【4】
過去の記憶を辿っていたうちに、いつのまにかウトウトしていたらしい。
エコバッグから買ってきたパンを取り出した俺は、まだ食べ切っていなかったパンがあることを思い出して立ち上がった。棚の上に置いてあったパンの消費期限は一昨日だ。エコバッグから出したパンを今度は棚に置いて、残っていたパンを頬張る。
味の変化は特にない。まぁこれくらい過ぎたところでなんてことはないだろう。お世辞にもいい食生活を送っていたとは言えないせいで、胃だけは丈夫に育った。
朝哉は昔と変わらない。
周囲の反応的に噂は嘘ではなさそうなのに、俺の前だと愛しさを感じるほどの笑みを向けてくれた。風貌は変わっても、あの笑顔は昔と変わらず俺を照らしてくれる。
久しぶりの再会でも朝哉は今も俺の人生における灯台のまま。
そんな朝哉が昔と変わらず懐いてくれる。
そもそもずっと覚えていてくれた。嬉しさしかないはずなのに。丈夫なはずの胃がキリキリと痛む。消費期限の切れたこのパンのせいにしたい。小さく息を吐きだした俺は残りのパンを口に押し込んだ。
怖いんだ。
朝哉の思い出の中の自分は、いじめっ子から助けてくれた二歳年上の格好良い俺。
最後に会ったとき朝哉は10歳のはずだ。分別がついていないとは言わないが、まだ子ども。
だけど今は違う。
大学一年生ということは18歳。もう成人する歳じゃないか。距離が近くなればなるほど本当の俺に気付いてしまうのではないかと怖くなる。
朝哉の中にある格好良い俺の像は崩したくなかった。
知られたくないことが多すぎる。
それなのに再会早々情けない姿を見せてしまったし、よく考えれば昨日あれだけの人に見られたんだ。認識されなければいないことと一緒。だけどあの人たちの中で俺はあの猪兎となにか揉め事をおこしていた人という認識になったはず。
ああ、もう最悪だ。
最悪なのに、朝哉と会えたことが嬉しくて明日大学で会えるかもと期待している自分がもっと最悪。
目立ちたくない。
失望されたくない。
だから関わりたくない。
だけど朝哉に「蓮くん」と呼ばれたい。
あのときと同じように一緒にいたい。
だけど一緒に居たら俺は俺でいられなくなる。もう大丈夫になったはずだった。だけどあっという間にあのときの俺が顔を出してきた。俺は笹西蓮だ。もうあのときの俺ではないのに。
頭の中も胸の中もぐちゃぐちゃで、頬張ったパンと一緒に燻ぶった思いごと飲みこんだ。
現実逃避ではないけど、これ以上考えても矛盾だらけの自分に辟易するだけ。
とりあえず村田と史に今日のことを謝るメッセージを送るためにアプリを開いた。言葉を選びながら何度か打ち直してようやく送ると、すぐに既読がついて優しい言葉が返ってきた。あの場から逃げた俺に怒るわけでもなく、体調を気遣ってくれる二人に胸の内が温かくなるのを感じる。
朝哉のことは大切だ。
だけどそれ以上にあの当時の記憶は俺の心をすぐにささくれ立たせる。
ちょっと引っ張るだけで血が滲んで、皮が深く捲りあげられて肉に達するんだ。助けなんてこないんだから、そうして血だらけになった心は誰にも知らないように自分で何とかするしかない。
結局自分でどうにかするしかないんだ。
――――――――――――――――
「今なら大丈夫じゃねぇか?」
「ありがとう」
方向は違うが同じく電車通学の史に手伝ってもらい、朝哉を含め周囲に人がいないことを確認してから駅を出た。
「村田が蓮に言われたって言っていたからあいつに連絡先教えたけどさ、本当に良かったのか?」
「あ、ああ。本当昨日はごめん」
「いや、俺たちはいいけど。それにしても大変だな」
「え?」
「蓮は目立つこと苦手だろ?それなのに変な奴に目つけられて」
史にそう指摘され一瞬足を止めた。
なんで知っているんだろう。そんな話をしたことはなかったはずなのに。けどすぐに思い出した。昨日自分で言ったじゃないか。
隣を歩いてこない俺に気付いた史が「あぁ」と呟く。
「ごめん。触れちゃいけなかった?」
「あ、いや……そんなことは。っていうか、気を遣ってもらって俺の方こそ悪い」
「言いたくないならいいけどさ。心配しているんだよ。村田もそうだけど。昨日調子悪そうだったし」
史と村田は幼馴染だ。
大学まで一緒だとただの腐れ縁だよな、と史はぼやくがそれが悪い意味で言っているんじゃないってことくらい、大学から知り合った俺にだって分かる。
それに比べて俺は高校だって勉強漬けの毎日で友達と呼べる人はいなかった。無事奨学金を貰えることが決まったとはいえ、こんな調子で生きてきた俺は大学でも友達が出来るとは思っていなかったのに、優しい二人が声をかけてくれたおかげで今こうして幸せな日々が送れている。
二人には仲良くしてもらって有り難いと思っていた。
俺は二人の間に入れてもらっているだけだと思っていたから。
「……ごめん」
「それは何に謝ってんだよ」
史は軽く笑い飛ばしながら俺の行間も感じ取ってくれたらしい。
「友達の心配くらいさせてくれ」と続ける史にもう一度「ごめん」と言う。
史の口からはっきりと言われた“友達”という単語は、身体の奥に落ちていきささくれ立った心を纏ってくれる。
「蓮くん」
なんか急にグッときて史を見上げた瞬間、背後から呼び止められた。
いつからいたのだろう。
勢いよく振り返るとそこに朝哉の姿があった。いつからいたんだろう。笑みを浮かべながらひらりと手を振られ、何故か後ろめたい気持ちになった。
近づいてきた朝哉は史には一瞥もくれない。
「おはよう」
「お、おはよう」
「今日は1限から?」
「あぁ。朝哉は?」
「蓮くんこれ……この人と一緒に通っているの?」
俺の質問には答えず、朝哉は逆に質問で返した。
この人と言い直した朝哉は笑みを消して史を見た。そして品定めするように上から下まで目でなぞる。
「朝哉」
「なに?」
「あんまり失礼な態度を取るなよ。俺の大事な……友達なんだから」
「やだなぁ……失礼な態度なんて取ってないだろ」
笑って誤魔化そうとするから目を見て「朝哉」ともう一度言うと、朝哉は眉をぴくりと上げる。
少し間が空いたが「……分かった。気を付ける」と返事をしたのを聞いて、史に「悪い奴じゃないんだよ」と言った。
気を悪くしてなきゃいいけど。
ちょっと言動に難はあるが朝哉のことを誤解してほしくなくて史の顔色を伺うと、やり取りをジッと見ていた史が感心したように口を開いた。
「蓮、こいつどうやって手懐けたんだ?」
「いや俺は別に手懐けたわけじゃ……」
「こいつ?あんたに馴れ馴れしくされる筋合いねぇんだけど」
「昨日誰が蓮の連絡先教えてやったのか忘れたのか?」
「あ?偉そうにすんじゃねぇよ」
「おい、蓮。だからさっきも言っただろ。」
態度を改めると言ったばかりなのに朝哉が史をジロリと見据えた。
静電気が走ったような空気になるが史はまったく動じない。それどころか煽る様な笑みを浮かべる。
「蓮の言う通り。俺たち三年なんだけど。それくらい分かるよな?……なあ後輩」
「ねぇ蓮くん。こいつ性格悪いよ。一緒にいないほうがいいって」
「はは、それは良かった。俺もお前好きじゃない」
「ちょっと、二人とも落ち着けって」
なんでだ。
何事にも動じない史は、どっちかといえば朝哉と気が合いそうだと思っていたけど。
静かに火花を散らしている二人に困惑していると、遠くから手を振りながら近づいてくる人が見えた。
「ちょっといつまでたっても来ないと思ったら、こんなところで何してんだよ」
「あ、村田。おはよう」
「おはよう!……じゃなくて、俺だけのけ者にすんなって。っていうか猪兎君も一緒かよ。え、朝から顔よすぎない?すごいな、同じ人間か?」
ばーっと一気に喋る村田に朝哉は一瞬口を閉じて俺を見た。
「これ、なに?」
「朝哉!」
悪びれなくそう言った朝哉を咎めている間に、史が村田に経緯を説明する。村田は「これ」呼ばわりされたことに不快感を見せることもなく、ニッと笑って手を差し出した。
「俺、村田。蓮の友達。やっぱり近くで見ても格好いいわ~。マジで羨ましい。蓮の友達?なんだろ?それなら俺らも友達だな」
「は?」
「だから、友達の友達は友達だろ?」
ちょっと待て。それは俺も同意が出来ない。というか「敵情視察」とか言って朝哉のことを好いてはいなそうな口ぶりだったのに、どんな心境の変化なんだろう。
まあ俺としては二人が朝哉と仲良くしてくれるのは嬉しいから、村田の反応に安心する。
ただ朝哉も村田の言いぶりに面食らったようだ。握手を求めていることは分かるが、その手を取らずジッと固まっている。
「あれ?」
「ほら、言っただろ?生意気な奴なんだよ」
朝哉はそう言った史をギロっと睨んだがようやく深く息を吐きだした。
「うるさい。……あんた、村田って言うんだ」
「え?あぁそうだけど」
「はぁ。こいつよりマシか。……あんたならいいよ」
溜息交じりで、顎先でくいっと史を指したあと淡々とそう言い放つと俺と向き合う。
「蓮くん。さっき言っていたことって……」
「なに?さっき?」
「あー……やっぱりいいや。またあとで連絡する」
「あ、あぁ。じゃあまた」
意外とあっさりと離れていく朝哉に呆気にとられた。
「俺“二次元の男”に認められた感じ?」
「……さぁ?」
そう話している史と村田に「とりあえず行こうか」と言う。
みんなでいたときは気にならなかったが、いつの間にか遠巻きに見られていた。そのほとんどが離れていく朝哉を追っていくが、いくつかはまだ自分を注視している気がする。
その場を去る俺の耳に「どういう関係なんだろうね」と聞こえたが、聞こえていないフリをして足を速めた。
ここまで読んでいただきありがとうございました!