* 少女との出会い *
城の静かな庭園に、紅茶の香りがふわりと漂っていた。
アレクシスと聖女が、木漏れ日の下で向かい合っている。
包帯を巻かれた右手で、アレクシスは静かに紅茶を口に運んだ。
湯気越しに彼女を見つめながら、ひとつ息をつく。
「聖女様……本当に、明日も出陣なさるのですか?」
低く静かな声には、拭いきれない迷いが滲んでいた。
ティーカップを置いたルクレツィアは、少しだけ眉を下げて微笑む。
「もう、そう堅苦しく呼ばないでって言ったでしょう? ここでは“ルクレツィア”よ」
ふわりと笑ったあと、毅然とした口調で続けた。
「ええ、もちろん出陣するわ。民を苦しめるわけにはいかないもの」
けれどアレクシスは、納得しきれない様子で問い返す。
「……しかし、お体にご無理を重ねれば……」
その言葉に、ルクレツィアはさらりと笑い、軽やかにカップを掲げてみせた。
「大丈夫。この通り、元気よ」
柔らかな笑顔。その笑みの奥を、アレクシスは探るように見つめていた。
百五十年前、先代の聖女は聖なる光を放つたび、数日間は床に伏したという。
だが――
今代聖女、ルクレツィアは違った。
彼女は何度でも、休むことなく、聖なる光を放ち続けた。
幾千の魔物を、瞬きの間に焼き尽くしてきた。
その圧倒的な力ゆえに、人々は彼女をこう呼ぶようになった。
――歴代最強の聖女、と。
ルクレツィアはそっと紅茶を口に含み、ふう、と静かに息を吐いた。
その瞳に、かすかな陰りが落ちる。
「……それに、今日のように突然、大量の魔物が現れる現象……最近、増えてきているの。心配だわ」
アレクシスの表情も引き締まる。
それは、ここひと月ほど続いている異変だった。
前触れもなく、裂ける空間から魔物が出現し、村や街を襲う。
抵抗する間もなく滅んだ集落も、すでに複数あった。
だが、ルクレツィアの“予知”により、いくつかの村は救われていた。
彼女がいなければ、犠牲はさらに広がっていたはずだ。
アレクシスはふと思い出し、問いかけた。
「……“厄災の魔女”が関係している、と……?」
ルクレツィアは静かに頷く。
「ええ。あの者は、かつて塔に封じていたのだけれど……ひと月ほど前に脱走してしまったの」
ふっと視線を落とし、言葉を選ぶように続ける。
「早く捕らえなければ、また犠牲が出るわ……」
アレクシスは考え込むように眉を寄せた。
「それほどの脅威であるなら……倒すべきでは?」
その問いに、ルクレツィアはゆるく首を振った。
「……無理よ。どれほど攻撃しても、死なないの」
その声には、僅かな苛立ちと戸惑いが混じっていた。
「だから、捕らえて封じ込めるしかない。けれど……近づくことさえ、兵士たちには難しいのよ。"あれ"には、何か不思議な力がある……」
ほんの一瞬だけ、彼女の目元に、不安にも似た揺らぎが見えた。
「……今は何とか食い止めているけれど。いつか……わたくしにも牙を向けるかもしれないわね」
その声はあくまで淡々としていたが、言葉の端に、微かに割り切れない響きが残っていた。
まるで、自分でも言いきれぬ何かを、胸の奥にそっと抱え込んでいるかのように。
アレクシスは黙ってその声を受け止めた。
やがて、静かに彼女を見つめ、迷いのない瞳で言葉を紡ぐ。
「――ルクレツィア様。俺が、魔女を捕らえます」
ルクレツィアの瞳が、かすかに揺れた。
「……お辞めなさい。危険すぎますわ」
だが、アレクシスは揺るがぬ声で応じた。
「いえ。この命に代えて、あなたを守ります。それが、俺の務めですから」
それは強く、真っ直ぐな言葉だった。
ルクレツィアはしばし沈黙し、やがてゆっくりと顔を上げる。
「――ふふ。頼もしいのね、アレクシス。期待しておりますわ」
やわらかな笑みを浮かべながら、ルクレツィアはそっと手を差し出した。
アレクシスは黙ってひざまずき、その華奢な手を両手で包む。
そして、慎ましく、しかし深い敬意を込めて、その甲に唇を寄せた。
それは忠誠と、誓いと――
そして、ほんのわずかに滲んだ、言葉にならぬ敬愛の証。
春の光が柔らかに降りそそぐ庭園に、静かな誓約の時が流れていた。
* * *
翌日の昼下がり、アレクシスは、魔女が現れたという村に到着した。
噂に聞いていた“厄災の魔女”――
だが、その姿は、アレクシスの想像とはまるで違っていた。
粗末なノースリーブのワンピースをまとい、痩せ細った手足は傷と痣で覆われている。
幼く、あどけない顔立ちはどう見ても十歳前後。とても、“魔女”とは思えなかった。
アレクシスは言葉を失い、ただ距離を保ったまま、静かに少女を見つめていた。
少女は、村の外れをあてもなく彷徨っていた。
誰にも近づかず、ただ遠くから村の様子を眺めているだけ。
何をするでもなく、何かを求めるでもなく――その無表情な瞳が、どこか現実から遊離しているように見えた。
村人たちもまた、少女の異様な存在に怯え、誰一人として近づこうとはしなかった。
厄災の魔女――そう噂されているだけで、怯えるには十分だった。
少女は一言も発せず、何も口にせず、
時には地面に膝をつき、
時には冷えた地面にその身を横たえ、ただ空を見つめていた。
今のところ、危害を加える様子はない。
けれど、それがかえって不気味さを際立たせていた。
彼女は、ただ“存在している”だけだった。
そう思えるほどに、何も起きなかった――日が落ちるまでは。
静寂が破られたのは、その夜。
少女がふと立ち上がり、人影のない広場へと歩き出した。
胸の前で、祈るようにそっと手を組む。
次の瞬間、広場の空気が白くゆらぎ、かすかな光が輪のように広がった。
(……結界か?)
アレクシスの直感が、危機の気配を察知する。
そして。
少女の周囲に、禍々しい気配が滲みはじめた。
黒く濁った瘴気が、どこからともなく湧き上がり、少女を呑み込むように集まっていく。
少女の体がふるりと揺れ、膝から崩れ落ちた。
「っ……あ……!」
押しつぶされるように、胸元をかき抱く。
それは、恐怖か、苦痛か、それとも、理解を超えた絶望か。
「う、うわあああああ……!! ああああああっ……!」
叫びとともに、少女は自らの腕に爪を立てた。
細い肌に血がにじみ、それでもなお苦痛に耐えようと必死に震えている。
誰にも助けを求めることなく、倒れることもせず、ただ――耐えていた。
その姿に、アレクシスの胸が締めつけられた。
思わず駆け寄ろうとする。
だが、目前で透明な壁のような力に弾かれた。
「くっ……!」
何もできない。
ただ、見ていることしかできない。
どれほどの時間が過ぎたのか。
それとも、ほんの数秒の出来事だったのか。
瘴気はやがて消え、少女はその場にぱたりと倒れた。
辺りには、静寂だけが残る。
アレクシスはゆっくりと近づいた。
さきほどの結界は、もう感じられない。
彼はそっと、その小さな体を抱き上げた。
――軽い。驚くほど、軽かった。
服も髪も汚れ、無数の傷に覆われながらも、その顔立ちは美しく整っていた。
その細い首には、古びた黒い首輪がはっきりと巻かれていた。
中央には血のように赤い宝石がはめ込まれ、不気味なまでの存在感を放っている。
触れれば壊れてしまいそうな儚さが、そこにはあった。
「……これが、“厄災の魔女”?」
思わず、腕に力が入る。
その瞬間――
バチッ、と空気が弾ける音がした。
アレクシスの体が突き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
すぐに剣を抜き、身構える。
だが、敵意は……なかった。
少女は、小さな体を震わせながら、ただ怯えた目で彼を見上げていた。
その目は、闇の中に置き去りにされた子供のようで。
恐れと戸惑い、そして、どこか諦めの色を湛えていた。
アレクシスは、静かに剣を下ろし、膝をついた。
「……さっきのは、なんだ?」
少女は、びくりと肩を揺らし、視線をさまよわせた。
小さく息を呑んでから、かすかに唇を震わせた。
「……わか、らない……ときどき……なるの……」
風に消えそうな声。かすれた呼吸。
アレクシスは一瞬、迷うように目を細める。
「あれは……誰かを傷つけるものなのか?」
アレクシスの問いに、少女はぎゅっと胸元を抱きしめたまま、怯えたようにかすかな声で答えた。
「……くろいモヤモヤ……でも……さわらなければ、たぶん……だいじょうぶ……」
その声音には、必死に伝えようとする純粋さがにじんでいた。
(……なるほど。瘴気に触れなければ無害。
だからこそ、あの結界で人を近づけなかったんだ)
アレクシスは彼女を見つめ、判断する。
少女に、誰かを傷つけようとする意図は見られなかった。
やがて彼は、ゆっくりと剣を鞘へと戻した。
「……わかった。なら、それは“悪いもの”じゃないな」
少女の目が、かすかに見開かれた。
そして――ほんの小さく、こくん、と頷いた。
アレクシスは息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「皆が怯えてる。……お前、俺の屋敷に来ないか?」
少女の肩が、わずかに震えた。
「……こわいこと、しない……?」
その問いは、怯えながらも、どこか信じたいという願いがにじんでいた。
アレクシスは、まっすぐに頷いた。
「ああ。しない」
また、沈黙。
やがて――少女は、小さな声でつぶやいた。
「……わかった」
その声は、まだ震えていた。
けれど確かに、そこには――小さな救いを求める響きがあった。
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次回エピソード
* 少女との生活 *
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