* エルフの村 *
霧が濃く立ち込める世界樹の森。
足元の枯葉を踏みしめる音が、緊迫した空気を煽る。
アレクシスとヴェルは、迷いなく森の奥へと駆け込んだ。
その背後――
複数の足音が、土を蹴り、枝を払って迫ってくる。
「くっ……追ってきたか」
アレクシスが低く唸った、その時だった。
――ドン、と地が鳴る。
「……!」
土煙が舞う。
前方の木立が不自然に揺れ、鈍く唸るような音とともに、何かが――巨体が姿を現した。
漆黒の瘴気に包まれた異形の魔物。
樹の幹ほどもある脚が地を叩くたび、大地が軋む。
口からは滴るように黒い涎が垂れ、鋭く伸びた牙が月明かりを受けて鈍く光っていた。
「くっ……!」
アレクシスは即座に剣を抜き、前に出る。
が、目の前を覆うように立ち塞がったその巨体に、逃げ道は完全に塞がれた。
背後から――
枯れ枝を踏み割る音。土を蹴る足音。
すぐそこに、追っ手が迫っていた。
「いたぞ!」
木の影から兵士たちの姿が現れる。
剣を抜き、こちらにまっすぐ駆けてくる。
「……ヴェル、後ろは俺が守る。君は……!」
「はい、結界をはります!」
ヴェルが一歩下がり、両手を胸の前で組む。
その手のひらに、柔らかな光が宿る――
だが、その瞬間だった。
「――こっちよ!」
鋭い女の声が、森の右手から突き刺すように響いた。
はっとして視線を向けると、苔むした巨大な木の幹。
そこに、不自然に歪んだ空間がぽっかりと開いていた。
「入って!」
声が、歪みの中からこちらを呼ぶ。
「行こう!」
アレクシスが迷いなく叫び、ヴェルの手をぐっと掴む。
そしてふたりは、追っ手と魔物の咆哮を背に、歪んだ空間へと飛び込んだ。
一瞬、空間がきらめく。
そして――
何事もなかったかのように、木の幹は元の静けさを取り戻す。
風も止み、ただ古木が、黙して立ち尽くしていた。
* * *
巨木が連なる森の奥、ひときわ大きな一本の木の根元に、緑に包まれた村がひっそりと広がっていた。
苔むした木の幹に、丸く削られた扉や窓。木の中に溶け込むようにして建てられた家々が、静かに息づいている。
空には蛍にも似た光る虫たちが、ふわふわと舞い、辺りを淡く照らしていた。
鳥のさえずり、虫の音、木々のざわめき――すべてが調和した、幻想的な癒しの空間だった。
そんな静けさの中に、異質な気配がひとつ。
村の一角、巨木の根元に腰を下ろし、アレクシスとヴェルが肩で息をしていた。
逃げ切った直後の緊張と疲労が、二人の呼吸を乱している。
「ふう……危なかったわね」
涼やかな声が、静かな森の空気を揺らした。
顔を上げると、そこには女性がひとり立っていた。
「ヴェルとアレクシスだったわね。
はじめまして」
そう言って、ヴェルに手を差し伸べる。
すらりと伸びた肢体に、動きやすそうで洗練された装い。
高く結ったポニーテールが肩越しに揺れ、尖った耳がちらりと覗く。
大人びた顔立ちに、凛とした気品を宿しながらも、どこか軽やかで自由な雰囲気をまとっていた。
ヴェルは差し出された手を一瞬見つめ、そっと掴む。
立ち上がると、少し見上げるようにして問いかけた。
「あなたが……伝説の魔道具師様ですか?」
女性は目を瞬かせ、困ったように頭をかいた。
「あー、その、“伝説の”ってやつ。
やめてくれる? なんかむず痒くて。
エレノアでいいわ」
そう言って、ヴェルの前にビシッと人差し指を立てた。
「エルフって、五千年くらい生きるから、よく歳を聞かれるんだけど、そこはノーコメントよ。
あと、堅苦しいのも嫌いだから。よろしく」
「ああ、よろしく」
いつの間にか立ち上がっていたアレクシスが、自然な調子で応じた。
それにならい、ヴェルもぺこりと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「うんうん。んじゃ、とりあえず――」
エレノアはにかっと笑みを浮かべ、奥にある木の家を親指で指した。
「うちに行こうか。
お茶しながら、ゆっくり話そ」
木々の間を吹き抜ける風が、三人の背をそっと押した。
* * *
樹齢千年を超えるという巨木の中に造られた、自然と調和した穏やかな空間。
リビングの中央に据えられた大きな木製テーブルには、色とりどりのハーブティーと手作りのクッキーが並べられている。
温かな湯気と甘い香りに包まれながら、三人は和やかにティーカップを傾けていた。
ヴェルが小さく息を吸い込んでから、口を開いた。
「あ、あの……!
早速なのですが……
この首輪、外せますか?」
ヴェルがローブの襟元を少し開き、古びた黒い首輪を見せた。
「どれどれ、ちょっと見せてね」
エレノアは椅子から立ち上がり、ヴェルのもとへ近づくと、しゃがんで丁寧に首元を覗き込む。
慎重に手を伸ばすと、黒い金属の継ぎ目や、宝石の周囲に施された魔術式を指先でなぞるように調べた。
「……うん、これならいけるわ」
少し笑って立ち上がると、手をひらひらと振る。
「準備するから、待っててくれる?」
ヴェルはパッと顔を輝かせ、嬉しそうに「はい!」と返事をした。
「よし、じゃあ明日、朝から始めるわよ。
今夜はゆっくり休んでね」
そう言いながら、エレノアは部屋の奥を指差す。
「部屋はあそこで、二部屋好きに使って。
バルコニーからの眺めはサイコーよ!」
弾むような声に、ヴェルとアレクシスは思わず顔を見合わせ、そっと微笑んだ。
* * *
エルフの村を一望できる高台のバルコニー。
苔むした巨木の葉が月光を弾き、蛍のように光る虫たちが空に漂っている。
遠くで、森の鳥がひと鳴きした。
ヴェルは手すりにもたれ、風にそよぐ髪をそのままに、幻想的な景色を見つめていた。
木製の扉が静かに開く。
「ここにいたのか」
振り返らずにヴェルは微笑む。
「はい。すごく綺麗で……ずっと眺めていられますよ」
アレクシスが隣に立ち、しばらく二人は言葉を交わさず、景色を眺める。
夜風が静かに吹き抜けた。
「ヴェル、あのとき……結界を張ってくれただろ」
その言葉に、ヴェルははっとして振り向いた。
だがすぐに、小さく肩をすぼめ、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……勝手に外に出て、ごめんなさい」
小さな声。
咎められると思っていたのだろう。
アレクシスは、ふっと苦笑して首を横に振った。
「心配してくれたんだろ? 助かったよ」
かすかに笑みを浮かべながら、そっと手を伸ばす。
風に揺れる髪を、優しく撫でた。
その仕草に、ヴェルは驚いたように目を丸くした。
けれどすぐ、瞳がふわりと緩んで、安心したように微笑んだ。
その笑顔が――
アレクシスの胸に、またひとつ火を灯す。
「ヴェル。……首輪、光っただろ?」
彼の声が低く落ちる。真剣な響きだった。
「そろそろ……来るんじゃないか?」
「あ……瘴気……」
怯えるように呟いたヴェルの声に、アレクシスはすぐさま腕を広げる。
「おいで」
その一言に、ヴェルは一瞬だけ迷い――そっと彼の胸に身を預けた。
温かくて、広くて、確かで。
その腕の中にすっぽりと包まれるだけで、不思議と心が落ち着いていく。
黒い瘴気が静かに現れ、ヴェルの周囲を覆い始める。
だがその刹那、ふたりの間に生まれた淡い金の光が、やさしく世界を包み込み、瘴気を音もなく霧散させてゆく。
「よし。もう大丈夫だな」
囁く声が、そっと耳元に落ちた。
ヴェルはそのまま目を閉じた。
この胸のぬくもりを、心の奥に深く焼きつけるように。
やがてゆっくりと瞳を開けて、彼を見上げる。
「……アレク様。ありがとうございます」
そして、もう一言。
「……それから――」
唇がかすかに動きかけて、けれど言葉になる前に、止まった。
アレクシスは優しく目を細める。
「ん?」
ヴェルは小さく首を振った。
「ううん、なんでもないです」
その仕草が、どうしようもなく愛しかった。
だが――その瞬間だった。
アレクシスの中に渦巻いていた想いが、堰を切ったようにあふれ出す。
(もし――間に合わなかったら)
(もし、あの場でヴェルを失っていたら)
胸の奥が焼けるように熱い。
言葉にできない感情が、息苦しいほど詰まっていた。
「……ヴェル」
低く、絞るような声で名を呼ぶ。
抱きしめる腕に、自然と力がこもった。
彼女の存在を確かめるように。
もう絶対に、離さないと誓うように。
「アレク……様?」
不安げに顔を上げたヴェルに、アレクシスはぽつりと呟いた。
「……無事で、……よかった……」
その言葉は、静かだった。
けれど、彼の背中が小さく震えていた。
声には出さない涙が、彼の心から溢れていた。
(こんなにも……私のことを)
ヴェルは驚いた。
ここまで深く、強く、心配してくれていたのだと。
そして――胸が痛んだ。
(……こんなにも優しい人を、私は傷つけようとしてる)
それでも、自分が消えなければ、彼は幸せになれない。
可哀想な魔女がひとりいなくなったところで――この人なら、いずれ笑えるようになる。
(……聖女様と結ばれたら、きっと、もっと幸せになれる。私のことなんか……すぐに忘れてしまうわ)
――だから、少しだけ。
悲しませることを、どうか許して。
そんな願いを込めて、そっと呟いた。
「……ごめんなさい。大丈夫ですよ」
ヴェルもうっすらと涙を浮かべ、アレクシスをなだめるように、そっと腕をまわす。
彼が傷つかないように。
自分がいなくなっても、いつかまた笑えるように。
優しく、優しく――抱きしめた。
蛍光が舞い、木々がささやく。
世界は、美しく、そして――切なかった。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。
次回エピソード
* すれ違いの果てに *
よろしくお願いいたします。
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7/19 伝説の魔道具師の名前を変更しました。
ミレイア → エレノア




