09-捌-御礼
「お礼を言われるようなことはしていません。それに、これが私の仕事ですから」
ヒイラギの声は淡々としていた。
裂け目の向こうに何が繋がっていたのかも、そこにどんな危険があったのかも、確かにわからない。
だが彼女にとって、それは命を賭けるような大げさなものではなかった。
やるべきことをした。ただ、それだけ。
だからこそ、白狼からの礼を、彼女は静かに受け流した。
その様子に、白狼はそっと目を細めた。
「貴女は、後悔を抱えているのですね?」
声音には、とがったものはない。
ただ、静かな慈愛が滲んでいた。
問いかけは鋭かったが、それ以上に優しくて、拒むことも、逃げることも許さないほどに、真っ直ぐだった。
「後悔はしてないです」
ヒイラギは静かに、ゆっくりと、はっきりした声で否定した。
「けど、もう少しだけ、私の我儘を押し通せば良かったのかな、なんて、そうやって思う時はあります」
ただし、肯定にも聞こえる言葉すら続けた。
「正しいことが、必ずしも、自分にとって正しいわけじゃないんですよね」
彼女の瞳は哀愁を漂わせていた。
(……)
指輪の彼は、彼女に声を掛けようとして、言葉を掛ける資格が無いように感じられて、沈黙を選んだ。
「私は、それなりに長い時を生きてきました」
白狼がそっと言葉を継いだ。
慈しむような眼差しで、目の前のヒイラギを見つめながら、穏やかな語り口だった。
「だから、何となく、貴女が幸せを感じていないように思えるのです」
白狼の言葉に、今度はヒイラギが沈黙を貫いた。
「かけがえのないものを無くしても、その生は続きます」
「生き残った私たちは、続編を謳歌するしかありません」
「例えば、大切なモノを無くしてしまったとしても」
「大切なモノが、自分から離れることを選択しても」
「続編は勝手に続くのです」
「けれど、そんな事は、貴女は理屈ではわかっている」
白狼の言葉に、思わずヒイラギは頷いてしまった。彼女は、指輪の彼をそうやって、理屈をごねることで、諦めることを正当化したからだ。
「けれど、それは所詮は理屈で、貴女の感情ではありません」
「だから、後悔はしていない、と自らの感情から逃げるのは止めなさい」
「理屈ではなく本能で、感情で納得しなさい。幸せは、その先にしかありませんよ」
ヒイラギは白狼の言葉の数々を、ただ黙って聞いていた。酷く手厳しい言葉だと思った。
大切な人の気持ちを尊重したことで、大切な彼が死んでしまった事実を、ヒイラギは後悔しないことで受け入れようとした。
「……私は後悔、してるんですかね?」
彼女は思わず、目の前の白狼に問い掛けてしまった。
その直後にハッとした。
見た目麗しき狼は、ヒイラギの過去も事情も知らないのに、自分自身にしか答える事の出来ない質問を投げ掛けてしまったからだ。
「私には、後悔を後悔として捉えることから、逃げているように見えます」
その指摘はヒイラギにとって、とても鋭利な、言葉の刃となった。
「今回のお仕事は、私たちの世界を救ってくださいました。貴女が私の礼を受け取らぬのは自由です。
ですから、私からは囁かな御礼──気付きを与えましょう」
白狼は何かを与えることはしない。
「余計な心遣いなら、端にでも捨ててください」
「……いえ、ありがとうございました」
ヒイラギは、素直に礼を述べた。
後悔などしないと心に決めて、運命に抗う選択をしてきた彼女にとって、白狼の言葉は、自分を見つめ直すための静かなきっかけになっていた。
「これは先の旅路に向けて、貴女が幸せになれるように、私からの囁かな応援です」
白狼は大地が揺さぶられるほどの遠吠えをした。前置きもなく、あまりにも突然であったから、ヒイラギは思わず後退りをしてしまった。
だがしかし、それは怖いモノではなかった。
森から溢れ出す光の奔流が、彼女の左手薬指に向かって向かってゆく。
そして、銀の指輪に吸い込まれていった。
「貴女の旅路に幸あらんことを」