『白牌迷宮』- 優しい記憶の部屋
# 『白牌迷宮』- 優しい記憶の部屋
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とても静かだった。
まるで図書館の奥の読書室のような、心地よい静寂に包まれている。耳を澄ませば、遠くで時計の秒針が刻む音が聞こえてきそうだった。ただ、白い。上下左右、どこを見ても優しい白に包まれている。床、壁、天井──すべてが雲のような、柔らかな白。
照明がどこにあるのかはわからなかった。だが部屋の明るさは心地よく、まるで春の午後の窓辺にいるような温かさを感じる。光そのものが空気に溶け込んで、すべてを包み込んでいるようだった。
山田は、その真ん中に座っていた。
スーツ姿。ネクタイは少し緩んで、ワイシャツの袖は少しくたびれている。記憶はある。会社の名前も、同僚の笑顔も、昼食に食べた美味しい唐揚げ弁当のことも。ただ、ここがどこなのかという記憶だけが、ふわりと靄がかかったように曖昧だった。
どこかで、何かを忘れてしまった。はっきりとは思い出せないけれど、それは決して悪いことではないような気がする。
「……こんにちは」
自分の声が、とても穏やかに響いた。音は優しく空間に溶けていく。まるで綿に包まれたような、心地よい響き。壁や床に手を当ててみると、ほんのり温かく、まるで誰かの手のひらのような感触だった。
座り直そうとしたとき、それは起きた。
「ふわり……」
目の前の壁の一部が、まるでカーテンのように、静かに、ゆっくりと、開いた。手のひらほどの優しい隙間。その奥から、何かが転がり出てくる。小さく、温かく、真っ白な四角い物体。
──これは何だろう?
思わずそう思った。それは麻雀牌のような形をしているけれど、何の文字も模様もない。真珠のように白く、無地で、ほんのり光を宿していた。まるで星のかけらのような、そんな美しい輝きが感じられる。
床に「ポトン」と優しく落ちた牌を、山田はそっと拾い上げた。指に伝わるのは、ほんのり温かい感触。そして、指先に"何か"が流れ込んでくる。文字ではない。絵でもない。懐かしい気持ちのようなものが、ふと心に浮かんだ。
──母親が微笑んでいる顔。
心がほころんだ。涙ではなく、ただ温かな気持ちが胸に広がる。この牌が、大切な"思い出"を抱いているのだと、直感した。
「これは……素敵だな……」
つぶやきに応えるように、頭の中で"声"が響く。とても優しい声。まるで図書館の司書さんのような、穏やかな話し方だった。
「いらっしゃいませ、思い出の整理をしにきた方。」
「え……」
「あなたは、記憶のかけらから"大切な思い出"を組み立てるためにここにいらっしゃいました」
「大切な……思い出?」
「はい。**宝物**と呼んでいます。整理して、大切にしまうこと。あなたが人生の中で集めた"きらきら"を、もう一度形にする作業です」
なんとなくわかるような気がした。そして、牌がもう一つ、壁の隙間からふわりと出てきた。まるでお菓子の自動販売機のような仕組み。部屋の一部が、白い宝物を次々と届けてくれている。
2つ目、3つ目──牌がふわりと床に並び、やがて7つの牌がきれいに並んだ。
まるで、それが自然な流れのように。
ふと、牌の一つに、文字が現れる。インクではない。まるで水に絵の具を一滴垂らしたように、ゆっくりと浮かび上がる文字。体温で反応する不思議なインクのようだ。
そこには、こう書かれていた。
「一緒に笑った、あの楽しい午後、覚えてる?」
筆跡は──母親の日記と、まったく同じだった。
「……!」
胸が温かくなる。牌を手に取る手が、嬉しさで少し震えた。
これは、ただのゲームじゃない。麻雀でもない。ルールは難しくないのだと、"声"が再び優しく教えてくれる。
「大丈夫です。これは、あなたの想いと記憶を使った、心のパズルです。
誰かと競うものではなく、自分との対話。
"何を大切にするか"は、あなたの心の中にだけ、答えがあります」
自分で考えて、自分で見つける。
真っ白な部屋で、真っ白な牌を通して、自分が意味を見つけていく。
これは、記憶の宝探しなのだ。
麻雀のように牌を組み合わせていくことで、自分という人間の「大切なもの」が見えてくる。
そして、それを完成させたとき、
きっと自分は、もっと自分を好きになれる。
白い牌が、ひとつだけ虹色に光る。希望のような、あるいは夢のような、美しい輝き。
素敵なパズルが、始まった。
他にも、床がキウイの部屋とか、山田が実は魔王で人間に化けていた……等のパターンが有りましたが、展開が危険すぎたので、ここで連載を中止し、完結させて頂きます。