05-肆-出会い
柔らかな光に包まれながら、ヒイラギは静かに着地した。
そこは、深い緑に満たされた静かな森だった。
高く伸びた樹々が頭上を覆い、木漏れ日が優しく地面を照らしている。
足元には柔らかな苔が広がり、葉擦れの音と小鳥のさえずりだけが微かに響いていた。
土と草の匂いが、静かに呼吸するように空気に溶け込み、森全体を穏やかに満たしている。
ヒイラギは一度だけ目を伏せ、深く息を吸い込むと、静かに歩き出した。
(自然が豊かだな)
タケルの声が、頭の中にそっと響いた。
この旅は、ヒイラギ一人だけのものではない。肉体を失い、精神体となったタケルと共に歩む、静かな二人旅だった。
(……そうだね。人気のない森に、一緒に来たのは初めてだ)
ヒイラギは目を伏せ、小さく思った。
些細なことでも、タケルとどこかへ旅行に出かけたことはなかった。だからこそ、今歩いているこの森が、二人にとって初めての旅路だった。
彼女は、一歩ずつ、静かに森を進んだ。
白い旅装ブーツが、柔らかな苔をそっと押し沈める。その感触は、わずかに湿り気を帯び、ひんやりとしていた。
地面に敷き詰められた落ち葉が、かさりとかすかな音を立てる。踏みしめるたび、森の静けさに、ほんの一滴だけ波紋が広がるようだった。
ときおり、苔に隠れた細い枝が、ブーツの底を擦る。それを気にする様子もなく、淡々と歩みを進めた。
軽やかな足取り。けれど、決して急がない。ひとつひとつの歩幅に、彼女の確かな意志が宿っていた。
小さな草花を避け、倒れた枝を踏み砕かぬように、まるで森に溶け込むかのように歩いていたヒイラギは、ふいに目の前を走り抜ける小さな影に気づいた。
(……白い、子犬?)
咄嗟に、ヒイラギはそれを自分の知識に当てはめた。
影はすぐに彼女の前に立ち止まった。その小さな身体は、どこか怯えたように見えた。
(──それは犬じゃない。さっさと逃げろ)
彼女の思考を切るように、タケルの声が鋭く響いた。
(えっ……)
可愛らしい子犬のようなその姿を、ヒイラギは思わず二度見する。
だがしかし、彼女には只の可愛い子犬にしか見えなかった。
(……遅かったか)
タケルの落胆した声に、ヒイラギは子犬から視線を上げた。
そこにいたのは、息を呑むほどに美しい存在だった。
月光を凝縮したような純白の毛並み。
流れるようにしなやかな肢体。
立ち上がった耳と、微かに揺れる尾までもが、完璧な均整を保っている。
彼女──白狼は、悠然とヒイラギを見下ろしていた。
琥珀にも似た黄金の瞳が、静かに、だが決して逃さぬ眼差しでヒイラギを捉える。
不思議と恐怖はなかった。
だが、魂の奥に触れられるような、抗えぬ畏怖が、胸の内を満たしていく。
白狼は一歩、踏み出した。
その動きはまるで、大気そのものが形を成したかのように、無音で、自然だった。
ヒイラギは呼吸を止めた。
目の前の存在は、この森の理を、その身一つで体現しているかのようだった。
──指輪の彼の警告を、彼女は正しく理解した。
ヒイラギには、獣との戦闘経験がほとんどなかった。
基本的な所作こそ訓練で身に付けていたが、それだけで目の前の白狼と渡り合えるとは到底思えなかった。
そもそも、争うつもりなどなかった。
けれど、もし襲われれば、抵抗するしかない。
必死に抗えば、逃げられるかもしれない。
だが、その代償として大怪我を負うことは、ほぼ確実だった。
ヒイラギは、ゆっくりと両手を上げた。
そして、白い子犬と白狼に視線を向けながら、慎重に後退していく。
白狼は、彼女の動きをじっと見据えていた。
だが、追いかける素振りは一切見せなかった。
代わりに響いたのは、人の言葉だった。
「お待ちなさい。人の子よ」
凛とした声が、森の空気を震わせた。
「……ふぇ?」
間の抜けた声が、思わず口を突いて出た。
言葉を話す獣など、ヒイラギのこれまでの世界には存在しなかった。
それは彼女にとって、人生で初めて触れる未知だった。