魔との遭遇
最初に異変が起きたのは、春の長雨が上がって数日ほど経った頃だった。
雨に潤った畑の土はまだ柔らかく、夜毎に蛙が鳴き、草の芽がのびのびと地を割っていた季節。村では、今年初めて仔羊が放たれ、ようやく冬の名残を脱ぎ捨て始めていた。
──翌朝。
まだ霧の残る早朝、羊飼いのイェゴ爺が畑の脇で叫び声を上げた。
「殺られとる! 仔がやられとるぞ!」
泥にまみれた小さな身体が、畦道の傍に転がっていた。首から上が不自然に捻じれ、頭部は背中にめり込むほどに折れ曲がっている。目だけが見開かれたまま空を仰ぎ、すでに光を失っていた。
顎の付け根には、皮膚を引き裂いた深い裂傷があり、そこから赤黒い血がぬめりと流れ出て、畑の泥にじっとりと染み込んでいる。蹄の付け根にはかすかな引き摺り跡が残り、仔羊は暴れもがきながら殺されたことを物語っていた。
骨は、まるで内側から膨張して破裂したかのように砕けており、皮膚の下からは白く濁った骨片がいくつも突き出ていた。圧死や締め殺しではない。明らかに、咥え込んだ顎の中で──砕かれたのだ。
巨大な顎で、容赦なく噛み締め、骨ごと潰したとしか思えぬ、異常な損壊だった。
誰かが「山犬か」と呟いたが、イェゴ爺はかぶりを振った。
「違う。喰われてねえ。けど……この噛み方はおかしい。噛み千切るってより、骨ごと磨り潰すみてえな……こんな力、見たことがねえ」
村人たちは何かを言いかけては口を噤み、仔羊の残骸を見下ろして立ち尽くしていた。
そして、それから数日後。
今度は裏山に薬草を採りに出ていた村の娘が、昼過ぎに駆け戻ってきた。顔は真っ青に引き攣り、泣き叫びながら背負っていた籠を村の広場の真ん中に放り投げた。
「し……鹿が……裂かれて……! あれ、あれは……!」
泣き崩れた娘から話を聞き、男たちが裏山へと向かった。
森の中、細い獣道を進んだ先──そこには、言葉を失うような光景が広がっていた。
湿った草むらに血が飛び散り、泥と混じり合って黒ずんだ染みをつくっている。その上には、無数の肉片が散らばっていた。骨が粉々に砕かれ、筋肉は断裂し、脂と血とが入り混じって、獣の腹を裂いた時のような生臭い熱気を漂わせていた。
木の根元には、胴体の名残──否、それとすら呼べぬ塊が横たわっていた。背は大きく斜めに裂け、肋骨は内側から押し広げられるように砕かれ、皮膚には巨大な牙のような裂け目が数本、曲線を描いて走っていた。
「山犬……いや、熊か……?」
男たちは無言で顔を見合わせた。誰もがそれを口に出したがらず、それでも沈黙の中、疑念だけが空気に残った。
何かが、おかしい。
まず、匂いだった。
血の匂いが、異様だった。普通なら、屍からは甘く鼻につく死臭が漂う。しかしここに立ちこめていたのは、焦げた金属のような、乾いた鉄粉を吸い込んだような匂い。喉の奥がざらつき、鼻の内側が焼けるような刺激。まるで血そのものが焼け焦げ、熱煙となって地に染み込んだような、異常な臭気だった。
次に、破壊の痕跡。
獲物を「食う」のではない。「壊す」ために力を振るったとしか思えない痕。牙や爪の鋭さではなく、質量そのもので打ち据えたような暴力。押し潰された筋肉、ちぎれた腱、はじけ飛んだ臓器。それは生き物の狩りではなく、ただ「殺すためだけ」に暴れまわったかのような跡だった。
──そして翌朝。
雨が上がり、朝霧が晴れた頃。村はずれの小道を通って山へ向かっていた炭焼きの男が、ぬかるみに妙な足跡を見つけた。
狼の足跡──に似ていた。だが、それは明らかに異常だった。
泥に深く沈んだ足跡は、どれも大人の男の頭がすっぽり収まるほどの大きさ。しかも歩幅が異常に広く、二歩分に見えるほどの距離を、四肢の一歩で進んでいる。指先には鋭く深い爪の跡が残り、四本のうち一本はやや外側にずれていた──まるで、それ自体が別の関節を持つかのように。
「これ……二匹分じゃねえぞ。片足でこの間隔って、どんだけデカいんだ……」
さらに、道の脇に立つ木の幹には、斜めにえぐるような三本の爪痕が刻まれていた。高さは、人の胸から肩ほどにもなる位置。木の皮は抉り裂かれ、内側の白い木肉がむき出しになっていた。
爪痕はまっすぐではない。撫でたような軌跡ではなく、力任せに引き裂いたような角度で抉れていた。まるで、駆け抜ける何かが木を薙ぎ払ったかのように。
それは「獣の痕跡」というより、「通過の痕」だった。
そこに、確かに「何か」が在った。だが今は、その姿をどこにも見ることはできない。
ただ、異様な臭気と、荒々しい破壊だけを残して──
「……まさか、魔物なんじゃ……」
誰かがぽつりと呟いた。
その一言に、場の空気がぴんと張り詰めた。
神父が静かに十字を切る。
「……異端の気配があるのなら、主の光を乞わねばなるまい」
その日を境に、村の空気は変わった。
朝になるたび誰かが畜舎の前で膝をついた。血に濡れたわら、開いたままの柵、痕跡だけを残して姿を消した羊や山羊。見回りの若者たちは言葉少なに顔を伏せ、老人たちは焚き火の傍で煙草をふかしながらも、目だけは森の方を離さなかった。
女たちは毎日、祈るようにして教会へと通うようになった。手にロザリオのような数珠を握りしめ、黙して祈りを捧げ、時に涙を流した。
母も、俺を連れて祈りに行った。
俺は祈りなんて捧げたくなかった。祈ったところで神は救ってなんてくれないのだから。でも、母が必死に神父へと嘆願をして俺が礼拝堂へ入るのを許してもらっている姿を思うと、神ではなく母のために祈ることはできそうだった。
石造りの小さな礼拝堂。古びた祭壇には、セリオス教の象徴である「沈黙の印章」が祀られていた。誰もその神の名を口にはしない。ただ沈黙のなかでひれ伏し、心の内に問いかけ、赦しと庇護を願うだけだった。
だが、祈りだけでは済まされなかった。
翌日には、猟師たちのまとめ役であるヤール爺が若者ふたりを連れ、山を下りて街へ向かった。裏道や山道を繋いで三日──無理をすれば二日で辿り着ける距離に、領主の館と衛兵詰所がある。
報告は急務だった。
誰もがそう分かっていた。けれど、言い伝えだけで語られるような「人ならざるもの」の痕跡に、言葉は曖昧になり、説明は困難を極める。だからこそ、現場の目撃と証言を携え、若者たちが同行する必要があったのだ。
その朝、村の広場で見送られた三人は、肩に弓と鉈を担ぎ、夜明け前の冷気のなかを無言で歩き出した。まるで、戦場へ向かう兵士のようだった。
それを見ていた人々の表情にも、もはや「何かの獣だろう」という楽観はなかった。ただ、深く押し殺された不安と、遠くからやってくる誰かの「力」に縋りたいという、切実な思いが広がっていた。
神と領主。祈りと報告。
目に見えぬ恐怖に対し、人々が成しうる行動は、せいぜいそのふたつだった。
◇
兵士たちが村に現れたのは、ヤール爺たちが街へ報せを届けてから七日目の朝だった。
朝靄に包まれた谷の向こう、まだ陽も登りきらぬ時間帯。丘の上から、乾いた蹄音がゆっくりと響いてきた。最初に気づいたのは、山羊を追っていた子どもだ。小さな悲鳴があがり、村のあちこちで戸が軋む音がした。眠気を抱えたまま顔を出した村人たちは、音の主を見て、次第に口を閉ざしていった。
霧を割って姿を現したのは――十数名の男たちだった。
先頭には、漆黒の甲冑をまとった騎士風の男が一騎。身じろぎもせず馬を操るその姿は、獣を乗りこなす者ではなく、まるで鉄と革で編まれたひとつの機構のようだった。赤い外套が風に揺れ、肩章には銀色の獅子の紋章が刻まれている。そのすぐ背後には、やや若い副官と思しき者がもう一騎従っていた。
その他の兵は徒歩で、簡素な革鎧に弓や槍、曲刀などの雑多な装備を携えている。だがその足取りは揃っており、迷いがない。武器の持ち方にも遊びはなく、視線は常に左右の家々を警戒していた。粗野ではあるが、鍛えられた歩兵たちだとすぐにわかった。
――民兵ではない。
――この村には不釣り合いなほどの、実戦経験者の匂いがした。
男たちはまるで風景の一部のように黙って村を進み、やがて村の中心にある長屋――村長の家の前でぴたりと止まった。
馬上の騎士は、言葉ひとつ発せず馬を降りると、ぎしぎしと軋む鉄靴を鳴らして戸口へ歩み寄る。その動きは、甲冑に包まれているというのに異様なほど静かで、滑らかだった。まるで重さなどないかのように、あるいは中身すら本当にあるのかと疑うような――そんな奇妙な軽さだった。
そして、戸を開けた。
「ここの責任者は誰だ」
低く、乾いた声だった。怒気も威圧もない。ただ、剣と同じ材質でできたような、感情のない響きだった。顔は見えなかった。深くかぶった兜の奥に、目の光すら見えない。ただ、そこから発せられる音が、空気を斬った。
村長が戸口に姿を見せると、男は問答無用で言葉を続けた。
「魔物出現の報を受け、討伐に赴いた。以後、村の指揮権は我々にある。案内役を一人選べ。……最後に被害が出た場所を示せ」
命令の羅列だった。質疑も確認もなかった。まるで兵士に指示を出すような調子で、騎士は言葉を並べた。村長が少しの間、困惑したように言葉を探し、それから深く頭を下げたが、男は何の反応も示さなかった。謝意も、納得も、苛立ちもなかった。ただ、次の行動に進むだけの無感情な機械のようだった。
俺は、母の後ろに隠れてその光景を見ていた。
まだ九歳の体にとって、彼らの放つ気配はあまりにも重く、強かった。
けれど、それに呑まれるわけにはいかなかった。
この世界を知るためには、こういう者たちを見つめなければならない。
だから俺は、静かに、冷静に、彼らを観察していた。
その手に握られた剣は、飾りではない。使い込まれてなお、手入れが行き届いていた。
視線の奥に、人間を見る温度がない。動物と同じ距離感で、命を見ている。
そして何より――彼らは、そこにいるだけで村全体の空気を変えた。
息をひそめる者。目を伏せる者。言葉を失う者。
「これが“力”だ」
俺はその時、胸の内に刻んだ。
この世界では、"力"が秩序を作る。
正義だとか、想いだとかは全部後からついてくる。"力"がなければ選ぶことすらできないのだと。
◇
黒鎧の騎士は再び馬に跨がり、すぐに行動に移った。
選ばれた案内役の村人が慌ただしく支度をし、数名の兵士とともに村の外れへと向かう。
家畜が消えた畜舎。裂かれた木製の柵。地面に残された曖昧な血痕。草むらに散った毛。
兵士たちはそれらを一つひとつ、沈黙のうちに確認していった。
一人がしゃがみこみ、土を指でこすり取って匂いを嗅ぎ、別の者は剣の平で獣道の草を押し分け、奥へ続く痕跡を目で追う。
まるで言葉も、祈りも、恐れさえも存在しないかのような、無言の観察と思索。
――祈らない。問いかけない。嘆かない。
それが異質だった。
村の大人たちは、神に問うことしかできなかった。
神父は口を開くたびに「赦し」や「導き」の言葉を繰り返した。
この事態をどうするかではなく、なぜこうなったのかを神に問い、悔い改めを促した。
けれど、目の前の「裂かれた柵」は、当然祈っても直らなかったし、血の染みは、説教では消えなかった。
だが、彼らは違った。
剣と目と足と手で、世界に触れていた。
まるでこの現実を、理解し、抗うために生きているかのように。
森の縁で一人の兵士が立ち止まり、風の流れに逆らうように鼻を利かせる。
もう一人が、土を掌ですくい上げ、こぼれる粒の落ちる方向と速さをじっと見つめる。
それらは呪文でもなければ、儀式でもない。ただ、積み重ねられた知識と経験による所作だった。
数刻の調査を終えると、彼らは迷いなく村の一角──納屋と小麦畑の間にある開けた土地を選び、野営の支度を始めた。
荷馬車から荷物を下ろし、槍を地に突き、焚き火の囲いを石で組み、歩哨の位置を定めていく。
一切の混乱もなく、命令の声さえ最小限。誰もが何をすべきかを知っていた。
その様子を、俺は遠巻きに見ていた。
ただ、見ているだけではいられなかった。
俺は母の制止を振り切って、陣へと向かった。
怖くなかったわけじゃない。
足は震えていたし、何度も母の声が脳裏をかすめた。
けれど、どうしても知りたかったのだ。
あの騎士たちの「強さ」が、どこから来ているのかを。
村の人々が神に祈る間に、彼らは槍を持って動いていた。
俺たちが顔を伏せている間に、あの男たちは、まっすぐ前を向いていた。
──まるでこの世界に抗うことを、当然のように知っているかのように。
天幕の傍まで来たとき、すぐに見咎められた。
「子どもが何の用だ」
最初に現れたのは副官だった。若いが冷徹な目をしている。
俺は震える声で訊いた。
「あなたたちは……どうして、あんなふうに動けるんですか? ……誰かに祈ったりしないで……」
副官は眉ひとつ動かさなかった。ただ、冷たく言い捨てた。
「帰れ。ここは遊び場ではない」
「でも……俺、知りたいんです」
「知る必要はない」
言葉は鋭く切り捨てられた。
すぐ後ろから、鎧の音がして、今度は指揮官が現れた。仮面のような兜の奥から、低い声が響く。
「追い出せ。子供に付き合ってやる暇などない」
副官がまっすぐ俺の肩に手をかけようとした、その時だった。
「おいおい、そんな怖い顔してやるなよ。まるで蛇が噛みついたみたいだ」
緊張を裂くような、軽い声だった。
振り返ると、革鎧を着た男が一人、槍を肩に担いで歩いてくる。
年は二十代半ばくらいだろうか。口元に笑みを浮かべているが、目は意外と鋭い。
「子どもってのは、好奇心で動くもんさ。戦場じゃ足手まといだけど、今は戦じゃない」
指揮官がじろりとその男を見たが、特に咎めることはせず、黙って踵を返す。
副官も肩をすくめて手を離した。
「まったく……好きにしろ、ガイアス」
「ありがとよ。じゃ、坊主。ちょっと付き合え」
そう言って男──ガイアスは、俺を促して陣の外へと歩き出した。
少し離れた木陰に座りこみ、槍を膝に立てかけながら笑う。
「で? そんなに知りたかったのか、俺たちの"動き方"ってやつを」
俺は小さく頷いた。
すると彼は、ふっと笑いながら言った。
「いいぜ、教えてやるよ。教えられる範囲で、な。……ただし、聞いたからって、すぐに真似できるもんじゃない。剣も槍も、祈りも、全部〝覚悟〟がいる。覚悟がなきゃ、何も手に入らねえ」
その言葉が、胸に残った。
教会では、覚悟なんて言葉は聞いたことがなかった。
ただ祈れ、ただ従え、ただ信じよとしか──。
けれど、ガイアスの言う「覚悟」は、それとはまったく違う響きを持っていた。
「……でも祈りもって?」
気づけば、俺はそう問い返していた。
ガイアスは少し目を細めて、膝に立てかけた槍の柄を軽く叩いた。
「気づいたか。そう、祈りもだ」
「でも教会では、祈りは──神……様に願いを聞いてもらうことだとしか言われない」
「そうだな。けど俺たちの祈りは、ちょっと違う」
彼は空を見上げた。高い雲が、ゆっくりと流れていく。遠くでは、鳥の鳴き声が聞こえた。
「剣を振るって人を斬る。命を奪って、生き残る。……そんな真似をして、何も背負わないでいられると思うか?」
俺は言葉に詰まった。ガイアスの声は穏やかだったけれど、どこか深い淵を覗くような、静かな恐ろしさがあった。
「だから祈るんだ。願いのためじゃない。心を守るためでもない。……ただ、自分がどこから来て、どこに帰るかを、忘れないために」
「……帰る場所」
「そう。戦いのたびに、人は少しずつ“人間”じゃなくなっていく。怒りも、痛みも、悲しみも、全部麻痺していく。でもな、それでも俺は、“人間でいたい”んだよ」
ガイアスはゆっくりと胸に手を置いた。
「だからこそ、祈る。俺はこういう生き方を選んだんだって、ちゃんと認めるために。逃げずに、迷わずに、進んで……そして、戻るために」
それは、今まで教わってきたどの“祈り”よりも、重く、現実に根差したものだった。
「なあ、坊主。お前がもし、本気で強くなりたいと思うなら──」
ガイアスは俺の目をまっすぐに見据えた。軽い笑みの奥に、決して消えない焔のような光があった。
「戦う理由を決めろ。そして、どこへ帰るかを忘れるな。強くなればなるほど、それを見失いやすくなる。だが、それを失ったら……いずれ、戦うことしかできなくなる」
俺は、しばらく言葉を返せなかった。ただ静かに、その言葉を噛みしめていた。
「……教会じゃ、そんな話、してくれなかった」
「だろうな。教会は“信じること”を教える。だが俺たちは、“選び続けること”を学ぶ」
彼はそう言って立ち上がると、軽く背伸びをした。
「ま、堅苦しい話はこの辺にしとこうぜ。次に会うときは、もう少し槍の振り方でも教えてやるよ。あの堅物が許せば、な」
笑いながら、彼は軽く手を振った。
「名前、聞いてなかったな。俺はガイアス。お前は?」
「ルキウス……です」
「いい名だ。忘れねえよ、ルキウス。またな」
ガイアスは軽やかに踵を返し、陣営へと戻っていった。 その背は、どこか誇らしく、そして自由だった。
俺はしばらく、彼の言葉を思い返していた。
「……帰る場所、か」
それは、この世界に転生した俺にとってこれ以上ない皮肉だった。
◇
その夜だった。
俺は、家に戻っていた。
母に怒られて引き戻されたあと、納屋の窓からずっと野営地を見ていた。
ガイアスの言葉が、ずっと頭の中を離れなかった。
何の前触れもなく、森が――叫んだ。
否、それは風でも、獣でもない。地の底で何かがうめき、世界の膜を押し破るような――そんな「音」だった。
聞こえたのではない。骨が震え、臓腑が軋んだ。音そのものが、肉体の内側から響いてきた。
木々が一斉にざわめき、鳥が飛び立ち、家畜が悲鳴を上げて逃げ惑った。
村の空気が凍りついた。大人たちが戸口を閉め、子どもを抱えて怯える。
目の前にはないのに、体の奥が、理屈もなく叫び出しそうになる。
何か、いる。何かが、来る。
その気配は、確かに村のすぐ近くまで迫っていた。
兵士たちは、誰一人として叫ばなかった。
ただ、音もなく立ち上がり、武器を手にし、焚き火を足で消し、配置についた。
あのガイアスですら、笑わなかった。
真顔のまま、俺の方を一瞥した後、すっと視線をそらして前を向いた。
すでに「覚悟」を切り替えた目だった。
刹那――村の柵が、弾け飛んだ。
地鳴りのような音とともに、巨大な影が跳ね込んでくる。
夜の帳に染まったその姿は、獣であり、何か違う“もの”だった。
四足。だが背は人の二倍以上。
皮膚は濃い灰色で、血のような赤い斑が光っている。
裂けた口からは牙が覗き、真っ黒な瞳は焦点が合わず、だが確かに「見られている」という感覚だけがあった。
誰かが叫ぶ。村の男か、女か、子どもか、それすら分からなかった。
恐怖が一気に走り抜け、体が動かない。息すらできなかった。
──その時、音がした。
誰かの刃が、確かに獣の皮膚を裂いた。
血飛沫が飛ぶ。獣の怒号ともつかぬ咆哮が夜気を震わせ、そこに人の怒声が重なる。
──戦っている。
ただ逃げ惑うのではない。
この“異形の死”に対して、真正面から立ち向かう者たちがいた。
兵士たちは列を乱さず、仲間の死を前にしても怯まず、冷静に、時に獣を誘導し、時に一撃を叩き込む。
一人が前に出て爪を受け止める。その背後で、別の兵士が斜めに踏み込み、肩越しに槍を突き立てる。
誰も叫ばず、指示も飛ばない。互いの動きだけで、陣形が生きていた。
ガイアスの槍が、風を裂いていた。
静かで、正確で、容赦のない動きだった。人を導くような優しさは、そこにはもうなかった。
人ではなく、ただ“戦うもの”の動き。言葉もない。ただ槍と剣と、命で支える陣形だけがあった。
窓越しに見るそれは、劇でも物語でもない。
だが不思議な静けさがあった。心は凍りついたままだったが、そこに恐怖はなかった。
──やはり、これがこの世界だ。
死は、いつも身近にいるわけではない。
けれど、気づけば隣にいる。音もなく、息をひそめて、足元をなぞっている。
歩き慣れた地面が、ある日突然崩れるように、それは静かに忍び寄っている。
死があることは、知っていた。
前世ではあり得なかった。死は遠く、特別で、無関係であるように振る舞えた。
でもこの村では、赤子も、老人も、春先の風邪ひとつであっさり逝った。誰も泣き叫ばない。土を掘り、黙って埋めて、翌日には畑に出る。それが日常で、俺もそういうものだと思うようになっていた。
この人達は違う。
今剣を抜き、戦っている人たちは、きっと違う。
この人たちは、ただ死を受け入れているんじゃない。
死が目の前にあることを知っていて、それでも立ち向かうことを選んだんだ。
獣が再び飛びかかる。誰かが迎え撃ち、倒れる。
そのすべてが、冷たく、静かで、だが……美しかった。
評価、感想などお待ちしております。