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08-漆-修復Ⅱ

 ヒイラギは再び、目視で三十メートルの地点まで裂け目に近づいた。


 立っているだけで、身体がわずかに引き寄せられる。

 空気は乾き、呼吸をするたびに胸の奥がざらつく。

 裂け目の引力は、先ほどよりもさらに強くなっていた。


 剣を握り直し、静かに息を吐いた。

 一歩ずつ、引力に抗いながら、慎重に足を進める。


 目視で二十メートルの地点まで接近した。


 森に囲まれた小さな村跡。

 かつて家々が並んでいたはずの場所には、今やひび割れた地面と、崩れた石積みの残骸が転がっている。

 裂け目は、その村の中心を無残に引き裂いていた。


 断面は、ぐにゃりと歪み、不自然に脈動している。

 見ているだけで、胸の奥に冷たいものが染み込んでいく。

 あれは、触れてはならないものだと本能が告げていた。


 わずかでも宙を浮けば、たちまち裂け目に吸い込まれる。

 ヒイラギは重心を低くし、地面に身体を近づけた。


 さらに歩を進め、目視で十メートル。


 そっと足を止め、織界ノ剣をしっかりと握り直し、地面へ突き立てる。


(お願い。織り直して)


 心の中で、ただひたすらに願った。


 刃が地面を貫いた瞬間、裂け目を中心に、世界の色が静かに揺らいだ。

 空間が波紋のように震え、重苦しい引力がふわりと緩んでいく。


 地面に走っていた亀裂の一筋一筋から、淡い光がにじみ出る。

 それは糸のように細く、裂けた大地をなぞりながら絡み合い、静かに織り直していく。


 倒れた石積みの隙間からも、細い光が立ち上がる。

 崩れた瓦礫の間を縫うように、光は静かに広がっていった。 


 裂け目の中心へと伸びていた光の糸たちは、やがて収束を始める。

 縫い上げられた亀裂が、ゆっくりと、しかし確かに閉じていった。


 乾ききっていた空気にも、微かな潤いが戻る。

 荒れていた地面は、少しずつなめらかな表面を取り戻していく。


 森の空気が、微かに青々とした香りを運んでくる。

 新芽の匂い、雨上がりの土の匂い──確かに、命の気配が戻りつつあった。


 やがて、裂け目の最後の縁が織り閉じられると、地面を走っていた淡い光の糸は、静かに消えた。


 そこには、亀裂も歪みもない、なめらかな大地が広がっていた。


 かつて村があった場所は、今は静かに、大地と森に溶け込んでいる。


 風が一度、森を撫でる。

 ヒイラギは剣を支えたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 空間の震えは、もうどこにもない。

 先程まで身体で感じていた引力も、何も感じなくなっていた。


(終わったな)


 指輪の彼の声が、静かに、確かに頭の中に届いた。


 ヒイラギはそっと織界ノ剣を引き抜き、迷いなく腰の鞘に戻した。

 それから、静かに村跡を見渡す。


 亀裂も歪みも消え、すべてが、静かに、確かに終わっていた。


 ふと、背後に立ち尽くす人々へと視線を向けた。

 裂け目を前に、ただ見ていることしかできなかった彼らに。


 泣き喚きながらも、覚悟もなく、行動すらできない者たち。

 彼女の行動を、ただ心配そうに、あるいは怯えた目で見つめるだけの者たち。


 ヒイラギは、心のどこかで、激しい苛立ちを覚えた。


 必死に足掻いても、救えなかった自分。

 それでも、なお手を伸ばし続けた自分。

 それと比べて、何も掴もうとしない者たちの姿は、あまりにも空虚であり、嫌悪と蔑みの対象であった。


 その対比は、ヒイラギの胸に、怒りにも似た深紅と、仄暗い黒の感情を生み落とした。


(……ヒイラギ、その……)


 タケルの声が、ためらいがちに響いた。

 彼女の胸にわき上がった激しい感情が、無意識に彼にも伝わってしまったのだろう。


(タケルは関係ないよ)


 ヒイラギは、はっきりと否定した。

 それは、彼を責めるためではない。この苛立ちは心理ではなく感情だった。


 確かに、大切な彼は、この感情が生まれた根源であった。

 だがしかし、負の感情の原因として、心に据えることだけは、どうしてもしたくなかった。


 そんなヒイラギの前に、白狼が静かに歩み寄った。


「お見事です。この度は、ありがとうございました」


 白狼は、まるでこの世界の代表者であるかのように、深く頭を垂れた。

 その所作に、偽りや飾り気はなかった。

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