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【13】

 

「蓮くんから引っ越すって聞いたあの日。渡しそびれたお土産持って蓮くんのあとを追ったんだ。ただアパートは分かったけど部屋まで分からなくて、帰るに帰れないでいたら……そのときに全部」


 まさかあの現場を見られていたとは思わなかった。

 そういえばあの後誰か尋ねてきたような気がする。言い争うような声が聞こえたが、助けなんて来ないと思っていた俺はその相手が誰なのか確かめることもしなかった。


 もしかしたら朝哉が助けを呼んでくれたのかも。


 朝哉は最初から全て知っていた。

 すべて知ったうえで俺のことを「好きだ」と言ってくれたのか?

 なんで……?


「でも、お前は一度だって俺の事可哀想って目で見てこなかっただろう?自慢じゃないけど、俺は他人が自分を見る目に敏感になっている。そういう雰囲気はすぐに分かるけど、朝哉からは何も感じなかった」

「可哀想。なんて考えるのは傲慢ですよ。それが無意識だとしても自分が優位に立っていると思っているときにしかそう思わない。それに、蓮くんはそう思われたくなさそうだったし」

「まぁ……そうだけど」

「強いて言えば、俺はただあの場から逃げることしか出来なかった自分に腹を立てていただけ」


 苦々しく吐き出した朝哉に「それは違う」と言う。


「逃げてくれてよかった。……俺はお前がもし助けにきてくれて、あの人に何かされたらそれこそ」


 パッと思い浮かんだ言葉に血が凍った。

 自分のことだから耐えられた。俺が我慢すればいいと思っていた。だけど激昂しているあの人が、俺を助けるために部屋に飛び込んできた朝哉に何かしたら……。


(それこそ、殺してしまうかもしれない)


 想像することすら避けていた単語にぞくりと震える。

 それと同時に、あのときから朝哉のことがそれほど大事だったのだと実感した。


 自分に向いていた矛先が朝哉に向けられたら、俺はきっと躊躇わない。あのときの俺もそうだし、今も変わらずそう断言出来る。


「そうだ……昨日のこと結局ちゃんとお礼言っていなかった」


 一度腰を浮かせ朝哉と向き合うように座りなおす。

「助けに来てくれてありがとう」

 ゆっくり頭を下げると、下から掬い上げるように朝哉の手が頬を包んだ。


「約束していたでしょう?でも、結局間に合わなかったけど。俺がもっと早く着いていれば蓮くんが傷つくこともなかったのに。ごめん」

「いや、本当に助かった。だからそんなこと言うなよ。そもそも俺が行くって決めたんだし」


 朝哉が落ち込む必要なんて全くない。

 きっぱりとそう言うと目を伏せていた朝哉は再び目を合わせて少し表情を緩めた。頬から手を離しどこか安心したように遠くを見つめる。その横顔に愛おしさがこみ上げてきた。


「それにしても、朝哉には助けられてばっかりだな。そんなに俺のことばっかり気にかけなくてもいいんだよ」

「蓮くん、やっぱり忘れているだろ」

「え、あっ……」


 しまった。失言だったか?

 咄嗟に口ごもると朝哉は言葉に剣を持たせた。


「なんか薄々おかしいなとは思っていたんだ。別れた日の最後にした約束。まさか本当に忘れられているとは」


 いやこれは怒っているというよりは拗ねている。

 狼狽えながら「えー、っと」と言葉を濁した俺は懸命に過去の記憶を引っ張った。


「最後?……あの、一人で強くなるって話だろ?」

「そのあと」


 やっぱりそのあと何か言っていたんだ。

 誤魔化そうと試みるが、もう嘘はつけないというかつきたくない。


 観念して潔く「ごめん」と頭を下げた。


「……正直言うと何も覚えていないんだ」

「は?……忘れた、じゃなくて。覚えていない?」

「あの頃は俺が勝手にお前を守っているつもりだったんだよ。だから、最後の日、本当は俺も泣きたかったし、行きたくないって言いたかった」


 こんな情けない話本当はしたくなかった。自然と早口になりながらも誤魔化さないと決めた俺は最後まで言い切る。


「それにきっと朝哉はまた前の日みたいに泣いてくれるって思っていたんだ。だけど最後の日、お前があまりにも強かったから。泣きそうな顔はしていたけどそれでも“一人で頑張る”って言う朝哉に動揺して、そのあとのことは何も覚えていない」


「はぁ……どうりで最初会った時話が噛み合わないと思ったんだ」


 ため息をついた朝哉は「いいですか?」と言いながら改めて俺と向き合った。真剣な眼差しに捕まってしまい心臓が跳ねる。


『俺は蓮くんのことが大切で、大好きだからもう逃げないよ。だから絶対に帰ってきて。今度は俺が一生守る。約束する』


 朝哉は、んんっと軽く咳払いをして照れ臭そうに目を細めた。


「こう言ったんです。まぁ言い方は小学生だから、アレですけど。今ならもっと格好良く伝えられるのに」


 何度も大きく瞬きをする。

 嘘だろ?まさかそんな大事な話を聞いていなかったのか。その言葉が嘘じゃないか確かめたいのに言葉が詰まってしまう。


「お、お前本当にそのときから?本当に……俺のすべてを知っても、そ、それでも。そう思ってくれていたのか?」

「もちろんです。俺は蓮くんが好きなんです。本当に、心の底から愛しています」

「俺は、いじめっ子から助けた格好良い“蓮くん”じゃない。本当の俺は、弱くて、情けなくて、そのくせプライドを捨てきれなくて……そ、そんな、俺を」


 言いながら熱いものがこみ上げてきた。

 言葉にして改めて分かるが、本当にどうしようもない人間だ。徐々に顔が下を向いていく。引き攣った声で自分を卑下し続けていると「蓮くん」と朝哉が俺の名を呼んだ。


 その声に引っ張られるように顔を上げると朝哉は小さく頷いた。


「分かっています」

「っ……ち、がう。分かっていない。俺は本当の自分を知られたくないからお前を避けて、何度も傷つけた。自己中で最低だ」

「それでもいいじゃないですか」


 あっけらかんと言う朝哉に空いた口が塞がらない。

 朝哉は俺が黙ったことで自分のターンだと思ったらしく、ゆっくりとその口を開いた。


「蓮くんはずっと我慢してきたんです。少しくらい自己中になってちょうどいい」

「よくない、だろ」

「他にはないんですか?」

「……え?」


 突然問いかけられ思考が止まる。

 訝し気に聞き返すと朝哉はソファに深く座りなおした。


「全部聞かせてください」

「ぜんぶ、って」

「何を我慢してきたんです?何を諦めてきたんですか?本当は言いたかったことが、ここにたくさんあるんじゃないですか?」

 

 ここ、と言いながら朝哉は俺の胸を指差す。

 催眠術の才能でもあるんじゃないか。

 あまりにも心地良い朝哉の声と言葉が俺の身体の中で形を作った。何度も俺を嗤った心に住むもう一人の俺ごと包み込み、無数に棘が刺さった心に近づくとその傷口に染みこんでいく。


「い、いやだ」


 そんな風に暴かないでくれ。

 無理やり血を流しながら、ささくれ立った心から棘を抜かれたら、もっと強く拒めるのに。

 あまりにも優しいのだ。あまりにも優しく俺の傷ついた心すら丸ごと包み込もうとする。


「蓮くん」

「……無理だって」


 どんどん声に張りがなくなっていく。朝哉はただじっと俺を見つめているだけ。


「聞かせて」


 しまい込んでいた感情が溢れかえっていく。身体の中で大きな渦となったそれは、言葉となって震える唇を勝手に動かしてしまう。


「俺が……俺が我慢すればいいんだ。そうすれば全部上手くいく。目標だって達成できた」

「うん」

「でも、本当は」


 虚勢がどんどん剥がされて本音が露わになっていく。

 それを言うも言わないも俺次第なんだけど、今まで一日たりともその役目を放棄しなかったストッパーが完全に停止した。


 一度言い淀んだけど朝哉の視線がゆっくりと促してくれる。


「もっと、ちゃんと……俺を見てほしかった。俺の言葉を聞いてほしかった」

「うん」


 受け入れてくれなくてもいい。ただ聞いてくれるだけでもいい。

 言葉を飲みこみすぎていつしか一度噛み砕いてからじゃないと、自分の気持ちを口に出来なくなっていた。


「ひとりは……こ、わい」

「うん」

「でも、誰も助けてくれないから」


 最後まで言い終わらないうちに隣に座っていた朝哉が腰を上げた。俺の正面で膝立ちになった朝哉が手を伸ばしてくる。右腕を掴まれるとなけなしのプライドが邪魔をしてきた。

 身体を強張らせ抵抗するが朝哉は力を緩めない。


「大丈夫」


 きっぱりとそう言い切られた俺の身体から力が抜ける。引き寄せられる力に身を任せてしまうと朝哉の胸にすっぽりと収まった。


 温かい。抱きしめられた俺はこみ上げてきた嗚咽を必死に抑え込み身を固くする。苦しいけど辛いわけじゃない。心の中に隠していた本当の自分がようやく顔を上げた。「もう我慢しなくていい?」と問いかけられて、胸元をギュッと掴む。


 全部諦めてきた幼い自分と初めて向き合った。


「これからは俺がいるから。信じてほしい」

「あ、さや……っ」

「信じてくれ」


 頭上から聞こえた言葉にとうとう涙が溢れた。

 年上だ。

 男だ。

 そんなこと気にする余裕もなく、俺は朝哉の胸の中ですすり泣く。


 全てを知っていた朝哉からの愛を受け止めきれない。朝哉の好き、が憧れからくるものじゃないなら、それは何なんだ。


 もしかしたら俺と一緒の愛なのかもしれない。

 そう信じてみたくなって、でも信じきれなくて、俺はますます身体を固くする。


「ずっと泣いている蓮くんをこうして抱きしめたかった」

「ううっ、う……な、んで。そこまで俺を」

「約束しただろ。俺が一生守るって」


 俺は勝手に傷ついてそんな大事な約束を聞いてすらいなかったのに。「なんでだよ」と繰り返していると、朝哉は俺の背中を宥めるようにぽんぽんと叩く。


「好きだからです」


 反射的に顔を持ち上げると見下ろしていた朝哉と目が合った。

 ゆっくりと朝哉の指が俺の頬に触れる。くすぐったくて身を捩るが、そのまま朝哉の指は涙の跡を辿っていき。


 ほらこんな風にされたら、また勘違いしてしまう。


 朝哉の目を覚ましてあげないと。

 胸が張り裂けそうになりながら、俺はとうとうその言葉を口にした。


「それは。あ、憧れだよ。俺と出会ったせいで……勘違いしているんだ」

「は?」

「血の繋がった家族にさえ愛されなかった俺が、誰かに愛されるわけない」

「それは違う」

「違わない!それに、朝哉の“好き”は憧れからきてるだろ。俺のは、そんな綺麗なものじゃない。俺の愛は、もっと厚かましくて……狡猾で。だから朝哉の“好き”と全然違う」

「ちょっと待て。まず俺の気持ちを勝手に解釈するなって言いたいけど、それより蓮くんは俺のことどう思っているんだ?前、俺の好きとは違うって言っていたけど。じゃあ蓮くんの好きってなんだよ」


 朝哉の声のトーンが落ちた。首筋が強張ったのが目に見えて分かる。苛立っているのは明らかだけど、自ら気持ちを宥めた朝哉は強い眼差しで俺の答えを促す。


「だから、俺のは……違うんだって」


 言えない。

 自分ですら持て余しているんだ。なくなったと思っていたプライドが再び俺の心に鎧を着せた。小さい子ならまだしも俺はもうとっくに成人して、大人で、男で、朝哉の前では特に格好つけていたい。

 だから無理だ。言えないというより言いたくない。首を横に振って拒んでいると朝哉の口調も穏やかじゃなくなってくる。


「蓮くんの言っている意味が分からねぇ」

「っ。分からなくて、いい」


 俺の気持ちなんて伝わったら困る。顔を背け俯いた俺の顎を掴まれる。無理やり顔を上げられ目を合わせられた。


「厚かましくて狡猾な愛って何だよ」

「だから、それは……言葉通りだよ」

「言葉に頼んな!」


 荒ぶった声にビクッと身体が震える。

 朝哉は簡単に言うが、俺にだって俺の気持ちなんて分からないのに。視界が滲んできて瞬きをしたら涙が頬を伝った。朝哉にも見えているはずなのに、今度は拭ってくれない。それが悲しくて鼻を啜る。


「難しく考えなくていい。言葉に頼らないで、いま思っていることを教えてくれよ。蓮くんがなんて言おうと、俺は蓮くんのこと好きなんだ。それに、俺は約束を守る男でしょう?」


 いくらか柔らかくなった声でそう言われて袖で目元を拭う。そこまで言われても意地を張っているほうが年上として恥ずかしいことなんじゃないのか。朝哉の瞳に映る自分の姿にそう思う。


「愛して欲しい……俺だけを。ずっと」


 言ってしまった。

 隠して、誤魔化して、ずっとあやふやにしていたのに口にしたらたったこれだけのこと。朝哉は眉間の皺を深くして、痛みを堪えているかのように顔を歪めた。


「それのどこが……」

「朝哉?」

 苦しそうにそう言った朝哉は俺の両肩を掴む。


「それが、蓮くんの思う……厚かましい、愛ですか?」


 うん、とゆっくり首を縦に振ると、朝哉は逆に首を横に振った。違う、と言ってくれるのか。優しい朝哉の気持ちに「だって」と口が動く。


「俺は、朝哉に……ずっと、俺だけを愛して欲しい、と思っているんだ。厚かましい、だろ。俺の自己中に振り回しておきながらそんなこと思うなんて」


 ずるい。と言っている途中で朝哉の手が俺の口を塞ぐ。


「分かりました。蓮くんが俺をどれくらい愛してくれているのか、ちゃんと分かりましたから」

「いまのどこでそう思うんだよ」


 口を塞いだ手を剥がしながら眉を下げた。それこそ言っている意味が分からない。けど困惑する俺の涙の跡を朝哉の指がさっきより強くなぞっていった。その指は俺の唇の端で止まる。


「いろいろ考えているのは分かりましたけど、そろそろ諦めて俺に愛されてください」

「だってお前は女の人だって愛せるだろう?諦めるのは、朝哉のほうだ。こんな問題だらけの俺なんかよりもっと良い人がいる」


 まだ話の途中だったが、そこまで言ったところで唇の端で止まっていた指が俺の頬を抓んだ。


「いたっ」

「俺なんか、なんて言うなよ」


 すぐに離してくれたが抓まれた箇所がジンと熱を帯びる。


「自己中でも、ズルくても、蓮くんは蓮くんだ。あんたはそうやって自分のこと言うけど、それ以上に良い所があるのを俺は知っているし、蓮くんが知らないって言うならこれから先、俺と一緒に見つけていけばいい」

「……一緒に?」

「ああ。だから自分を信じられないなら俺を信じろ。俺はこの先も絶対約束を破らないから」


 あの頃だって滅多なことがない限り泣かなかったのに。

 泣いたら周りの人が言うように可哀想になってしまう。だから我慢してきた。けど、なんでこんなに涙が溢れてしまうんだろう。

 あの頃より成長しているはずなのに。

 大人になったからもっと我慢できるはずなのに。


「俺と、一緒に生きてください。俺を蓮くんの家族にして。そうしたら恋人として、家族として、俺は一生……」


 無理に堪えようとして喉の奥が閉まり引きつった声が出る。身体を震わせ泣き崩れる俺の身体は朝哉に抱きしめられた。


 血の繋がっていた家族にさえ愛情を与えてもらえなかった。

 だから知らず知らずのうちに自分にそんな価値があると思えなくなっていた。けど、朝哉はそんな俺の全てを知った上で、隠していた弱い自分すら受け入れてくれると言う。


 呻き声のような音が溢れる。

 喉を引きつらせながらなんとか朝哉の顔をまっすぐ見つめた。こんな風に聞いたら答えは大体想像がつくけど、それでも朝哉の口から聞きたい。


「……俺でいいのか?」


 堪えようとしていたのにまた視界がゆがむ。

 瞬きをした瞬間、頬を伝った涙を朝哉の指先が掬い上げた。


「蓮くんがいいんです」

「俺の好きと同じってこと?」

「どうでしょう」


 面倒臭い質問を繰り返すと朝哉はそう答えた。え、と問い返すとゆっくりと口角が上がっていく。


「蓮くんより重いですよ、俺は。八年越しですから」


 微笑みを浮かべる朝哉に自分から飛びつくように抱き着いた。

「ありがとう。おれも、好き。俺を好きになってくれて、ずっと好きでいてくれて……ありがとう」


 俺の勢いに押されることもなく、朝哉はしっかりと俺を抱きとめてくれた。

 他人の体温も、抱きしめられたときに感じる圧力も、自分の物じゃない呼吸音も、なにもかもが愛おしい。想いを言葉にしないと夢みたいで形にするように繰り返す。


「好き、……好きだ」

「こんなご褒美ありませんよ」


 まるでうわ言のように言い続けていると朝哉がそう漏らす。

 少しだけ上半身を離され、濡れた瞳のまま朝哉を見上げるとゆっくりとその顔が近づいてきた。



次回最終話です。ここまで続けて読んでいただいた皆様ありがとうございました!

R18はキスまではセーフのはず。たぶん。

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