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【8】(回想あり)

切ない描写ご注意ください

 


 あれから徐々に日常は穏やかなものに戻っていった。

 たまに話のネタになっている感じもあるが、それでも当初の詮索と好奇心が混ざった視線を感じることはほとんどない。それくらい朝哉と一緒にいるのが普通のことに変わりつつあった。


 何も諦めないで良かった。

 今のところ隠し通そうと決めたことは隠せているし、体調面でも問題はない。

 ただ、四人で一緒にご飯を食べたり、朝哉と二人で過ごす時間も多くなると、幸せに慣れてしまった脳がよく勘違いするようになった。


 意識しているせいで朝哉が俺を見る視線一つ、言葉一つにも胸が高鳴ってしまうんだ。

 まるで俺の愛と同じ愛なんじゃないかと錯覚させる。


 自惚れていない。

 朝哉の愛は純粋な憧れからくる愛だということをちゃんと理解しているくせに、些細なことすべてに好意を感じてしまう自分がいるから厄介なんだ。

 朝哉の愛がきれいなクリスタルだとしたら、俺のは色々な欲望が混ざり合ってこね回されて、歪な泥団子みたいな気がする。


 だから勘違いするたびに、そうじゃないだろと自分に言い聞かせた。

 そして言い聞かせるたびに苦しくなる。親にも愛されなかったじゃないか。何度も何度も神様に頼んだって、助けは来なかっただろう。だから一人で生きていく覚悟を決めていた。そんな俺のどこを好きになるというのか。という結論にまで至り頭が痛くなるんだ。


 そして憧れでもなんでも俺に対して“愛”を持ってくれている朝哉に縋り付きたい衝動にかられた。


 朝哉の中で助けてくれた“蓮くん”の像があるならそれは壊したくないけど、本当の俺はそんな大層な人間じゃない。

 弱くて、情けなくて、人の目が怖い、自分のことしか考えられない最低な人間。


 朝哉は本当の俺を知らないから好きだと言ってくれている。本当の自分じゃ愛されないことを知っている。だけど、愛してほしいと思ってしまう。


 全部ひっくるめて受け入れてほしいと願ってしまう。


 人間は強欲な生き物だと誰かが言っていたが、たしかにその通りだ。

 現状が幸せだと思っているのに、それを超える幸福を与えられるとそれ以上を知りたくなってしまうんだから。



 それに一番引っかかっているのは、朝哉が言っている“約束”のこと。


 やはり自分が思っている約束とは違う。

 それだけは分かる。

 ここに帰ってくると約束をした覚えはあるが、朝哉が言う「強くなった」の意味が分からない。朝哉は八年前のことをしっかりと覚えてくれているのに、自分にはその記憶がない。挙句に覚えているふりをしている。隠しているつもりはない。ただきっかけがないんだと自分自身に言い訳をしながら、一緒にいることを心地良いと思っている自分の虫のよさに胃が重くなった。


 いつでも当時の“蓮くん”でいないと。

 もう避けるようなことはしない。ただ心の中に燻ぶった思いがどんどん蓄積されて、やけに空元気を装うようになっていた。



 ************* 



「来週引っ越すから」

 食器を洗っている後ろで突然母親にそう言われた。

 水の音にかき消され聞き間違いかと思ったが、蛇口を閉めて振り返ると煙草を咥えた母が煙を吐き出すと共に「引っ越し」ともう一度言う。


「え、だって4月から中学に」

「だから。転校じゃなくてよかったでしょ。それにあんた友達もいなそうだしちょうどいいじゃん」


 そういう問題じゃない。

 この町を離れるということは、すなわち朝哉と会えなくなるということだ。


 何も欲しがらなかった。

 誰にも期待していなかった。

 だけど、一度味わってしまった幸福をあっさりと手放すことは容易じゃない。


「でも」

「は?なに?まさか嫌とか言うつもりじゃないでしょ?」

「あっ……そう、じゃない。けど」

「なに?あんたはまた私の幸せを壊すつもり?私があんたのせいでどれほど我慢したと思ってんだよ。あんな男の……」


 また母の機嫌を損ねてしまったらしい。

 嫌だ。と喉まで上がった思いは一瞬で散り散りになった。


「ごめん、なんでもない」と言いながら水を出す。母の暴言が少しでも耳に届かないように、わざと食器をかちゃかちゃと当てながら洗った。


 この人に何を言っても無駄だと諦めるようになったのはいつからだろうか。

 ちらりと振り返ると有名なブランドのバッグや化粧品が目に入った。俺から見ればそれはこの古いアパートには相応しくない。けど、母はそうは思わないらしい。今この家には新しい“彼氏”が買ってくれた物で溢れていた。


 そして俺たちは来週からその人と暮らすことになるんだと、全てを聞かなくても分かってしまった。


 来週と言われたが引っ越しは火曜日。

 今日は土曜日だからあと3日しかない。しかも明日は家の用事があるからと悲しそうな顔をした朝哉に「また月曜日ね」と挨拶を交わしてきたばかりだ。


 引っ越し当日会えればいいが、もしかしたらその月曜日が最後になるかもしれない。


 あぁ。早く大人になりたい……。

 そうしたらこんな家すぐに出て行くのに。




「蓮くん。これお土産。多分好きだと思うよ!」


 約束の月曜日。

 春休み中ということもあって公園行くといつもより人が多く感じた。そんな中でも朝哉はすぐに分かる。俺に気付いた朝哉がニコニコしながら駆け寄ってきてくれた。小さな紙袋を差し出しながら話しはじめた朝哉の言葉を遮るように名を呼ぶと、きょとんと目を丸くする。


 なるべく淡々と引っ越すことになったと伝えたつもりだった。


 話をしている最中、朝哉の手から紙袋が落ちる。土の上にべしゃっと落ちた紙袋を目で追いながら、俺は気づかれないように下唇の内側を噛みしめた。


「いやだ」と言われた。

 なんども、なんども。一生懸命伝えてくれる。


「いやだ。いかないでよ蓮くん。俺ずっと蓮くんと一緒にいたい」


 瞬きをするたびに朝哉の頬を伝っていく涙を見て鼻の奥がツンと痛んだ。

 俺まで泣いてどうする。朝哉から目を逸らして込み上げてくる気持ちをやり過ごそうとしていると腕を掴まれた。


「ひ、ひとりに、グスッ、……しないでよ」


 言葉を選んでいたはずなのに。

 しゃくりあげながら途切れ途切れにそう言われた瞬間、勝手に思いがこぼれ落ちた。


「朝哉は……一人じゃないだろ」


 一人になるのは俺だ。

 だって、友達はいないかもしれないけど、朝哉は愛されているじゃないか。

 竜さんからも、家族からも、愛されている。

 自分とは違う。


 あれ……俺、本当は朝哉のことが羨ましいのか?


 いや違う。そんな風に思っちゃいけない。俺なんかを必要としてくれて慕ってくれる子にそんな感情を持つのは違う。朝哉のことは好きだ。それだけは間違いじゃない。俺はただ……。


「そんなことない!俺には蓮くんがいないと」

「ありがとな……そんな風に言ってくれるのお前だけだよ」


 醜くて嫌な気持ちが芽生えたことに自分でも驚いた。だけどそれ以上に悲しくなって心の内と向き合うのをやめる。


 泣きじゃくる朝哉は嫌なことを言った俺にもはっきりと「俺がいないと嫌だ」と言ってくれた。今はそれをただ受け入れたい。宥めるように朝哉の頭をくしゃりと撫でながら、今度ちゃんとは用意していた言葉を口にした。


「まだ一人じゃ生きられないんだ」


 本音を隠してそう言うと朝哉は俺の腕を掴んだ。


「それなら俺の家で暮らせばいいじゃん!竜みたいに一緒に暮らそう」

「ありがとう。でも無理だよ」


 それもいいな、と一瞬頷きそうになるが、子ども同士でいくらそんな話をしたって無駄なことだと分からない歳じゃない。


 自分のためにこんなに泣いてくれる子がいる。

 それだけで幸せじゃないか。

 一生懸命笑ってみせながら俺は公園の向こう側に見える大きな建物を指さした。


「前も言っただろ?俺、頭だけはいいから。一生懸命勉強して奨学金もらってあの学校に入る。大学生になったら一人で暮らせるから、そうしたらここに戻ってくる。約束」

「ひっく、……ふぅ、ぇっ……や、くそく」


 俺が小指を出すとしゃくりあげながらも朝哉は小指を絡ませてくれた。

 そのあとは日が暮れるまで他愛もない話をたくさんした。これが最後だと認識しないようにあえて普通のことばかり。


 だけど時間は止まらない。

 別れの時間は訪れる。


「本当に引っ越さなきゃダメなの?」

「……あぁ」


 朝哉の前では必死に格好つけていたが、そんな風に問いかけられると「俺だって行きたくないよ」と言いたくなった。

 でも、それはプライドが許さない。

 いつだって自分を慕ってくれるこの子の前では格好良い自分でいたかった。たとえそれが本当の自分じゃなかったとしても。


 虚像でもなんでも朝哉の中でだけは、俺は俺が理想としている俺でいたい。


「引っ越すの明日のお昼だっていうから。午前中なら多分会えると思う」

「……うん」

「……また明日な」

「っ……」


 とぼとぼと帰っていく朝哉の背中を見送って俺も家に帰った。


 すでに荷物は昨日送ってある。

 がらんとした部屋の中にいると急に孤独を感じた。どこにもぶつけられない寂しさと憤りを抱えたままその場に立ち尽くす。


 俺もさっきの朝哉みたいに自分の気持ちを吐き出せばよかったのだろうか。

 でもあんな風に駄々を捏ねたことは一度もない。そんなことすれば殴られるだけだ。どうせ聞き入れてもらえないのに痛い思いをするなんて馬鹿げている。だからいつも聞き分けの良いフリをした。


 俺が我慢すればいいだけだから。


 気まぐれに帰ってきては機嫌の良し悪しで態度を変えるあの人のことだ。

「あんたも一緒に行く」と言われるとは思ってもいなかった。

 俺の事なんて捨てていくと思っていたけど、一人残す子どもの為にここの家賃をあの人が払うとも思えない。

 それにあの人だって犯罪者にはなりたくないだろう。だから俺はこうして今日まで生きてこられたんだし。


 いつの間にか部屋の中は暗くなってきた。そろそろ電気を点けようと我に返った背後で、鍵を開ける音が聞こえる。


「うわっ。あんたいたの?電気くらいつければいいのに本当グズなんだから」


 暗闇の中に浮かび上がるシルエットに驚いたようだ。明かりがなくて靴がすぐ脱げないのか苛立ちを隠そうともせず母は玄関先でそう言う。


 そうか。

 今この人には俺の姿がはっきりと見えていないんだ。


「今までみたいに……」

「なんか言った?……っていうか早く電気つけろって」

「今までみたいに置いて行けよ!」


 ずっと押し込めていた気持ちが爆発した。

 癇癪をおこした叫びのような声が出て驚くが、母はもっと驚いたように動きを止める。


「は?今なんて言った?」

「母親らしいことなんて一度もっ!……一度だってしたことなかっただろ。今までだって、男のところに転がり込んで帰ってこないことだってあったのに、なんでいまさら」


 吐き捨てるように一方的にそう言うと、カツカツとヒールの音が聞こえる。靴を脱がないで上がってきたのだと分かったときには、思い切り頬を張られていた。


「誰のせいで!」


 咄嗟に目を閉じたがその勢いで床に倒れ込む。

 ひりつく頬に手を添えて蹲っていると涙が滲んできた。


「あんな男の子ども産まなきゃよかった。誰のおかげでここまで生活できていると思ってんの」

「勝手に産んだのはそっちだろっ!……俺は、頼んでない」

「そもそもガキがどうやって一人で生きていくんだよ。ちょっと学をつけたからって親を馬鹿にして」


 それ以降は口を挟む間もなくなった。ヒステリックに叫ぶ母の声が鼓膜を震わす。嫌な言葉が頭を埋め尽くして反発心を食い殺していく。


 ほら、無駄だった。分かっていただろ。と、もう一人の自分が呆れたようにそう言ってきた。


 母の言葉から身を守るように体を丸める。

 開けっぱなしの玄関から外が見え、隣の部屋の人が助けてくれないかなと現実逃避を始めた。けどもう、今さらどうでもいいか。


 結局この町を離れることになるならどこに行ったって一緒だろう。


 そもそも母のヒステリックな激昂は今日が初めてじゃない。

 何度祈っても今まで一度も助けが来たことはなかった。みんな関わりたくないんだろう。隣人もきっと知っている。知っているけど不憫な顔をして俺を見るだけ。


 近所の人も、神様も、誰も来なかった。

 だからきっと今日も来ない。

 そして、明日も明後日も誰も俺を助けてくれない。


 強くならなくちゃ。

 俺は一人で生きていけるように、勉強してお金を稼いで幸せにならなきゃ。なんのために生まれたのか分からない。


 頬を伝った涙が畳に染み込む。

 差し込む月明りをぼんやりと見つめながら、さっき打たれた頬が腫れていませんようにと願った。


 明日が正真正銘の最後の日。

 朝哉に気付かれたら心配させてしまうじゃないか。




 次の日。朝起きて洗面台に映った自分の頬は少し腫れが残っていた。まぁそれでも微妙な変化だろう。


 いつもより早い待ち合わせ時間だったが公園に着くとすでに朝哉の姿はあった。

 真っ赤に腫れた目が気になるが、もしかしたら帰った後も俺のことを思って泣いてくれていたのかもしれない。そう思っただけで傷だらけの心にガーゼが纏う。


「おはよう」

「おはよう……ねぇ蓮くん」

「ん?」

「あのさ。昨日の約束。俺もしていい?」


 どういう意味かよく分からなかったが「あぁ」と返事をすると、朝哉はしっかりと俺の目を見つめてきた。


「俺、強くなる。一人になっても大丈夫だから」


 昨日まで「いやだ、行かないで」と泣いていた朝哉の力強い言葉に、思わず息をのんだ。

 てっきり今日も寂しいと言ってくれるとばかり思っていたのに。


 朝哉はもう気持ちを切り替えているのか?


「……今日は泣かないんだな」

「うん。だから約束」

「朝哉は十分強いよ……でも、そっか。うん。それじゃ次会う時が楽しみだ」


 笑ってみせるがうまく笑えている自信がなかった。


 愕然としてしまい頭がきちんと回らない。

 俺だって本当は行きたくない。

 朝哉と離れたくない。

 やっぱり朝哉の家に住まわせてもらえないだろうか。

 本当は昨日の朝哉のように泣きたい気持ちでいっぱいで、今だって俺はそんなことばかり考えているのに。


 二つ年下の朝哉の方がよっぽど前を向いているじゃないか。

 急に情けなくなって朝哉の顔すら見られなくなった。ははは、と自分の乾いた笑い声だけしか聞こえない。

 覚えていることといえば、別れ際に手を振ったことくらいだった。



ここまで読んでいただきありがとうございました!

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