別れと出会い
魔狼による騒ぎから数カ月。
荒れていた村にも、少しずつ日常の匂いが戻りつつあった。
けれど――俺の暮らしに、安らぎが訪れることはなかった。
母が、死んだ。
――病床に伏せってから、わずか十日足らずだった。
熱にうなされ、水も飲めぬままに衰弱し、その最期は、あまりにも静かだった。
母の手を握っていた指先が、次第に沈んでいくのを感じた。
呼吸は浅く、言葉ももう返ってこない。
隣で神父が祈っていた。いや、祈るしかできなかったのだ。
俺は、何も言わなかった。ただ、見ていた。
それがどれだけ長い時間だったかも、よく覚えていない。
やがて、部屋の中に静寂だけが残った。
死に際の母は、痩せて小さくなっていた。それでも、俺の頬に手を伸ばし、掠れる声でこう言った。
「……ルキウス、ごめんね。神様は……きっと、見ていてくださるから……」
俺は、何も返せなかった。
ただ、その手を握っていた。冷えきった皮膚の感触だけが、胸に焼きついている。
――母は、敬虔な信徒だった。
神の御言葉を日々唱え、教義を守り、疑うことを知らずに生きていた。
だから、俺が疫病のときに神を否定し、村の前でそれを叫んだことを、内心ではきっと、受け入れられなかったはずだ。
それでも彼女は、俺を拒絶しなかった。
家に帰れば食事があり、疲れた身体を抱きしめてくれる腕があった。
祈りよりも、正しさよりも、母は俺を選び続けてくれた。
だからこそ、俺は知っていた。
この世界に、信じる神はいなくとも――
あの人の手だけは、たしかに「愛」と呼んでいいものだった。
◇
母が逝ってから、二月が過ぎた。
感情は、思っていたよりも穏やかだった。
……いや、穏やかに“している”のかもしれない。
泣いても、嘆いても、過去は戻らない。
ならば、自分の中にできるだけ波を立てずに、生きていくしかない。
朝、目覚めて。
水を汲み、芋をふかす。
誰かの畑で黙々と働き、わずかなパンと引き換えに、その日をつなぐ。
ただ、それだけの生活。
村人たちの視線は、少しずつ露骨になってきた。
口にこそ出さないが、「忌まわしいもの」を見る目を隠しきれていない。
俺が神を否定したときから、その空気はあったが――
母の死で、それは「確定」された。
信仰に背いた子供に、与える情けはない。
母という盾が消えた今、俺はただの「異物」だ。
とはいえ、だからといって直接手を出してくる者はいない。
労働力としては使える。放り出すのも、始末するのも面倒だ。
ならば、言葉をかけず、目も合わせず、最低限の物だけ与えておく――そういう打算と惰性だけが、俺をこの村に繋ぎ止めている。
笑える話だ。
この村の人々は、祈る。
朝に祈り、畑に祈り、食事に祈り、死者に祈る。
その姿に偽りはない。本気で信じているのがわかる。
けれど――信じているからといって、善良とは限らない。
祈りがあるからといって、誰かを救うわけでもない。
それがどうした、というわけでもない。ただ、そういうものだ。
俺にとって“神”は、最初からいない存在だった。
それでも、神を信じていた母を――俺は否定できなかった。
だから俺は、信じないし、信じようとも思わない。
けれど、笑い飛ばすこともできない。
この矛盾を抱えたまま、それでも、生きるしかない。
優しさなんて、最初から期待していない。
必要なのは、生き延びるための力――ただ、それだけだ。
◇
村長の家に呼ばれたのは、朝の礼拝が終わってしばらく経った頃だった。
陽の光はまだ優しく、道端の花に露が残っている。けれど、それを眺める気分にはなれなかった。
村の誰もが、俺を避ける。
子供は目をそらし、大人たちは必要最低限の言葉しか交わさない。
それでも俺は、ただ黙って歩いた。こんなこと、もう慣れた。
村長の家は、石造りの門に木製の扉がついているだけの、質素な造りだ。
けれどこの村では、それでも「立派な屋敷」として通っている。
通されたのは広い部屋。粗末な椅子がひとつ、俺の前に置かれた。
その気遣いを“善意”と受け取る者もいるだろう。だが俺には、ただの形式に思えた。
やがて現れた村長は、初老の男だった。白髪交じりの髭を丁寧に整え、他の村民に比べていくらか上等な服を身にまとっている。
顔には、作り物ではない穏やかな表情。祈りと規律を重んじる男。――だが、情に流されることのない人物。
村長は言葉を発する前に、部屋の隅の光所にちらと目をやった。そこには昼なお淡く燃える祈りの灯がある。
「……ルキウス。君に話しておくべきことがある」
開口一番、そう言った村長の声は、どこまでも穏やかで、優しさすらにじんでいた。
「この春、小領主様が若者の中から従者見習いを募ることになってね。この村にもお触れが来た」
俺は黙って頷いた。
それ以上、何も言わずともわかっていた。
言葉にされるよりも早く、既に“何が決まっているか”を。
「君の年齢なら、申し分ない。若いし、体も丈夫だ。読み書きも……できるのだったね」
そう言って、村長は机の上の灯明にちらりと目をやり、わずかに視線を伏せた。
「……それでね、先に推薦しておいた。小領主様のお側の方とのやり取りも済んでいる。安心していい。先方は君に興味を持たれたようだ」
優しい声のまま、それは伝えられた。
選択肢ではない。ただの“通知”だ。
「きっと君にも、良い道になる。従者とはいっても、家事や雑用が中心になるだろう。兵とは違う。だが、まれに主君の目に留まり、兵士に取り立てられる者もいる。君のような子なら、きっと――そういう可能性もあると、私は思うよ」
微笑の下にあるもの。それもまた、理解していた。
俺は、村の“中”ではなく“外”に向かうべき存在として――既に振り分けられている。
「……うちの村は、そう。君に、大きな希望を与えてあげられる場ではないからね」
あくまで“村や俺のことを想って”の姿勢を崩さない。
それは信仰に生きる男の矜持か、それとも――都合よく切り捨てるための、言い訳か。
(……結局、俺が“邪魔”ってわけだ)
ルキウスは静かに思う。
だが、不思議と腹立たしさはなかった。むしろ、都合が良かった。
この村で生き残るには、信仰の加護が要る。
だが、俺はそれを持たないし、得る気もない。
ならば、力を得るには――ここを出るしかない。
(従者見習い。所詮は下働きだ。だが、それでも構わない。泥を舐めても、這いつくばってでも……手を伸ばせば届く場所があるなら──)
「……行きます」
俺は短くそう答えた。
声は落ち着いていた。けれど、その胸の奥では、火がくすぶっていた。
ただ生き延びるのではない。
力を得る。選ばれる側ではない。選ぶ側に立つ。
そうしなければ、母の死さえ、無意味になる。
村長の目が、かすかに瞬いた。
抵抗も迷いもなく受け入れたことに、少しばかり意外そうな表情を見せた。
だが、それも一瞬だった。すぐに笑みを整える。
「そうか……神の御導きがあることを、祈っているよ」
俺は頷き、深く礼をした。
その背に向けて、村長の声が優しく響いた。
「……きっと、君のような子なら、きっと報われるさ」
その言葉に、俺は何も答えなかった。
信仰に根ざした、善意の言葉。
――その“清らかさ”が、時にどれほど残酷か。
俺は、知っていた。
◇
村を出て、ひと息つく間もなく、後ろから足音が近づいてきた。
振り返ると、村の中でよく顔を合わせる男が、俺に追いついた。彼の名前はジョルジュ。年齢は二十を少し過ぎたくらいで、体格は大きく、男らしい風貌をしている。だが、目つきが少し怖く、どこか遠慮がちな雰囲気が常に漂っていた。
「ルキウス、すまねえが、俺がついていくことになった」
俺は無言でその言葉を聞いた。
村長からの指示だろう。あの男はいつも穏やかに笑っているが、実際には、少しでも自分の思う通りに物事を進めようとする。村の外に出る者がいれば、何かしらの「見届け役」をつけるのが常だった。ジョルジュは、特別親しいわけでもなく、ただ村で働く者の一人に過ぎなかった。しかし、どうやら俺の旅路に付き添うことになったらしい。
「……わかってる」
俺は短く答えると、再び前を向いて歩き始めた。ジョルジュが、少し後ろからついてくるのを感じながら。
道は徐々に広がり、村の外れを越えると、草原が広がり、風が心地よく頬を撫でていく。だが、ジョルジュの存在が不思議と気になって、俺は何度もその歩調に耳を傾けてしまった。
「……あの、ルキウス」
思わず振り向くと、ジョルジュは少し間を置いてから、また口を開いた。
「お前、これから先、どうするつもりだ?」
その問いに、俺は一瞬考え込んだ。だが、すぐに答えるべき言葉が見つからない。そう、俺にはまだ、先のことが見えない。あの領主館に着いたとして、その後何が待っているのか、それすら予測できなかった。
「力を手に入れる」
無意識に出た言葉だった。それがどれだけ抽象的な意味を持っているかは、今の自分でもわかっていない。だが、胸の奥で燃えている「何か」に導かれるままに、その答えを口にしてしまった。
ジョルジュは少し考えるように、黙って歩いていた。そして、静かにこう言った。
「力……か」
その言葉には、何かが含まれているような気がした。だが、俺は気にしないふりをして歩を進めた。ジョルジュは、静かに俺の後ろに付いてきた。何も言わず、ただ黙々と。
少しだけ、視線を交わすこともあった。だが、それはただの一瞬のことだった。俺はそのまま、目の前の道を歩み続けた。村を出たこと、そして今、目の前に広がる新たな世界。そこに何が待っているのか――それを、まだ理解しきれていない自分がいた。
(どこに行くにも、足を踏み出さなければ始まらない)
そう、心の中で呟いて、歩みを進めた。
ジョルジュがついてきているのを感じながら、俺はひたすら歩き続けた。足元に広がる草原の緑、風が顔を撫でる音、どこか遠くから聞こえる小鳥のさえずり。それらは確かに心地よかったが、心の中で渦巻く焦燥感にはどうしても勝てなかった。
領主館――その場所には、確かに力があるだろう。だが、それがどれだけ俺の力になるのかはわからない。何もかもが未知数だった。
そして、俺がここにいる理由も、はっきりとは言葉にできない。
「なあ、ルキウス」
3日ほど歩き、領主館も近くなってきた頃、ジョルジュは再び口を開いた。
「なんだ?ジョルジュ」
「……お前、本当に、あの村を出てよかったと思ってるか?」
その問いに、俺は一瞬、言葉を詰まらせた。
思っているのか、と問われれば──それは、簡単な話ではない。
「……後悔はしてない」
短く、そう答えた。心に浮かぶのは、母の顔と、村の冷たい視線。そして、あの村長の穏やかな声。
あの村に、俺の居場所はなかった。信仰に染まった村の中で、俺は異物だった。今も、その事実は変わらない。
「でも、寂しくはあるんだろ?」
ジョルジュは、からかうような声色で笑った。だがその笑いは、どこか優しさを孕んでいた。
「……そうかもな。だが、情に縋って生きられるほど、俺は器用じゃない」
そう言いながら、目の前の道に視線を戻す。木々の合間から、石造りの建物の一部が見えてきた。どうやら、目的地はもうすぐらしい。
「お前は、戻るんだよな?」
俺の問いに、ジョルジュは静かに頷いた。
「ああ。俺は、村で生きていく。あの土地と、あの空と、あの畑が、俺にはちょうどいい」
「……そうか」
それ以上、言葉は交わさなかった。沈黙の中で風が吹き抜ける。
やがて、森を抜けると、開けた丘の上に建つ領主館が姿を現した。
白い壁は陽の光を受けてまぶしく輝き、その前には広大な庭と、整然とした道が続いている。村とは違う、洗練された空気。整えられた秩序の中にある、力の匂い。
門の前で足を止めたとき、不意にジョルジュがぽつりと呟いた。
「……なあ、ルキウス」
声の調子が、いつもとは少し違った。冗談でもなく、軽口でもない。
俺は静かに振り返る。
「疫病のときさ……お前が神に向かって叫んだこと、覚えてるか?」
胸の奥が、わずかにざわついた。
あれは、もう何年も前の話だ。村を襲った熱病。村民の半数近くが死に、村の者たちはただ祈ることしかできなかった。
――祈っても!死んでいく!それでも神は見ているのか!?
確かに、そう叫んだ。
声がかすれるまで、喉が切れるほどに。
誰も助けてはくれず、ただ俺一人が、声を上げていた。
「……あのとき、俺、本当はすごく怖かったんだ。家族も、どうなるか分からなくて。けど……お前の声を聞いて、ちょっとだけ、救われた気がした」
ジョルジュは、どこか遠くを見るように言った。
「祈るのが当たり前だって思ってたし、それは今も思ってる。でも、祈ることしかできないのは嫌だった。何もしないまま、ただ神様にすがることしかできないのが、悔しかった。でも、お前は……怒ってた。全力で抗ってた。俺より年下なのに、すごいって思ったよ」
こんなこと、村の人間どころかお前以外の前では言えないけどな。言葉の最後に、ジョルジュはそう言って苦笑した。
俺は何も言わなかった。ただ、その言葉を、胸に受け止める。
「……だからさ。お前がここへ行くって聞いたとき、ちょっと嬉しかったんだ。やっぱり、行くやつは行くんだって。あの日、叫んだやつは、やっぱり、立ち止まらねえんだって」
その声に、嘘はなかった。
だから俺も、背を向けたまま、小さく答えた。
「……ありがとな」
風がまた吹いた。高い丘の上を抜けて、白い壁の向こうへと流れていく。
その風の中、俺は、門をくぐった。
──始まりは、きっともうここにある。
◇
門をくぐった瞬間、風の匂いが変わった気がした。干草と土の混じった匂いから、わずかに乾いた石と古木の香りへと。
「そこのお前、止まれ」
不意にかけられた声に、思わず立ち止まった。
乾いた声だったが、決して怒声でも威圧でもなく、ただ確かめるような、必要最低限の響きを持った声だった。
声のした方へと顔を向ける。
門の脇に立つ男が一人。無言のまま、こちらを見据えている。
中背で、肩幅は広く、姿勢には無駄がなかった。日焼けした顔には深い皺が刻まれており、短く刈られた灰色の髪の隙間から、額の古傷がのぞいている。
身にまとう革鎧は簡素だが、丁寧に手入れされており、腰に吊るされた無骨な剣とあわせて、彼が飾りではなく実務に携わってきた者であることを感じさせた。
その男は、門兵というよりも、屋敷の守りを任される「番人」という言葉がふさわしかった。名誉職としてそこに立つのではなく、必要だからそこにいる。彼の姿からは、そういう信頼の積み重ねが見て取れた。
「用向きを言え」
「従者見習いとして。村から推薦を受けて来ました」
言葉に詰まることはなかった。繰り返し練習した通りに、落ち着いた声で応じる。
男はしばし無言で俺を見たあと、ちらりと門の外――まだ少し離れた場所に立つジョルジュの姿へと視線を流す。そして、何かを確認するように軽く頷いた。
「……名は?」
「ルキウス」
胸の奥にわずかな緊張が走る。だが、声はしっかりと出ていた。
番人はしばらく、目の前に立つ俺をじっと見つめた。
その視線は鋭く、冷たく、だが何も語らなかった。
ただ、こちらを観察している――そんな気配があった。
やがて、男は無言で杖を手にしたまま、軽く地面に突き立てた。
石畳に鈍い音が響き、その音が周囲に溶け込むように、あたりの空気が一瞬、静止したような気がした。
すると、館の内部から、軽やかな足音が近づいてくる。
やがて、若い男が姿を現した。
彼はすぐに、俺の方を一瞥する。
年齢はおそらく俺と同じくらいか、それより少し若いかもしれない。
だがその表情には、世間の荒波に揉まれたような落ち着きがあった。
地味な麻の服を着て、足元のブーツはすでに擦り切れている。
その姿から、余裕のある生活とは程遠い生活をしていることが伝わってきた。
それでも、どこか堂々とした雰囲気を漂わせていた。
「案内する。こっちだ」
彼の言葉はぶっきらぼうで、無駄なものは一切なかった。
視線も俺に向けず、さっさと踵を返すと、石畳の道を歩き始める。
俺はその背に続き、足を運んだ。
だが、ついに館の内側へと一歩踏み出す前に、ふと足を止めた。
一度だけ、振り返ってみる。
ジョルジュの姿が目に入った。
彼は遠くに立って、静かに俺を見送っている。
言葉はない。ただ、小さく手を挙げたその仕草に、全てが込められているようだった。
それを見て、俺も小さく頷き返す。
ジョルジュの表情は、心配そうでも、励ますようでもなく、ただ静かに受け入れている。
その無言の支えを感じると、改めて背中を押されたような気がした。
そして、背後で重い扉が閉じる。
鉄が軋み、空気がひときわひんやりと冷たく感じられる。その音は、ほんの少しの間だけ、外の世界を遮ったように響いた。
その音が耳に残る。
――ここから先は、もう戻れない。
それが、自分にとって、どれほど重い意味を持つのかが、今はまだ分からない。
けれど、間違いなく、ひとつの決断を下したことだけは確かだった。
心の中でその言葉を反芻しながら、苔むした石畳の道を、俺は歩き始める。
一歩一歩が重く、しかし確かなものとして足元に響く。
これが、俺の新しい生活の始まりだと思うと、胸が高鳴ると同時に、静かな不安も湧き上がってくる。
だが、何もできずにただ"死んでいないだけ"なのはもう嫌だった。