* すれ違いの果てに *
「……無事に外れたわ」
扉が静かに開き、エレノアが姿を現す。
手には、あの首輪――黒い魔力の痕跡を残す忌まわしき道具が握られていた。
「ヴェルはまだ眠ってる。魔力の処置には、少し負荷がかかったからね」
廊下の壁にもたれて待っていたアレクシスが、安堵の色をにじませながら立ち上がった。
「……ありがとう」
深く、静かに頭を下げる。その声には、言葉以上の感謝が込められていた。
エレノアは小さく微笑むと、首輪をひょいと持ち上げて言った。
「……ふう。とりあえず、お茶しよっか。
今、すっっごく、甘いもん食べたい!」
首輪の重苦しさを振り払うように、くるりと踵を返し、軽やかにリビングへと歩き出す。
* * *
椅子に腰を下ろすや否や、エレノアはクッキーを一枚取り、勢いよくひと口。
「っっっっく~~~~っ! 染みる~~~~っ!!」
目を閉じてうなりながら、椅子にもたれて全身で味わう。
そのまま、湯気の立つハーブティーを一口。
「……ふうっ。生き返るわぁ……」
そう言って、幸せそうにひと息ついた。
けれどその横で、アレクシスの表情はまだ晴れていない。
湯気の向こう、揺れる視線の奥に残るのは、疑問と決意――
そして、迷いのない声で口を開いた。
「……一つ、確認したいことがある」
エレノアが顔を上げ、無言で促す。
「ヴェルは……治癒や結界の魔法は使えていた。だが、“聖なる光”――魔物を消滅させる力は使えない」
言葉を切り、彼はテーブルに置かれた首輪を見つめた。
「首輪で、そんなことが可能なのか?
たとえば……聖女の力を封じたり、あるいは誰かが、代わりにその力を使ったり……」
エレノアは視線を伏せ、少しの間、思案の沈黙を置いた。
やがて、静かに答える。
「……うーん。調べてみないとはっきりしたことは言えないけれど……」
彼女は首輪の赤い宝石を見つめながら、慎重に言葉を継いだ。
「理論上は、可能よ。
特殊な術式や転送魔法を使えば、力を封印したり、誰かに移すことだって、できなくはない。
この細工は、相当高度な魔導技術で造られてるわ」
アレクシスは静かに頷き、言った。
「……頼む。分かり次第、教えてくれ」
「ええ。すぐ解析にかかるわ」
軽く肩をすくめてから、エレノアはふっと微笑み、アレクシスに視線を向ける。
「――アンタも、一息ついたら行ってあげな。
目を覚ましたとき、一番に見たい顔って……きっと、アンタでしょ?」
アレクシスは、一瞬、目を見開いた。
そして――ふ、と小さく息を吐く。
「……ああ」
* * *
ヴェルの部屋の扉を開けた瞬間、アレクシスは足を止めた。
……いない?
ベッドには誰の気配もなく、かけられた毛布さえ、きちんと整えられていた。
視線を彷徨わせると、サイドテーブルの上に見慣れたものが置かれているのに気づく。
――ナイフの鞘。
ランデヴァルトの雑貨屋で、ヴェルが「これが欲しい」と頼んだ、あの時のナイフだ。
めったに物をねだらない彼女が、珍しく欲しがったもの。
鞘だけが残され、肝心の刃が、ない。
「……ヴェル?」
アレクシスの胸に、氷の刃が突き立つような寒気が走った。
彼女の言葉が脳裏に蘇る。
『……死なない体なんて、もう嫌で。どうして私だけ……って、ずっと考えていました。
それで……この首輪を外せば、私も――普通になれるんじゃないかって、思ったんです』
まさか――まさか、そんな。
息を呑む間もなく、アレクシスは駆け出した。
重く冷たい予感が胸を貫く。
バルコニーの扉を押し開けたその先――
「……ヴェル!」
月光が差す柵際に、小さな影。
風に揺れる銀髪の下、淡く光る銀の刃先が、白い喉元にぴたりと触れていた。
振り返った彼女の顔は、ひどく痛ましく歪んでいた。
「来ないで!」
悲鳴のような声に、アレクシスはその場で立ち止まる。
ヴェルの手が、細く震えていた。
「ヴェル……どうして……」
喉が焼けるように乾いていた。
震える声で問うと、ヴェルはぽつり、ぽつりと、呟くように言葉を紡いだ。
「……私がいると、みんなが怖がります。
私がいると……アレク様は、聖女様と一緒になれません。
だから……私は塔に戻るべきなんです」
そう言った彼女の声はかすかに震えていた。
「でも……怖いんです」
手にした刃を、ぎゅっと強く握りしめる。
「あの、暗くて冷たい部屋に戻るのも。
兵士たちに血を差し出すのも。
瘴気をひとりで抱えるのも……」
一瞬、言葉が詰まる。
「でも――一番怖いのは……」
ほんの少し、言い淀んで。
けれど、押し殺すように、それでもなお告げた。
「……アレク様が、いなくなること……」
その一言とともに、ヴェルの表情に影がさした。
「私、アレク様に拾われて……すごく幸せでした。
明るくて、あたたかい部屋。
美味しいご飯。
親切な屋敷の人たち。
優しいアレク様。
毎日がキラキラしてて、一日一日が過ぎてしまうのが勿体無いくらいで……」
そう語るヴェルの瞳は、かすかに潤みながらも微笑んでいた。
過ぎた日々の幸福を思い出すように、静かに――本当に、嬉しそうに。
けれど、すぐにその笑みが消える。
「それで充分でした。
充分だったはずなのに……」
ヴェルは胸元を押さえた。
感情を堪えるように、指先がぎゅっと布を掴む。
「……アレク様を、好きになってしまったんです」
その声は、まるで祈るように震えていた。
頬を伝う涙が、月の光をうけてきらりと光る。
彼女の細い肩が、小刻みに震えていた。
「会うたびに、優しくしてくれるたびに……どんどん、好きになって……
もう、止められなくなって……!」
肩を震わせ、苦しげに眉をひそめる。
「こんな気持ちで、塔に行ったら……
アレク様がいなくなったら……
私は……」
言葉にできない想いが喉を詰まらせる。
――絶望。
――孤独。
――それ以上の、何か。
瘴気さえも霞む、心の地獄。
その予感が、彼女をすくませていた。
「でも……私がそばにいたら、アレク様は幸せになれない……」
声が、しだいに震えていく。
「そんなの嫌だから……!」
絞り出すような声が、夜風に揺れる。
ヴェルはそっと顔を上げた。
瞳に涙を溜めながら、それでも微笑もうとする。
壊れそうな笑顔で、まっすぐアレクシスを見つめた。
「だから……せめて……お母さまのところへ……
お願い……行かせてください……」
最後の言葉は、ひどく細くて、
今にも風に攫われてしまいそうだった。
アレクシスの目が、大きく見開かれる。
「勝手に決めるな!!」
怒声が空を裂いた。
彼の中で何かが決壊する。抑えていた感情が、爆発する。
「それで……俺が、喜ぶとでも思ってるのか!?」
ヴェルのもとへ、荒々しく一歩を踏み出す。
「……お前がそんな顔して、そんなこと言って……
俺が、平気だとでも……っ」
一歩、また一歩――その足取りに迷いはなかった。
「塔など、二度と行かせるものか!!」
そして、ヴェルの目の前で――
アレクシスが、その右手で彼女の持つナイフの刃を握り締めた。
「ア、アレク様っ……!」
鋭い音とともに、刃が深々と肉を裂いた。
次の瞬間、血がどくどくと溢れ出し、彼の手のひらから滴り落ちる。
ぽた、ぽた――否応なく、鮮紅のしずくが床を濡らしていく。
「……やめて、やめてくださいっ……!」
ヴェルは青ざめ、懇願するように手を引こうとする。
だがアレクシスはヴェルを見つめ、なおも強く刃を握ったまま、動かない。
血は留まることなく溢れ出し、音もなく床を染めていく。
ヴェルの目が、刃と、その向こうの彼の顔に釘付けになる。
血の色が恐ろしいほど鮮やかで――胸の奥が締めつけられた。
息が詰まり、声が出ない。何か言おうとしても、喉が震えるばかりだった。
「君は……これが平気なのか?」
その声は、震えていた。
けれど――決して、彼は手を離さなかった。
「好きな人が傷つくことに……何も、思わないのか……?」
ヴェルの目に、涙がにじむ。
こぼれる寸前で、かすかに唇が震えた。
そして――
ヴェルの手から、力が抜ける。
それに呼応するように、アレクシスは刃を握る右手で、ナイフをすばやく引き寄せると、
迷いなく後方へと投げ捨てた。
金属の音が、遠くの石畳に乾いた音を残す。
彼は左腕でヴェルを、決して離さぬように、強く――優しく抱きしめた。
「……君が、好きなんだ」
震える声が、胸の奥から溢れた。
「君は、たったひとりの、かけがえのない人だ。
誰の代わりでもない。――君じゃなきゃ、ダメなんだ」
その言葉に、ヴェルの瞳から、涙が一筋こぼれ落ちる。
「失うなんて……嫌だ。
お願いだ、どうか――いかないでくれ。
そばに……いてくれ、ヴェル……」
その言葉に――
ヴェルの瞳から、堰を切ったように涙があふれ出す。
頬を伝い、胸元へと、ぽとり、ぽとりと零れ落ちた。
「アレク様……ごめんなさい……」
震える声は、ほとんど空気に溶けそうなほどか細い。
それでも必死に、彼の胸にしがみつく。
泣き崩れるようにして、想いをぶつけるように――。
アレクシスも、静かに涙をこぼしていた。
彼女を抱き締める腕に、力がこもる。
互いの温もりだけが、確かにそこにあった。
蛍が舞う夜の森。
切なく、そして優しい風が、そっとふたりを包み込んでいた。
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次回エピソード
* 想いの終着点 *
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