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【2】

 

 午後の授業をさぼってしまった。

 ついでにバイト先にも仮病を使ってしまった。


 真面目だけが取り柄だったのに。


 通学定期があると伝えても交通費を支給してくれる優しいマスターに「体調が悪くて」と電話を入れた時はひどい罪悪感のせいで頭が痛くなった。

 そのおかげで“体調が悪い”が嘘じゃなくなったと無理やり自分を納得させる。


 昼間は軽食を提供し夜はBarに変わるちょっと特殊な店だが、マスターは俺が苦労人だと感じたのかよく賄いを作ってくれた。それも無料でお腹いっぱいになるまで。

 同情は嫌いだったが、それは人の温かさにも繋がるのだと気づいてからは多少受け入れられるようになった。

 それもマスターのおかげだというのに。


 ごめんマスター。明日はちゃんとバイトに行きます。


 アパートに戻る途中、スーパーに寄った俺は値引きコーナーへ向かった。

 たまにレトルト食品とかカップ麺とかが値引きされているが、今日はあまりいいものがない。一通り物色していると棚の奥にチョコレートを見つけた。


 定価は380円だけど、76円になっている。

 賞味期限が今日までだから80%引きか。うん。これは買いだな。

 一瞬で割引率を計算し、同じく値引きシールがついたパンと一緒にカゴの中に入れた。


 可愛いんだか可愛くないんだか分からない奇妙な鳥のキャラクターが描かれたエコバッグに、買ったものを詰めてスーパーを出る。


 歩きながら早速チョコレートの包みを破って一粒口に放り込んだ。舌の上に乗せたチョコレートを口内の熱でゆっくりと溶かす。じわじわと溶け出る甘味で口の中がいっぱいになったところでゆっくりと歯を立てた。こうすることで、より長くチョコレートを堪能できる。貧乏大学生の知恵、というよりは謎のこだわりだ。


 とりあえずまずは状況を整理しないと。

 その前にあの場に置き去りにしてしまった二人にも説明する必要があるし。そもそも猪兎に連絡もしなければならない。考えなきゃいけないことはたくさんあるのに、そのどれもが中途半端。まだ糖分が足りないのだろうか。


 ようやくアパートに戻った俺は、敷きっぱなしになっていた布団の上に寝転んだ。

 つまみすぎたのかチョコレートは残り半分になっている。一度に大量の糖分を摂取したせいでやけに脳が冴えてきた。


 今通っている大学を選んだのは給付型の奨学金があるから。


 誰に聞かれたときもそう答えていた。それはもちろん嘘ではない。この制度がなければ俺は大学に通えていなかった。


 だけど給付型の奨学金がある大学はここだけじゃない。


 昔馴染みの多い地域にあるこの大学をわざわざ選ぶ。そんなリスクを冒さなくても大学に進学したいという気持ちだけなら、俺の事など誰も知らない遠い場所にいっても良かったんだ。


 認めたくはないが、それでもここに戻ってきたのはどこか期待していた自分がいたからかもしれない。思い出したくないと言いつつも、それだけ俺の中で朝哉と過ごしたあの期間は特別なものだった。


 寝ころんだまま腕だけ伸ばしてエコバッグを手繰り寄せる。

 その中から再びチョコレートを取り出し口に含んだ。やはり久しぶりの糖分に脳が喜んでいるようだ。

 けどいくら思考がクリアになっても上手く記憶は分けられない。思い出したい記憶だけ思い出せればいいのに、芋づる式にすべてを思い出してしまう。

 こうなることが分かっていたから、俺は大事な宝物である思い出も一緒に心にしまい込んでいたというのに。



 ―・-・-・- 



 認めたくはないが、俺はネグレクトを受けていた。

 父親は顔も知らない。

 母親は俺の存在を無視すると見せかけ、突然思い出したかのように接してくる。

 それは母と子の温かいふれあいではなく暴力や暴言といったものだった。いないものだと思ってくれた方がマシだと何度思ったか。瞬間湯沸かし器のように突然沸騰する母との生活に、幼い頃の俺は強くあろうとしていた。


 まだ自分は子どもだからしょうがない。

 一生懸命勉強して、たくさんお金を稼いで、幸せになるんだ、と言い聞かせて。


 ただいくら自分がそう思っていても、周りはそうは思わないらしい。

 いつもほぼ同じような格好をしている俺は笑われてのけ者にされた。そして大人たちやそんな俺に理解があるという顔をするクラスメートの一部は“可哀想”と言った。


 可哀想?

 俺が?


 いったいどの立場からそう言っているのだろうか。

 母からの暴言より可哀想という言葉が大きな棘になった。可哀想などと言う人は無意識に俺を下に見ているんだ。


 自分とは違う。

 普通じゃない。

 可哀想な子だと。


 心に突き刺さった棘は簡単に抜けることはなく、今もまだここにある。


 だからそうじゃないと証明するためにも、自分のことは自分でどうにかするしかなかった。家に帰りたくない俺はよく図書室で勉強をしていた。

 図書室を選んだのは人があまり来ないのと、そんな俺に勉強を教えてくれた先生がいたから。淡々とした人だったが、あまり詮索してこない先生とは一緒にいるのが楽だった。

 先生が勉強を教えてくれたおかげで今があると言っても過言じゃない。


 そういえばあの先生は元気だろうか。

 無事、大学に通うことが出来たと報告したかったが、すでに転任されていて連絡はつかなかった。


 また一つチョコレートを口にする。

 こんなに一度に食べることはなかなかない。

 贅沢気分に浸っていると着信音が響いた。画面を確認すると登録のない番号が表示されている。


あいつだろうか。連絡をしてこない俺にしびれを切らせたのかもしれない。もしこれが変な勧誘の電話とかだったらすぐに切ろう。


 一瞬出ることを躊躇ったが、鳴り続ける着信音に指を伸ばした。通話ボタンを押して携帯を耳にあてると、電話越しに息をのむ音が聞こえる。


「っ……」

「もしもし?」


 語尾が上がり疑問形になってしまったが、電話相手が分からなかったわけではない。


「……あぁ。本当に繋がった」


 直接会った時よりさらに低く感じる声で、心底安堵したようにゆっくり紡がれた言葉が耳に届いた。電話に出るのを躊躇ってしまったことに罪悪感を覚えた俺は、布団から起き上がり相手には見えていないはずなのに正座をする。


 大丈夫。この部屋には誰もいないし、今は相手の顔も見えない。第一声も不自然だったが震えてはいなかった。気持ちを落ち着かせた俺は口からゆっくりと息を吸い込んで「さっきはごめん」と言う。


「あさや……だよな?昔公園でよく一緒にいた」

「ああ。思い出してくれたみたいでよかったですよ。それよりようやく会えたことが嬉しくて気が回らなかった。体調悪かったのにごめん」

「謝るのは俺の方だから。心配かけてごめん。それに忘れていたわけじゃ……いや、あの、ごめん」


 やっぱりそうだったか。

 忘れるわけない。けど、心の奥底にしまい込んでいたのは事実だ。

 なんだか色々謝らなくちゃいけないことが多くて、何度か「ごめん」と繰り返すと小さな笑い声と一緒に「いいよ」と言われる。


「八年ぶりくらいだろ?元気だったか?あ、それよりずいぶん格好良くなっていて驚いた。俺の記憶の中の朝哉はもっと可愛い印象だったから」


 ちゃんと会話が出来ると分かったら、言葉がすいすい出てくる。

 いつまたさっきみたいに過去を思いだして体調が悪くなるか分からないから、少し軽口をはさみつつそう言うと朝哉の笑い声が聞こえた。


「まあな。たしかに変わったと思う。けどそれを言うなら蓮くんは昔より可愛くなりましたよね」

「は?」

「だって昔はもっとツンとしていたでしょ」

「いやいや。そんなことないだろ」

「最初に会った時のこと忘れた?あの啖呵は痺れたけど」

「か、揶揄うなよ」


 絶対に揶揄っている。

 笑いを含んだ声をしているし、絶対今肩を震わせているだろう。くっくと聞こえ咄嗟にそう返すが、なんだか俺までつられてきた。


 時折丁寧な口調が交じる話し方に成長と時の流れを感じて物寂しくもあるが、それ以上に楽しさが勝る。気持ちがあっという間にあの当時に戻っていった。くだらない話をして、些細なことで言い合って、けどそれでいて喧嘩にならない。ただ楽しいっていう感情だけで時間を過ごせたあの日々。


 ひとしきり笑っていると強張っていた心がどんどん柔らかくなっていく。素直な気持ちが生まれてきて、それを伝えたくなった。


「正直、大学に入学したとき朝哉に会えるかもしれないって少し期待していたんだ」

「俺のこと忘れてたくせに?」


 拗ねたような物言いに自然と口角が上がった。


「だから忘れてねぇって。名前しか知らないし、まあもし探したとしても今のお前じゃ分からなかっただろうけど」

「ふうん。俺は一度も忘れたことなかったけど。蓮くんあの頃からこの大学に通いたいって言っていたし、帰ってくるって約束もしてくれたしさ」


 朝哉と一緒にいた期間は2年にも満たない。あれから8年も離れていたのに、朝哉の心の中にも俺はずっといたのか。なんだかむず痒くなって携帯を耳に着けたままごろんと横になった。


 他人と関わりたくないと思う反面、誰かに覚えていてほしくもある。自分でも嫌になるくらい面倒な性格だ。


「ありがとな。……ずっと覚えていてくれて」

「当然だろ。でも俺のことも、そうやって思い出してくれていたなら嬉しいですよ。……さっきはああ言ったけどさ、正直忘れられているかもって覚悟はしてたから」

「本当に忘れたわけじゃないんだ。嘘じゃない」


(あのとき……こんな俺を慕ってくれたお前に何度も救われていた)


 その言葉を飲みこんで小さく笑うだけに留めておく。忘れるはずがないんだ。朝哉はあのときの俺を支えていた唯一だったから。


 声を出して笑った朝哉の笑い声が鼓膜を震わせる。


「ははっ。信じるよ。けど、正直こんなに早く会えるって思わなかった」

「自分が目立っているって自覚ない?」

「そうじゃなくて。俺も2年前大学に行ってんだよ。駅から降りてくる人ずっと見てたけど蓮くんを見つけられなかった。もしかしたら約束なんて忘れたのかもとか色々考えたけど、俺から約束破らなくてよかった。入学して一ヶ月も経ってないのに、こんなに早く蓮くんに会えるなんて」


 入学式の日か。

 たしか通学に時間もかかるし、初めてだから気合入れて始発で行ったんだ。まだほとんど人の気配のない大学のベンチに座っていた記憶がある。


「あー……入学式の日だろ?俺始発で動いていたから。悪かったな、探させたみたいで」

「それはいいんだ。約束を守ったことにならないから会うつもりはなかったし。それにこうやって堂々と会いたかったから」


 まただ。朝哉の口から何度も聞かされる“約束”という言葉が妙に引っかかる。

 確かにこの町に帰ってくると約束をした記憶はあるが、それは俺がした約束であって朝哉が守る約束ではないと思うが……。

 吐かれる言葉の節々に混ざる甘さに手元にあるチョコレートに視線を落とす。


「ちゃんと堂々としてただろ。変わりすぎなくらいだ。格好良くなって本当にびっくりした」


 話を変えるようにそう呟くとフッと息を吐き出す音が聞こえた。


「蓮くんに格好良いって思ってもらえるなら良かった」

「誰が見てもそう言うだろ」

「別に他の奴なんてどうでもいい。蓮くんにそう思われることに意味があるんだ」


 ぞくぞくとするような高揚感。重低音の笑い声が鼓膜から背骨を伝って全身に広がっていく。

 あまりにも甘い。甘すぎる。久しぶりに糖分を取りすぎたせいか?だから敏感になっているんだろうか。


「あ、朝哉もそんな冗談とか言うようになったんだな」

「は?蓮くんは俺のことそんな軽い男だと思ってたってこと?俺こんなに一途なのに」

「一途って、お前何言って」

「俺はずっと本気だ」

「い、いやいや……」


 電話だから今どんな顔をしているのか分からない。あやうく真剣な声に騙されるところだった。そんなわけがないじゃないか。俺は男で、誰かに愛されるような人間じゃないことは自分が一番分かっているのに。


 乾いた笑い声をあげつつふと時間を見てギョッとした。


 相手からかかってきた電話は通話料かからなかったよな?

 あれ?でもアプリって無料通話だからそもそもいいのか。


 急に押し寄せてきた現実に我に返る。

 思っていたより浮かれていたのかもしれない。どうりで携帯が熱を帯びている。


「いつの間にこんな時間経ってたんだ。そろそろ寝ないと」

「明日大学で会える?」

「あ……まあ」


 さっきまで流暢に話していたのに、急に言葉に詰まってしまった。朝哉も違和感に気付いたのか一瞬間が空いたがすぐに「ありがとう」と聞こえる。


「おやすみ。……今度は逃げないでよ?」

「あ、ああ。おやすみ」


 通話時間は二時間を超えていた。体感は30分くらいだったんだが、実際はほぼ倍以上話していたらしい。


 まだ頭がふわふわしている。

 あれだけ糖分を摂取していたのに電話を切った途端もう足りなくなったみたいだ。気づけば最後の一粒になったチョコレートをつまみ口に放り込む。喋っている間に体温が上がったのか、溶けたチョコレートがつまんだ指先についた。その指先を舐めとりティッシュを手繰り寄せる。拭き終わったティッシュを今度はぎゅっと力いっぱい握りつぶして、今度は立ち上がってみた。


 なんと忙しないことだ。


 叫びだしたい、というか。このままじっとしていられない、というか。

 とりあえずもう一度布団に座り、今度はそのままばたんとうつ伏せになって枕に顔を埋める。


 まさか “二次元の男”と呼ばれているあの男が俺の知る朝哉だったとは。


 頭の中には初めて会ったときの小さくて可愛い朝哉がいる。女の子みたいだと言われていたあの朝哉がまさかこんな風に成長するなんて想像もしていなかった。


 当時自分の名前を呼んでくれる人が誰もいない中「蓮くん」と何度も名前を呼んでくれた朝哉の声は今でも鮮明に思い出せるのに。

 自分より低くなった声で、自分より背が高くなり格好良くなった朝哉の口から出る「蓮くん」は、こんなに長い間喋っていても少しも慣れなかった。


ここまで読んでいただきありがとうございました!

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