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14/21

* ルクレツィアの影 *

朝の光が斜めに差し込む、宿屋の玄関先。

出立の時を迎え、アレクシスはヴェルの前に立った。


名残惜しさを隠しきれない瞳で、彼女を見つめる。


「……ヴェル、ごめん。置いていくことになるなんて」


低く絞り出すように告げると、ヴェルはすぐに首を振った。


「心配しないでください。

……ここからは、私ひとりでも大丈夫です。街で魔道具師様を待つだけですから」


その言葉に、アレクシスは微かに眉をひそめた。

だが、何も言わず――視線を逸らさず、ただ一歩、彼女に近づく。


「……いや。急いで屋敷から護衛を手配している。ナタリーが、午後には着くはずだ」


それから、声を少し落とす。


「……それまでは、宿から出ずにいてくれ。頼む」


ふと、視線が揺れる。

隠しきれない不安と、彼女を残すことへの葛藤――

そして、言葉にはできない想いが、瞳にじんでいた。


ヴェルはわずかに目を伏せ、それから優しく微笑んだ。


「……分かりました」


そう言って、彼の右腕にそっと手を伸ばす。

かつて癒した傷跡――その場所に、指先を重ねるように触れた。


「どうか……ご無事で」


その言葉に、アレクシスの胸がまた波打つ。

ぐっと奥歯を噛みしめた。


「ヴェル……」


名前を呼んだ瞬間、もう抑えきれなかった。


すっと腕を伸ばし、抱きしめる。


彼女のぬくもりが胸に触れたその瞬間、張りつめていたものが、ふっとほどける。


「……少しだけ、こうさせてくれ」


ヴェルは驚いたように息を呑んだが、拒まなかった。

そっと彼の背に手を添える。


二人の間を流れるのは、静かな温もり。

言葉では届かない想いが、体温で伝わるようだった。


しばらくして、アレクシスは名残惜しそうに彼女から体を離す。


そして、目を見て――


「……必ず、戻る」


それは、ただの約束ではなかった。

彼女を守りたいという、まっすぐな祈りと誓い。


ヴェルは微笑み、静かに頷いた。


アレクシスは彼女の顔を深く心に刻むと、背を向けて歩き出した。


――彼女の元へ、もう一度、笑顔で帰るために。



* * *



ランデヴァルトの街。

その中心にある噴水広場は、今や異様な静けさに包まれていた。


ルクレツィアの予知により、「ここに魔物が現れる」と告げられてからというもの、広場には厳重な警備が敷かれ、周囲には街の人々が押し寄せていた。皆、不安と興奮の入り混じった顔で、柵の向こうをじっと見つめている。


「全員、配置につけ!」


アレクシスの号令が響く。

兵士たちは迷いなく動き、広場の四方を固めていった。


アレクシス自身は、広場を囲む石畳の陰に立ち、フードを深くかぶった“側近”を視界に収めた。


側近が左手をゆっくりと持ち上げた。

指先に何かを突き立てる――細い針だった。

滴る血を、右手に巻かれた銀の腕輪へと塗りつける。


次の瞬間。

空気が軋み、空間がねじれた。


五体の魔物が、何の前触れもなく空間から姿を現した。


(……!)


アレクシスは目を見開いた。

魔物の突発的発生――それを“起こしている”のは、やはりあの男。

フードの陰から覗いた、不気味な笑みが、疑いを確信に変える。


すぐさま剣を抜き、ルクレツィアのもとへ駆け出す。


だが――出遅れた。


魔物のうち一体が、鋭く頭を振り上げ、ルクレツィアへ向けて突進する。

瘴気に包まれた巨体が、牙をむき出しにして跳躍した。

白金の衣が風に揺れ、彼女の姿が魔物の影に覆われる――


「っ……!」


アレクシスが、咄嗟にその前に立ちはだかった。

盾も間に合わず、目の前に迫る、鋭く振り下ろされる爪。


だが――その瞬間。


閃光。


まばゆい光の壁が、魔物の攻撃を弾き飛ばした。

瘴気がはじけ飛び、巨体は反動で後方へ吹き飛ばされる。


アレクシスは一瞬、目を見張る。

だがすぐに剣を構え直し、跳ねた魔物へ駆け寄った。

鋭く振り抜かれた刃が、魔物を一太刀で斬り裂く。


呻き声とともに、魔物は崩れ落ちた。

黒い瘴気が立ちのぼり、空へと消えていく。


(今のは……ヴェル?)


浮かんだ名に、胸がざわめく。

アレクシスは肩越しに観衆を見渡した。


だが――彼女の姿は見つけられない。



そのときだった。


「退けなさい!」


鋭く響く声。

ルクレツィアが、杖を高く掲げる。


杖先に宿った聖なる光が、一気に広場を包むように放たれた。

天空を貫くような閃光。魔物の残骸が光に飲まれて一掃されてゆく。


同時に――


観衆の中から、黒く、禍々しい光が突如として現れた。


(……!?)


それは、あまりにも異質だった。

周囲の光とは異なる、濁った黒の閃光。

その中心に、赤く鈍く輝く石がひとつ。


――ヴェルの首輪が、確かに、強く光っていた。



ヴェルは咄嗟に首元を押さえた。

フードの奥で、首輪の赤い光がぎらりと明滅する。

慌てて両手で覆い隠すが――遅かった。


「……!」


周囲の空気が、変わった。

人々の足音が、ざっ、ざっ……と遠ざかる。

瞬く間にヴェルの周囲には空白の円が生まれ、まるでそこだけ別の空間のように静まり返った。


(……逃げなきゃ!)


心が叫ぶ。けれど足がすくむ。

それでもなんとか体を動かそうとした――その瞬間、


空間が歪むような音が響いた。


ぱしゅっ、と閃光が走り、目の前に黒い影が現れる。


「どこへ行くつもりですか?」


ローブの男が、ゆらりと立ちはだかった。

フードの奥、笑みを浮かべた口元。

氷のように白い肌が、陽の光に妖しく浮かび上がる。


「これはこれは……“厄災の魔女”じゃありませんか。魔物を生み出したのも、あなたですね?」


その顔は、獲物を見つけた獣のように、嗜虐的な愉悦で歪んでいた。


ヴェルは、声を出せなかった。

ただ、その場に立ち尽くす。


ざわ……ざわざわ……


「厄災の魔女だって……?」

「なぜ、こんな場所に……」

「魔物を呼ぶって、本当だったのか……?」


観衆がざわめき出す。

怯え、軽蔑、怒り――無数の視線が突き刺さる。

空気が痛い。地面が遠い。体が、震える。


そんなヴェルをさらに追い詰めるように――

もう一人の影が、音もなく現れる。


「とうとう本性を現しましたね」


白いドレスが、光を弾く。

聖なる衣装をまとい、冷たい声で告げる女――ルクレツィア。


「民を危険に晒すなど、断じて許されぬ行為です。あなたを、牢獄の塔へと送還します」


広場が凍りついた。


誰もが息を呑み、ただその光景を見つめる。

音もなく、風すら止んだかのように――世界が静まった。


ヴェルは、ゆっくりと顔を上げる。

ルクレツィアと目が合った。


その瞬間、相手の瞳がわずかに揺れた。

だがすぐに、唇の端が上がる。


――憎しみと嫉妬を押し隠したつもりの、醜く歪んだ笑み。


瞳は冷たく、虚ろに濁り、その奥には得体の知れない愉悦が滲んでいた。



その時――


「ヴェル! 結界だ!」


甲高い怒声が、風を裂いた。


緊張が弾け、空気が一気に動き出す。


ヴェルは、はっとして胸の前で手を組んだ。

次の瞬間、まばゆい光が広がり、彼女の周囲に防御の結界が展開される。


「ぐっ……!」

「きゃあ!」


ローブの男とルクレツィアが、光に弾かれ、地面に叩きつけられた。

観衆が悲鳴を上げ、一斉に後ずさる。


そして――

光の結界をすり抜けるように、ひとりの男が踏み込んできた。


ヴェルの手を掴む。

その逞しい腕――アレクシスだ。


彼は迷いなくヴェルを引き寄せると、短く叫んだ。


「走れ!」


その瞬間、ヴェルの身体が跳ねるように動いた。


彼の力強い手が、自分を導く。


フードが風にあおられ、ヴェルの銀色の髪が光を受けて舞い上がった。


混乱と騒然の渦巻く広場を、ふたりはただ、ひたすらに駆け抜けていった。

ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。


次回エピソード

* エルフの村 *


よろしくお願いいたします。

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