* ルクレツィアの影 *
朝の光が斜めに差し込む、宿屋の玄関先。
出立の時を迎え、アレクシスはヴェルの前に立った。
名残惜しさを隠しきれない瞳で、彼女を見つめる。
「……ヴェル、ごめん。置いていくことになるなんて」
低く絞り出すように告げると、ヴェルはすぐに首を振った。
「心配しないでください。
……ここからは、私ひとりでも大丈夫です。街で魔道具師様を待つだけですから」
その言葉に、アレクシスは微かに眉をひそめた。
だが、何も言わず――視線を逸らさず、ただ一歩、彼女に近づく。
「……いや。急いで屋敷から護衛を手配している。ナタリーが、午後には着くはずだ」
それから、声を少し落とす。
「……それまでは、宿から出ずにいてくれ。頼む」
ふと、視線が揺れる。
隠しきれない不安と、彼女を残すことへの葛藤――
そして、言葉にはできない想いが、瞳にじんでいた。
ヴェルはわずかに目を伏せ、それから優しく微笑んだ。
「……分かりました」
そう言って、彼の右腕にそっと手を伸ばす。
かつて癒した傷跡――その場所に、指先を重ねるように触れた。
「どうか……ご無事で」
その言葉に、アレクシスの胸がまた波打つ。
ぐっと奥歯を噛みしめた。
「ヴェル……」
名前を呼んだ瞬間、もう抑えきれなかった。
すっと腕を伸ばし、抱きしめる。
彼女のぬくもりが胸に触れたその瞬間、張りつめていたものが、ふっとほどける。
「……少しだけ、こうさせてくれ」
ヴェルは驚いたように息を呑んだが、拒まなかった。
そっと彼の背に手を添える。
二人の間を流れるのは、静かな温もり。
言葉では届かない想いが、体温で伝わるようだった。
しばらくして、アレクシスは名残惜しそうに彼女から体を離す。
そして、目を見て――
「……必ず、戻る」
それは、ただの約束ではなかった。
彼女を守りたいという、まっすぐな祈りと誓い。
ヴェルは微笑み、静かに頷いた。
アレクシスは彼女の顔を深く心に刻むと、背を向けて歩き出した。
――彼女の元へ、もう一度、笑顔で帰るために。
* * *
ランデヴァルトの街。
その中心にある噴水広場は、今や異様な静けさに包まれていた。
ルクレツィアの予知により、「ここに魔物が現れる」と告げられてからというもの、広場には厳重な警備が敷かれ、周囲には街の人々が押し寄せていた。皆、不安と興奮の入り混じった顔で、柵の向こうをじっと見つめている。
「全員、配置につけ!」
アレクシスの号令が響く。
兵士たちは迷いなく動き、広場の四方を固めていった。
アレクシス自身は、広場を囲む石畳の陰に立ち、フードを深くかぶった“側近”を視界に収めた。
側近が左手をゆっくりと持ち上げた。
指先に何かを突き立てる――細い針だった。
滴る血を、右手に巻かれた銀の腕輪へと塗りつける。
次の瞬間。
空気が軋み、空間がねじれた。
五体の魔物が、何の前触れもなく空間から姿を現した。
(……!)
アレクシスは目を見開いた。
魔物の突発的発生――それを“起こしている”のは、やはりあの男。
フードの陰から覗いた、不気味な笑みが、疑いを確信に変える。
すぐさま剣を抜き、ルクレツィアのもとへ駆け出す。
だが――出遅れた。
魔物のうち一体が、鋭く頭を振り上げ、ルクレツィアへ向けて突進する。
瘴気に包まれた巨体が、牙をむき出しにして跳躍した。
白金の衣が風に揺れ、彼女の姿が魔物の影に覆われる――
「っ……!」
アレクシスが、咄嗟にその前に立ちはだかった。
盾も間に合わず、目の前に迫る、鋭く振り下ろされる爪。
だが――その瞬間。
閃光。
まばゆい光の壁が、魔物の攻撃を弾き飛ばした。
瘴気がはじけ飛び、巨体は反動で後方へ吹き飛ばされる。
アレクシスは一瞬、目を見張る。
だがすぐに剣を構え直し、跳ねた魔物へ駆け寄った。
鋭く振り抜かれた刃が、魔物を一太刀で斬り裂く。
呻き声とともに、魔物は崩れ落ちた。
黒い瘴気が立ちのぼり、空へと消えていく。
(今のは……ヴェル?)
浮かんだ名に、胸がざわめく。
アレクシスは肩越しに観衆を見渡した。
だが――彼女の姿は見つけられない。
そのときだった。
「退けなさい!」
鋭く響く声。
ルクレツィアが、杖を高く掲げる。
杖先に宿った聖なる光が、一気に広場を包むように放たれた。
天空を貫くような閃光。魔物の残骸が光に飲まれて一掃されてゆく。
同時に――
観衆の中から、黒く、禍々しい光が突如として現れた。
(……!?)
それは、あまりにも異質だった。
周囲の光とは異なる、濁った黒の閃光。
その中心に、赤く鈍く輝く石がひとつ。
――ヴェルの首輪が、確かに、強く光っていた。
*
ヴェルは咄嗟に首元を押さえた。
フードの奥で、首輪の赤い光がぎらりと明滅する。
慌てて両手で覆い隠すが――遅かった。
「……!」
周囲の空気が、変わった。
人々の足音が、ざっ、ざっ……と遠ざかる。
瞬く間にヴェルの周囲には空白の円が生まれ、まるでそこだけ別の空間のように静まり返った。
(……逃げなきゃ!)
心が叫ぶ。けれど足がすくむ。
それでもなんとか体を動かそうとした――その瞬間、
空間が歪むような音が響いた。
ぱしゅっ、と閃光が走り、目の前に黒い影が現れる。
「どこへ行くつもりですか?」
ローブの男が、ゆらりと立ちはだかった。
フードの奥、笑みを浮かべた口元。
氷のように白い肌が、陽の光に妖しく浮かび上がる。
「これはこれは……“厄災の魔女”じゃありませんか。魔物を生み出したのも、あなたですね?」
その顔は、獲物を見つけた獣のように、嗜虐的な愉悦で歪んでいた。
ヴェルは、声を出せなかった。
ただ、その場に立ち尽くす。
ざわ……ざわざわ……
「厄災の魔女だって……?」
「なぜ、こんな場所に……」
「魔物を呼ぶって、本当だったのか……?」
観衆がざわめき出す。
怯え、軽蔑、怒り――無数の視線が突き刺さる。
空気が痛い。地面が遠い。体が、震える。
そんなヴェルをさらに追い詰めるように――
もう一人の影が、音もなく現れる。
「とうとう本性を現しましたね」
白いドレスが、光を弾く。
聖なる衣装をまとい、冷たい声で告げる女――ルクレツィア。
「民を危険に晒すなど、断じて許されぬ行為です。あなたを、牢獄の塔へと送還します」
広場が凍りついた。
誰もが息を呑み、ただその光景を見つめる。
音もなく、風すら止んだかのように――世界が静まった。
ヴェルは、ゆっくりと顔を上げる。
ルクレツィアと目が合った。
その瞬間、相手の瞳がわずかに揺れた。
だがすぐに、唇の端が上がる。
――憎しみと嫉妬を押し隠したつもりの、醜く歪んだ笑み。
瞳は冷たく、虚ろに濁り、その奥には得体の知れない愉悦が滲んでいた。
その時――
「ヴェル! 結界だ!」
甲高い怒声が、風を裂いた。
緊張が弾け、空気が一気に動き出す。
ヴェルは、はっとして胸の前で手を組んだ。
次の瞬間、まばゆい光が広がり、彼女の周囲に防御の結界が展開される。
「ぐっ……!」
「きゃあ!」
ローブの男とルクレツィアが、光に弾かれ、地面に叩きつけられた。
観衆が悲鳴を上げ、一斉に後ずさる。
そして――
光の結界をすり抜けるように、ひとりの男が踏み込んできた。
ヴェルの手を掴む。
その逞しい腕――アレクシスだ。
彼は迷いなくヴェルを引き寄せると、短く叫んだ。
「走れ!」
その瞬間、ヴェルの身体が跳ねるように動いた。
彼の力強い手が、自分を導く。
フードが風にあおられ、ヴェルの銀色の髪が光を受けて舞い上がった。
混乱と騒然の渦巻く広場を、ふたりはただ、ひたすらに駆け抜けていった。
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次回エピソード
* エルフの村 *
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