました」
ルイスは深々と一礼し、無音のまま退室した。
再び一人になった部屋。
アレクシスは窓の外に目を向けた。
遠くでかすかに、風が木々を揺らしている。
夜の静けさの中、誰にも届かぬような声で、彼はふと呟く。
「……ヴェル。お前は一体、何者なんだ……」
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
次回エピソード
* ヴェルの恩返し *
よろしくお願いいたします。