* ヴェルの過去 *
※残酷な描写あり
ルミナリア王国の中庭。
春の陽射しがやわらかく降り注ぎ、風に揺れる花々が甘い香りを運んでいた。
ヴェルは一人、回廊を歩いていた。
ふと、目の前の花壇の向こうに、小さな男の子の姿が見えた。
金色の髪が、陽に透けてきらきらと光っている。
その髪はまだ幼いのに、どこか整っていて、品があった。
風が吹くたび、ひかりの粒が飛び散るように見えた。
その子は、まっすぐ前を見つめて立っていた。
澄んだ碧の瞳。まだあどけない顔立ちなのに、不思議と強さがあった。
ヴェルは、立ち止まって見つめた。
――どうしてだろう。
胸が、ほんの少しだけ、きゅっとなった。
遠くから見ているだけなのに、何か、懐かしいような、ずっと前から知っていたような……言葉にできない想いが胸の奥に広がる。
――その静けさを破ったのは、甲高い悲鳴だった。
「きゃあっ、魔物よ! だれか――!」
叫んだのは、花壇のそばにいた少女。七歳のルクレツィアだ。
その隣にいた、美しい衣をまとった王妃も目を見開き、慌てて娘を庇うように抱き寄せた。
「衛兵を呼んで! 魔物が……!」
その声に、ヴェルもはっとして顔を上げる。
視線をやった先、中庭の木立をかき分けるようにして、黒い影が飛び出してきた。
魔物――。
息が止まった。
想像よりもずっと恐ろしい姿。全身から黒い瘴気を撒き散らし、唸り声をあげながら突進してくる。
その行く先に――あの子がいた。
さっき、陽の光のなかで優しく立っていた、金髪の少年。
少年の前に現れた護衛の子が吹き飛ばされる。
魔物はそのまま、少年に襲いかかった。
――次の瞬間、耳に飛び込んできたのは、肉が裂けるような音と、悲鳴のような叫びだった。
右腕を抑える少年の姿。
噛みつかれたところから、真っ赤な血が噴き出していた。
「――っ!」
小さな悲鳴が喉にひっかかる。
怖い。動けない。けれど――
(このままじゃ、あの子が……!)
胸の奥で、何かが弾けた。
次の瞬間、手のひらが熱くなった。
眩しいほどの光が、身体の中心から広がっていく。
――守らなきゃ。
その想いだけで、気づけば身体が勝手に動いていた。
まばゆい光が、魔物を包んだ。
闇の塊のようなその存在が、音もなく塵となって消えていく。
やがて光が収まると、少年は倒れかけていた。
右腕からは血が流れ、顔は真っ青だった。
ヴェルは駆け寄り、そっと膝をつく。
アレクシスの腕を見ると、深く裂けた傷口から血がにじみ出ている。
ひどい傷――見ているだけで、胸が苦しくなる。
どうしよう。こんなの……どうしたらいいの?
助けたいのに、何もわからない。けれど――
(……なんとか、できる気がする)
理由も根拠もなかった。
けれど、不思議と確信があった。
「……だいじょうぶ?」
そっと傷口に手をかざす。
ぽうっと温かな光が灯り、血が止まり、傷が少しずつ癒えていった。
少年が、うっすらと目を開ける。
「……いたくない」
その言葉に、ヴェルは思わず、ほっと微笑んだ。
「よかった」
そのとき、少年の顔に、安堵の色が浮かんだ。
そして、ゆっくりとまぶたを閉じる。
しん――と静まり返った中庭に、王妃の声がぽつりと落ちた。
「……これは……聖女の力……?」
その声はかすかに震えていた。
悔しさと屈辱が、声の端々に滲んでいた。
ルクレツィアが顔をひきつらせ、震える声を漏らす。
「なんですって……?」
じっと、ヴェルを見つめる。
その瞳に宿った感情が、静かに憎悪へと変わっていくのを、ヴェルははっきりと感じた。
「どうして、アンタが……」
呟きながら一歩踏み出すと、彼女の表情は見る間に歪んだ。
「ありえない! ありえない、ありえないっ!!
卑しい血のアンタが……なんで……なんで聖女なのよっ!!」
その声は鋭く、叫びに近かった。
そのとき。
ふ、と胸の奥にざらりとした違和感が走る。
(……?)
それが何かは分からない。
だが、体の奥底が、危険を察知していた。
魔物に似た何かが迫ってくるような、そんな気配。
(このままここにいたら……)
言葉にはならなかったが、何かが自分に告げていた。
「ここにいてはいけない」と。
ヴェルは視線を落とし、小さく震える手を握りしめた。
そして、誰にも何も言わず、静かにその場から立ち去った。
* * *
それから、ほどなくして――
王宮の中で、ある噂が静かに広がり始めた。
アレクシス王子を救ったのは、“聖女ルクレツィア”の奇跡だった――と。
人々は歓声を上げ、称え、未来の聖女に熱狂した。
だがその裏で、ヴェルには「部屋から出ること」が禁じられた。
一年が過ぎようとしていたある日――
ヴェルのもとを、久しぶりに母が訪れた。
品のある笑顔の奥に、どこか翳りが見えた。
「ごめんなさいね、ヴェル……わたくしが、もっと上手く立ち回れたら……こんなことには……」
「ううん。私は……本があれば、平気だよ」
ヴェルはそう言って、そっと母に笑いかけた。
「……また、新しいの、持ってきてくれる?」
「もちろん。待っててね」
母は優しく微笑み、部屋を出ていった。
――その夜。
静寂を破るように、重い足音が響いた。
扉が開かれた瞬間、見慣れぬ兵士たちが部屋に雪崩れ込んできた。
その後ろに立つのは、ルクレツィアと王妃、そして――顔をフードで隠した、背の高い男。
最後に、彼らに突き飛ばされるようにして入ってきたのは、ヴェルの母だった。
その胸元に、冷たい剣が突きつけられている。
「騒ぐな。母親を傷つけられたくなければ、大人しくしろ」
兵士の一人が、無表情のままそう言った。
ヴェルは、呆然と立ち尽くしていた。
目の前で、黒いローブの男――ゼフィルが、古びた首輪を取り出す。
「……やめて、ください……」
母が、震える声で懇願した。
だが、ゼフィルはまるで聞いていないかのように、くすりと喉を鳴らす。
細く笑うその口元は、喜びに歪んでいた。
「……これは特別製なんですよ。
魂に触れ、血の奥深くまで入り込み……すべてを“管理”できる。
どうか楽しんでくださいね、我が“供給源”」
ゼフィルの手が、ヴェルの首元にそっと伸びる。
その動きは、まるで芸術品を飾るかのように丁寧で、同時に残酷だった。
――カチリ。
首輪がはめられた瞬間、赤い宝石が鈍く脈打つように光を放った。
次の瞬間、黒い靄がふわりと立ちのぼり、蛇のようにヴェルの首筋へと絡みつく。
「……あっ……」
冷たいものが皮膚に這い、じわじわと内側に染み込んでいく感覚。
魔力が、まるで水底に沈められるように、じりじりと圧迫される。
ヴェルの瞳が揺れる。
頭の中で何かが軋むような音がして、別の“何か”が入り込んでくる。
「……いや……っ……!」
痛みと混乱、恐怖が一気に襲いかかってくる。
頭痛。めまい。吐き気。自分の体が、自分のものでなくなるような感覚。
小さな身体がふらりと揺れた。
そのまま、床へと崩れ落ちるヴェル。
首輪の赤い宝石が、脈を打つように鈍く輝き、黒いもやが彼女の首筋にぴたりと張りついた。
その光景を、ゼフィルはまるで美術品でも眺めるように、うっとりと見下ろす。
「……美しい。まさに完璧な結合だ……」
低く囁いた声が、狂気を帯びて震える。
「これでようやく、“神の生贄”が完成する……!
ははっ、はははははっ……!!」
笑い声が、部屋に響き渡った。
それは歓喜と陶酔、優越感に満ちた、異様な笑みだった。
――その足元で、ヴェルは静かに横たわり、微かに唇を震わせていた。
(……おかあ……さま……)
世界が、暗く閉じていった。
*
――気がつくと、そこは冷たく、暗い部屋だった。
硬い床。乾いた空気。微かな血と鉄の匂い。
その中で、誰かが自分を抱きしめている。
あたたかくて、震えていて、そして泣いていた。
「……あなた……だれ……?」
ぼんやりとした視界の中で問いかけると、目の前の人が、悲しげに笑った。
「ヴェル……わたくしは……お母さまよ」
優しく、泣きそうな声で、母はそう言った。
「大丈夫。わたくしが、ずっとそばにいて守ってあげる。何があっても、必ず――」
「おかあ、さま……?」
ヴェルは、その言葉の意味も、記憶の輪郭もよくわからなかった。
けれど、目の前の人が大切な人であることだけは、肌が覚えていた。
母は言葉を続けられずに、ヴェルをぎゅっと抱きしめ、声を殺して泣いた。
その涙は、床に落ちてもなお温かく――
やがて、ふたりの運命を、静かに閉ざしていった。
* * *
「お母さまが亡くなってからは、寂しさと、寒さと、空腹で……毎日のように泣いていました」
ヴェルは静かに語り続ける。
「でも、泣いても、誰も来てはくれなくて……。そのうち、何も感じなくなって……私は、眠るようになったんです」
ふと目を伏せる彼女の声は、どこか遠くを見つめていた。
「瘴気に襲われた時と、兵士が血を採りに来た時だけは……さすがに眠っていられませんでしたけど。
それ以外は、ほとんど――ずっと、眠っていました」
その瞳に、一瞬だけ過去の影が差したが、すぐに柔らかく微笑む。
「……時々、記憶を失う前の夢を見ることができたんです。それが、嬉しかった」
アレクシスは、そっと息を呑む。
「城の中庭で助けた男の子の夢も……何度も、見ました。
アレク様が私を拾ってくださったあと、どうしてもあの右腕の傷を癒したくて……
夢の中で感じた“あの時の感覚”を、必死に思い出しました。
そして、治癒魔法を身につけたんです」
ヴェルは、アレクシスを見つめて、微笑む。
「……それが、まさか……アレク様だったなんて」
その一言で、アレクシスの胸に熱いものが広がった。
彼女がどれほど苦しみに耐え、どれほど孤独の中で想いを抱き続けてきたのか――。
それを思えば、胸が締めつけられる。
彼女の真っ直ぐな心。
決して絶望に染まらなかった強さ。
そして、人のために何かしたいと願い、ひたむきに努力する健気さ。
――そのすべてが、愛おしくて仕方なかった。
目の前の少女を、今すぐ抱きしめたかった。
その小さな体ごと、すべてを守ってやりたかった。
ふたりの視線が、重なる。
ただそれだけで、空気が熱を帯びる。
まばたきも忘れるほど、まっすぐに――ただ、見つめ合っていた。
――パンッ!
突然、乾いた音が響いた。
現実に引き戻され、ふたりはハッと目を瞬かせる。
「はいはい、そんな暇ないからねー」
エレノアが勢いよく立ち上がった。
「さっさと片付けに行くよー!」
彼女の声が、軽やかに響いた。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
次回エピソード
* 真実が暴かれる日 *
よろしくお願いいたします。




