07-陸-修復
「案内ありがとう。じゃあ、行ってくるね」
道案内をしてくれた白狼に感謝を伝え、ヒイラギは織界ノ剣を、静かに鞘から抜いた。
修復すべき場所は、もうはっきりとわかっている。
これ以上、被害が広がる前に、理を織り直さなければならない。
(気をつけろよ)
指輪越しに響いたタケルの声が、鋭く彼女の意識を引き締めた。
その言葉の通りだった。
ヒイラギの身体は、空間の裂け目に引き寄せられつつあった。
感じるのは風ではない。
地面ごと引き込もうとする、確かな引力の存在だった。
(何処まで近付けば、この剣を使えると思う?)
彼女はこの仕事道具を使うのは初めてだ。
神は「突き刺せば勝手に何とかしてくれる」と言っていたが、今この距離、この歪みでは、うかつに近づけば剣ごと裂け目に呑まれてしまうだろう。
(わからない)
(だよね〜)
慎重に、一歩ずつ足を進めた。
空間の裂け目に近付くほど、身体に掛かる引力は増していく。
村をひとつ飲み込んだだけあって、裂け目の規模は膨大だった。
少し近付くだけで、肌が引き裂かれるような危機感が突き上げてくる。
目視、残り三十メートル。
その場で少しでも跳ねれば、あっという間に吸い込まれるだろう。
「やめなさいっ!!」
背後から、先ほどとは違う、激しい叱責の声が飛んだ。
ヒイラギが振り返ると、そこには、白狼と対峙する人々の姿があった。
「あの裂け目を閉じたら……っ
吸い込まれた人はどうするんだっ……!」
震える声で、男が叫んだ。
その手は震え、目には涙が滲んでいた。
「まだ助かるかもしれない……!
うちの子も、夫も、みんな……きっとどこかで、必死に生きて……!」
別の女も叫んだ。
声はかすれ、今にも崩れ落ちそうだった。
彼らは知っている。
理屈では、もう戻らないことを。
それでも、希望を手放すことができないでいた。
白狼は、沈黙のまま人々を見つめた。
その黄金の瞳には、情も憐憫も宿らない。
ただ、静かな覚悟だけがあった。
「裂け目に呑まれた時点で、その命は潰えたも同然です。
あなた達が、希望にすがるのは自由です」
白狼の声音は、冷たくも温かくもなかった。
「ですが、世界に仇なすというのであれば、私が相手をします」
そう言い放つと、白狼は大きく唸り声を上げた。
その響きは森全体に満ち渡り、ただの人間では立っていることすら難しいほどの圧だった。
それでも、人々は震えながら、白狼を睨みつけていた。
悲しみと、怒りと、絶望を滲ませながら。
(お、おい……)
タケルの声が、指輪越しに微かに響いた。
けれど、ヒイラギの足は、自然と止まっていた。
目の前の人々の姿が、痛いほど胸に迫った。
家族を失い、希望を失い、それでも必死に縋ろうとする。
その哀れな姿は、かつての自分自身と重なって見えた。
気づいたときには、ヒイラギは剣を握ったまま、静かに足を引き戻していた。
「あなた達の中で、この空間の裂け目に飛び込む勇気がある人は、いるの?」
ヒイラギは白狼の前に立ち、人々に静かに問いかけた。
それは覚悟を問う言葉だった。
突然の問いに、人々は誰も答えられず、沈黙だけが場を満たした。
「その程度じゃ、無理だよ。
っていうか、そんな勇気があるなら、ここで泣き崩れたりしないでしょ」
黙り込んだ人々を見渡しながら、ヒイラギは吐き捨てるように言った。
かつて彼女自身も、大切な人と世界を引き裂かれ、ふとした瞬間に何度も、声を殺して泣いた。
再会するためにあらゆる手段にすがり、必死で探し続け、それでも絶望して、「いっそこの世界ごと滅べばいい」と思ったことすらあった。
だからこそ、わかる。
目の前の人々の言葉は、ただ自分の弱さを押し付けているだけだと。
空間の裂け目が開いていることを、安心材料にしているのだと。
「愚問だったね。
そんな勇気を持った人は、もうこの中にはいないんじゃない?」
静かに、しかし確かにヒイラギは言った。
ここに立っている者たちは、行動できなかった者たちだった。
そして、この場にいない者たちは、大切な誰かを救うために、命を賭して裂け目へ飛び込んだ者たちだった。
そんなことは、見ていなくても、少し考えれば誰にでもわかることだった。
ヒイラギの言葉は、何もかもを語らずとも、その事実だけを、鋭く、暗く、冷酷に突きつけていた。
「だから、邪魔をしないで。
恨むなら、憎むなら──無力で、勇気もない自分自身を恨みなよ」
ヒイラギは静かに言い切ると、再び空間の裂け目へと視線を向けた。
(頑張ろう)
タケルにも、誰にも聞かせるわけではない、小さな誓いだった。
村一つ分の、物理的に規模の大きな仕事だ。
ヒイラギは深く息を整え、心の内で気を引き締めた。