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祝福なき異世界にて  作者: 匿名希望
1/3

生まれ変わって

 目を開けていたことに気づいたとき、俺は腐った藁の上にいた。

 視界は霞み、世界は影絵のように滲んでいた。鼻を突く酸臭、湿った布のような空気、女の低いうめき。すべてが混ざり合い、思考を鈍らせる。

 それでも、分かった。


(……俺、死んだんじゃなかったか)


 思い出すのは深夜のコンビニ帰り。信号無視のトラック、その光——

 ……うん、異世界転生するには実に典型的な死に方だったと思う。

 痛みはなく、ただ眩しさの中で意識が途切れた。すべてが終わった、はずだった。

 そうして目覚めたのは、糞尿と血と藁の匂いに満ちた小屋。俺は裸で転がされていた。

 すぐに悟った。これは、いわゆる「異世界転生」だ。

 だが、何かが違った。

 ステータスが開くこともなければ、神に出会った記憶もなく、チートが宿っている気配もない。

 俺はてっきり、こういうのって、スキルとかチートとかを授かるもんだと思ってた。

 そうだろ? 異世界って、そういうもんじゃないか。

 でも、現実は違った。

 俺の前には、美少女も、老人の賢者も――誰一人、現れなかった。

 俺の体は小さく、言葉も出せず、視界はなお霞んでいる。


 神様なんていない。いたら、もう少しマシな生まれ方を選ばせてくれるはずだろう。

 もしかしたらわざとだったのかもしれない。だとしたら、けっこう趣味が悪い。

 俺は、赤子として“生まれ直した”のだった。

 最初にしたことは剣を取ることでも、魔法を使うことでもない。泣き、寒さに震えながら、母の腕を探して這うことだった。



 母は十代半ばの、まだ子供に片足を残した娘だった。

 痩せた体には骨の輪郭が浮き、腕も脚も細かった。背は低く、声も小さい。

 髪は乾いた藁のようにぱさつき、額にはいつも滲むように汗が滲んでいた。

 顔色は悪く、目の下には紫がかった隈が定着していた。——栄養のない食事と、休まる暇のない生活のせいだろう。


 それでも、彼女の腕は、いつだって温かかった。


 泣きも喚きもしない俺を、戸惑いながらもぎこちなく抱き上げ、

 乳をくれた。張りもない小さな胸から、わずかに絞るようにして。

 足りない分は粥にして、麦粒を手で潰し、指先で掬って、俺の口にそっと運んでくれた。

 赤ん坊の世話をどうすればいいのかも分からず、何度もこぼしては慌て、

 夜中に泣きたそうな顔をしながらも、決して俺から目を逸らさなかった。


 言葉の意味は分からなかったが、その声音には、たしかに優しさが混じっていた。

 同時に、それを包み込むように、深い怯えがあった。


 彼女は気づいていたのだ。「この子は、普通ではない」と。


 生まれてすぐに泣き声を上げなかったこと。

 生後数ヶ月も経たないうちに、視線をまっすぐに返すこと。

 まるで何かを理解しているかのように、周囲を見回し、言葉を模そうと舌を動かすこと。

 母親の指先をつかみ、目を見て離さないこと。


 ——そこに宿っているのは、乳飲み子にはあるはずのない、“意志”だった。


 それが不気味でないはずがない。

 気味悪がって捨てても、誰も責めなかったはずだ。

 ただでさえ、母も「邪魔者」として扱われていたのだから。


 母に“夫”はいなかった。村の誰もが、そのことについて口を閉ざしていた。

 彼女自身も何も語らなかった。ただ、男の名も、顔も、血筋も記されていない出生帳が、すべてを物語っていた。


 あるいは、それは罪の結果だったのかもしれない。

 あるいは、ある夜に「誰かに奪われた」結果だったのかもしれない。

 どちらにせよ、母の腹が膨らんだ時点で、彼女には未来などなかった。

 その年齢で身ごもった女に、選択肢はない。

 ただ、産むしかなかった。産み、育て、何とかして生き延びるしかなかったのだ。


 けれど彼女は、俺を捨てなかった。


 目を伏せ、唇を噛みながら、それでも俺を抱きしめた。

 その腕の中には確かに、誰かを抱きしめることを知ったばかりの少女の、未熟で不器用な、けれど真摯な愛情があった。


 俺はそのぬくもりを、はっきりと覚えている。



 季節が巡り、俺はようやく歩くことを覚えた。

 足元はふらつき、転んでは土を舐め、泣きもせずに立ち上がった。

 言葉は、もっと時間がかかった。けれど耳で拾い、口の形を真似し、母の声を何度もなぞった。


 最初に発した言葉は、「ぱん」だった。


 ——パン。食べ物の名前。

 赤子が初めて口にする単語として、それはあまりに露骨だった。

 俺が、どれほど飢えていたかがよく分かる。


 日本にいた頃。

 腹が減ったと思えば、コンビニに行けばいいだけだった。

 肉まん、カップ麺、ポテチ、チョコレート。気分次第で好きなものを選び、数分後には口に入っていた。

 冷蔵庫を開ければ牛乳があり、パンがあり、何かしらの総菜があるのが当然だった。

 飢えという感覚は、ゲームのステータスや災害報道の中にしか存在しなかった。


 だが、ここでは違った。


 粥。

 母が干し麦を挽き、湯に放って煮たもの。塩気も出汁もない、ただの澱。

 それが日に何度も虫を湧かせた。コクゾウムシ、蛆、名前も知らない白いもの。

 それでも、母は掬って、虫を指で潰して、俺に食わせた。

 「いけるよ、まだいける」そう言って。自分の分は、いつも最後にした。


 塩は貴族のもので、庶民には薬と同じ価値だった。

 肉など年に一度、祭りの日に削がれる干し獣肉を、一口もらえれば御の字だった。

 その代わり、母は野に出て、野草を拾った。

 苦味で顔をしかめ、時には喉が焼けるようで吐き出した。

 それがどんな名前なのかなんてわからない。大事なのは、毒ではなく、酷い味だとしても食べられるということだった。

 食わねば、死ぬ。食っても、腹は膨れない。


 ある日、隣家の幼い子が、腐った乳を飲んで死んだ。

 寒さで母親の乳が止まり、代わりに古い羊乳を飲ませたのだという。

 腹を下し、嘔吐し、最後には泡を吹いて動かなくなった。

 それを見ても、誰も驚かなかった。ただ、「ああ」と唸り、埋める穴を掘るだけだった。


 ——これが、「普通」だった。


 腹を満たすとは、命を繋ぐということだった。

 明日の食事は“ないかもしれないもの”だった。

 飢えは静かに、だが確実に、命を削っていく。

 誰もがそれを知っていた。知っていて、それでも今日を越えるしかなかった。


 俺は、この世界に「生きて」いたわけではない。

 「死なずにいる」だけだ。


 地べたに座り、口の中で母の粥を転がしながら、俺はぼんやりとそう思った。



 かつて夢見た異世界転生は、万能の力と冒険に満ちていた。

 俺は魔法で敵をなぎ倒し、美少女たちに囲まれ、勇者として称えられる——そんな“テンプレ”を、疑いもなく信じていた。

 だが現実は、恐怖と沈黙と、焚刑の炎だった。


 この村では、魔法という言葉さえ忌避された。

 それを語ることすら「穢れ」とされ、子供でも口にすれば平手打ちを食らう。


 秋の終わり、収穫がほぼ終わった頃だった。

 一人の旅人が、街道を通ってやって来た。

 名は言わず、物静かで、身なりも粗末。

 村の納屋に寝泊まりし、日中は井戸を掘ったり、崩れた柵を直したりして過ごした。

 対価は麦の一椀と固いパン。

 浮浪者としては、よく働く男だった。


 その異変は、ささいな一瞬に過ぎなかった。


 ある日、納屋の屋根の上で、彼が板を張り直していた時のこと。

 足を滑らせ、彼はバランスを崩した。

 反射的に手を振り、宙をつかむ。

 次の瞬間——風が、重力を逆なでしたように、ふっと彼の体を持ち上げた。


 誰かが見ていた。

 俺も、見た。


 その場では、誰も何も言わなかった。

 だが、その夜から、空気が変わった。


 子供たちは彼を避け、女たちは食事を渡す時に目を合わせなくなった。

 酒場の席では誰も隣に座らず、笑い声が途切れるたび、視線だけが彼を刺した。


 男は首をかしげていた。


「何か怒らせるようなことをしたかな」


 そう呟く声に、悲しげな色が混じっていた。


 告げ口は、静かに、だが確実に行われた。

 村の誰かが、馬に乗り、街道を越え、教会へ向かった。

 往復に数日かかるその旅路を、冬の足音が追いかけていた。


 その間、男は気づかぬまま、村の仕事を続けた。

 俺は言葉をかけられなかった。

 それが優しさか、臆病かもわからなかった。


 一週間が過ぎた朝、教会の兵が村に現れた。

 重装の騎士二人、軽装の従者が三人。

 彼らは黙って納屋に向かい、男に縄をかけた。

 抵抗はなかった。むしろ、呆然としていた。


「なぜ……?」

「俺は、何かしたのか……?」


 答えはなかった。

 教会の使者はただ、男を広場へ引きずっていく。

 村人たちは沈黙し、遠巻きに眺めるだけだった。


 神父が現れ、言葉を読み上げる。


「この者、魔を用いし罪により、神の御前にて裁かれるべし」

「その行い、神の定めを犯し、人の道を踏み外せし者なり」

「これを“異端”と定め、焚刑に処す」


 男は縛られ、柱に立たされた。

 足元に薪が積まれる。

 視線を彷徨わせたその目が、村の誰とも合わなかった。

 信じていたのだ。

 自分はここで受け入れられていた、と。


 誰も答えなかった。

 目を背け、祈るふりをする者もいた。

 男はただ、呟いた。


「……違うんだ。ただ、助かりたかっただけなんだ……」


 火がつけられた。


 ぱち、と音を立て、乾いた枝が燃え上がる。

 炎が衣を舐め、皮膚を裂き、脂が弾けた。

 男の悲鳴は、村の沈黙に吸い込まれていった。


 俺は目を逸らさなかった。

 魔法は、奇跡でも力でもなかった。

 この世界では、それはただの“罪”だった。



 成長するにつれ、前世の知識は少しずつ、霞んでいった。

 記憶そのものは残っていた。だが、それを使う場面がなかった。


 因数分解も、化学式も、英単語も——この村では、誰もそんなものを必要としなかった。

 ここに“問題”を解く紙も、“式”を書く机もなかった。

 紙は羊の皮より高価で、炭は暖を取るためにしか使われない。

 鉛筆など夢のまた夢。読み書きできる者など、村には一人として存在しなかった。


 地理の知識も、歴史の知恵も、無用だった。

 村の外に何があるのか、誰も知らない。

 聞かれれば「神の導きがなければ歩くべきではない」と返されるだけ。

 地図を描けば「悪魔の目録」として焼かれるだろう。


 日々は単調で、沈黙に満ちていた。

 朝になれば男たちが畑へ出る。鍬を振り、石を掘り、汗を流す。

 女たちは川へ行き、衣を叩き、子を抱き、火を起こす。

 老人は戸口の影に座り、何も語らず、日が落ちるのを待つ。


 それが、この村の“すべて”だった。

 信じられないほど狭く、息苦しいこの世界で——俺もまた、その一部になりかけていた。


(……違う。こんなはずじゃなかった)


 夜、干し藁に寝転び、穴の空いた屋根の向こうに夜空を見上げるたび、そう思った。

 星は無数に瞬いていた。けれど、それは俺の知っている星座ではなかった。

 オリオン座も、北斗七星も、この空にはない。

 どこか遠くの、見知らぬ星たち。冷たく、遠く、声の届かない空。


 前世の「夢」は、そこにあった。

 剣と魔法、華やかな冒険、仲間との出会い——

 だが、現実のこの世界にあるのは、汗と土と沈黙と死だけだった。


 神は答えなかった。

 祈っても、何も起きなかった。

 むしろ聖句を唱えて祈ることさえ、この村では「教会の者にしか許されない行為」だった。

 俺ができたのは、ただ空を見上げることだけ。


 異世界転生は、祝福でも、物語でもなかった。

 それはただ、もう一度“人生”をやり直すということだった。


 どこに生まれようと、何を知っていようと。

 身体が小さくとも、心が老いていようとも。

 苦しみは平等に与えられ、夢は容赦なく砕かれる。


 ようやく俺は、それを理解し始めていた。

 ここには「例外」などない。

 この世界で“生きる”とは、そういうことだった。



 五つか、六つになった頃だったと思う。俺はもう、しっかりと言葉を話せるようになっていた。

 母の手を引いて歩くのも苦ではなくなり、短い足でも村の端まで一人で行けるようになっていた。昼には鳥を追いかけ、夜には小屋の隙間に潜む鼠に耳を澄ませる。そんな、些細な冒険が日常だった。


 言葉を覚えるのは、楽しかった。言葉は音にすぎないはずなのに、それが形を持ち、意味を持ち、誰かの心に届くと知ったとき、俺は初めて「この世界」に触れられたような気がした。


 だが、この村では、それ以上を望むことは許されていなかった。


 母に「文字を覚えたい」と言ったときのことを、今でもよく覚えている。

 彼女は洗い桶の前で手を止め、戸惑うように目を伏せた。あれは叱るでも、笑うでもない。——どうしていいかわからない、という顔だった。


「……神父さまに、聞いてみようね?」


 その言葉に、俺はこくりと頷いた。


 礼拝堂は村の中央にある、石造りの建物だった。小さな尖塔と、木の扉。その扉の前で、母は何度も手をこすり合わせ、緊張した面持ちで中を伺った。


 中には、白い衣を着た神父がいた。四十を超えたばかりだろうか、痩せぎすで長い指を持ち、落ち着いた声で母と話をした後、俺の前に膝をついて、まっすぐに目を見た。


「おまえが……文字を、学びたいのか?」


 頷くと、神父はほんの少し眉をひそめた。観察するような目つきだった。まるで、羊の群れに混じった異質な何かを見つけたような——だが、次の瞬間には優しい微笑みに変わっていた。


「よろしい。週に一度だけ、朝の祈りの後に時間を与えよう。だがこれは、神への奉仕の一環だ。文字とは、神の言葉を写し取るもの。慎みと敬いを忘れるな」


 その日から、俺は礼拝堂へ通い始めた。


 神父は羊皮紙と石板を使って、アルファベットのようなこの世界の文字を教えてくれた。最初に書かされたのは、「神」「光」「罪」など、教会の教義に関わる単語ばかりだった。


 それでも俺は、貪るように覚えた。母が拾ってきた炭を使い、土の上に何度も文字をなぞり、寝ても覚めても書き続けた。学ぶという行為そのものが、俺にとっては生きる証だった。


 ただ、その喜びの中にも、何か得体の知れないざらつきがあった。

 神父の目——あれは、慈愛ではなかった。試すような、見透かすような目。


(この子は、本当に“神の道”に従うのか……?)


 そんな言葉が、背後から聞こえてくるような感覚。


 俺はまだ幼く、それを正確に言葉にはできなかったが、あの時からすでに「教会」というものに対する不信の芽が、どこか心の奥で芽吹いていたのかもしれない。



 神父の授業は、いつも決まった形式で始まった。

 まずは「朝の祈り」。それから、教義に基づく聖句の暗唱。神の名は声に出してはならず、「お方」や「光」といった婉曲表現で語られる。それだけでも、この世界の宗教の重さがわかる気がした。


 文字は、この国で使われている古い筆記体系——前世の記憶と照らし合わせれば、ラテン語に近い造りをしていた。曲線の多い筆記体。複雑な綴り。読み書きどころか発音すら難しいものばかりだったが、俺は前世の知識と照らし合わせながら、形と音と意味をひとつずつ紐づけていった。


 神父は丁寧に教えてくれた。文字の形、読み方、聖句の写し方。だが、肝心の「意味」になると話が曖昧になる。


「これは……神の御業を讃える言葉です。深く知ろうとする必要はありません」


 そう言って、いつも言葉を濁す。


 俺が「この言葉はどうしてこの順番なんですか?」「ここは“光”と“祝福”のどちらの意味ですか?」と尋ねると、神父はわずかに眉をひそめた。


「それは考えることではなく、受け入れることなのです」


 ——受け入れること。


 そう言われるたびに、胸の奥がざらついた。

 教義には理屈がなかった。ただ「神がそう定めたから」「神が望んだもう一つの道だから」。それ以上の説明はなく、求めることも許されなかった。


 前世で、数式や法則の美しさに魅了されていた俺にとって、それは受け入れがたい現実だった。考えること、疑うこと、比較すること。すべてが「信仰の障り」として否定される。


 ある日の授業で、ふと思い立って質問した。


「人は……どうして病気になるんですか?」


 神父は、わずかに目を伏せ、そして静かに答えた。


「それは、罪を背負っているからです。神に背いた魂は、肉体の病として罰を受けるのです」


 そのとき、何かが胸の奥で音を立てて崩れた。


(……違う。それは、説明じゃない。ただの“逃避”だ)


 熱も、咳も、赤子の病も、それが罪だというのか?

 ならば、あの日死んだ幼子も。

 日に焼けた額で畑に伏した男も。

 目の見えぬ老婆も。


 ——皆、罪人なのか?


 俺の中で、何かが決定的に変わった。


 学ぶこと、それは知識を得ることではなかった。

 この場所では、「信じること」がすべてだった。


 言葉を覚えるたび、文字を読めるようになるたび、それが「神のため」でなければならない。

 質問をすればするほど、神父の目は冷えていった。


 俺はやがて、質問をやめた。

 そして悟った。


 ここでは、「考えること」が罪になる。

 教会とは、知を与える場所ではなく、沈黙を植えつける場所なのだと。



 家では、母が小麦を挽き、粥を炊き、夜には粗末な布にくるまって共に眠った。貧しくとも、母の愛情は確かにあった。俺の存在を奇異に思いながらも、どこかで“守らねばならないもの”として感じてくれていたのだろう。


 だが、それもまた、脆く不確かな均衡にすぎなかった。

 ある年、冬を越えたばかりの村に、黒い風が吹いた。


 最初に倒れたのは、二軒隣の老婆だった。咳が止まらず、やがて血を吐いた。翌日には死んでいた。

 次に倒れたのは、飼っていた豚の餌を盗みに入った子供。熱にうなされ、肌に黒い斑点が浮かび、苦しみながら息を引き取った。

 その後は、早かった。村の広場には泣き声と咳と嘔吐が交じり、昼も夜も呻き声が絶えなかった。


 ——疫病だった。


 だが村には、薬も、医者もいなかった。代わりにいたのは、教会の神父だけだった。


 彼は高台の石造りの礼拝堂から降りてきて、静かに言った。


「神は、見ておられます。これは、信仰が試されているのです」


 薬草の一つも出されることなく、人々はただ祈りを命じられた。

 水桶に聖句を唱えて飲ませ、腐りかけた肉を清めの香に燻し、死者には額に灰を塗って埋めるように言われた。


 だが、死は止まらなかった。


 昨日まで遊んでいた友達が、今日には口から泡を吹き、痙攣して死んでいく。

 母と親しくしていた若い娘は、肺から血を吐いて倒れたまま動かなくなった。

 大人たちはそれでも「神の赦し」を信じて祈り続け、子供たちは熱にうなされながら泣き叫んだ。


 死は、静かに、しかし確実に人々を連れていった。

 そしてその“連れていかれる瞬間”を、俺は、見てしまった。


 それはある夜、母が外で咳き込んでいる声に目を覚ましたときだった。


 寝床から這い出し、戸口を開ける。月明かりの中、母が誰かを抱えていた。


 それは、隣家の赤ん坊だった。まだ乳も離れていない、小さな命。母がよく面倒を見ていた子だった。


 だが、その身体はすでに冷たく、ぐったりと腕から垂れていた。


「……泣かなかったの。ずっと、静かだったのよ」


 母は、誰に言うでもなく呟いた。

 涙も、叫びもなかった。ただ、その小さな死体を、布でそっと包んでいた。


 その光景が、脳裏に焼きついた。

 「死ぬ」というのは、叫んだり、大きな音を立てたりすることじゃない。

 音もなく、ただ、そこに“いなくなる”ことだ。


 俺はまだ、子供だった。だが、もう知ってしまった。


 死とは、思ったよりも静かで、あまりに簡単だった。



 疫病が始まって半月が過ぎたころ、村の年寄りたちが、神父のもとへ詰めかけた。


「お願いです、神父様……どうか、奇跡を。教会の加護を……!」

「このままでは、村が……!」


 男たちは膝をつき、女たちは泣きながら十字を切って懇願した。生き残った者の中には、自分の家族すら埋葬しきれず、喪服さえ着る暇もない者もいた。皆、縋るしかなかったのだ。あとは“神”しかないと信じ込むしかなかった。


 しかし、神父は首を振った。


「奇跡は、ただの“術”ではありません。神が望まれた時にのみ、顕現するものです。……それは、私ごときが差し出せるものではないのです」


 村人の一人が、声を荒げた。


「でも……教会には“神の御手”を持つ神官様がいると聞きました! かつて南の街では、疫病すら清められたと……!」


 神父は、微笑んだ。


「その通りです。大聖都には、選ばれし神官がおられます。ですが彼らは、神の導きに従って、より多くの魂を救うため巡礼の旅を続けておられる。……このような辺境にまでお呼びすることは、神のご意思に反するのです」

「それじゃあ……私たちは見捨てられたんですか!? こんなにも祈っているのに……!」


 叫んだのは、病に倒れた娘を背負った父親だった。血まみれの布に包まれたその子の顔は、もう青白く、目も開いていなかった。


 神父は、静かに歩み寄り、男の肩に手を置いた。


「いいえ。神は、すべてをご覧になっています。あなたの苦しみも、悲しみも、祈りも。……だからこそ、試されているのです。信仰の強さを。魂の輝きを」


 言葉は柔らかく、声は穏やかだった。だが、そこには何の「答え」もなかった。


 村人たちは沈黙した。


 それ以上、何も言えなかった。


 絶望を飲み込むように、また祈りの声が繰り返された。泣き声が交じり、嘆きが交じり、それでも教会の石の壁は何一つとして答えなかった。


 俺は、離れたところからそのやりとりを見ていた。


(あれが……“奇跡”の正体か)


 “与えられる”ものではない。ただ、“与えられない”理由を美しい言葉で覆い隠すもの。


 奇跡は起きなかった。

 それでも、人々は祈りをやめなかった。


 その数日後だった。俺はとうとう、耐えられなくなった。


 母は毎日、手を裂くほどに祈り、誰よりも神を信じていた。

 なのに、誰一人救われなかった。

 奇跡は起きなかった。

 にもかかわらず——誰も教会を疑わなかった。


「祈っても……!死んでいく!それでも神は、見ているのか!?」


 声は震え、喉が焼けるようだった。でも止められなかった。

 叫びというより、悲鳴に近かった。


 神父は、目を細めて俺を見下ろした。


「お前の言葉は、神を疑い、教えを汚す罪だ。幼子の無知ゆえに罰は下されぬが、覚えておけ。信仰なくして人は救われぬ。そして、信仰を拒む者に、神の御手は差し伸べられない」


 その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。


 ああ、神は、教会は——俺の声なんて、聞いていなかった。

 母の祈りも、隣の赤ん坊の命も、信仰も、涙も……全部、届いていなかった。


 その日を境に、俺は教会に出入りできなくなった。


 母は何も言わなかったが、顔から血の気が引いていた。

 近所の女たちがひそひそと話すのが聞こえた。


 「あの子、神父様に逆らったって」

 「お祈りしなかったらしいわよ」


 それからは、目が合うたびに距離を置かれた。

 友達も、口を利かなくなった。まるで、俺も“病気”にかかったかのように。


 人は、死を恐れていた。

 でもそれ以上に、神を疑うことを——“異端”とされることを、恐れていた。


 俺は理解した。

 この世界では、「死」よりも「異端」の方が、よほど恐れられているのだと。



 村で流行った疫病も落ち着き、八歳になる頃。俺は村の“異物”として、はっきりと浮き上がっていた。

 子供たちは、俺と目を合わせようとしなかった。遊びに誘われることはなくなり、誰かの家に呼ばれることもない。

 大人たちの目には、あからさまな警戒と、不気味なものを見るような不信が宿っていた。

 きっかけは――疫病の時だった。あの時、俺は明確に神を疑った。

 与えられた教えをただ受け入れるのではなく、問いを持ち、神の救いなどないのだと声高に宣った。


 「子供らしくない」

 「目が怖い」

 「不信心」


 それは、この世界の“普通”に馴染めないという、無言の烙印だった。

 言葉を発するたび、誰かが距離を取った。考えを述べるたび、大人の目が曇った。

 “疑う”という行為が、信仰の村では異端だった。

 “観察する”という態度が、“神の奇跡”に対する侮辱と見なされた。


 だが、俺はどうしても、目を閉じることができなかった。

 目の前にある現実から、顔を背けることができなかった。

 魔法も、ステータスも、特別な力もない。

 冒険もなければ、スローライフもない。

 あるのは、死と、祈りと、沈黙。

 泥と飢えと、そして無知。


 それが、この世界のリアルだった。

 それが、この“異世界”の、本当の姿だった。

 俺には才能がなかった。ただ、飢えず、凍えず、明日を迎えるために、生きるしかなかった


 (オタクとして夢見た異世界は、どこにもなかった)


 幻想が崩れ去るのに、八年もかかった。

 子供としての感性が、少しずつ削られ、現実の重みに押し潰される中で、ようやく、俺は考え始めた。

 この世界で、どう生きるのか。

 誰にも期待されず、誰にも頼れず、それでも、生きるためにはどうするべきか。


 それはようやく、“物語”の始まりだった。

 誰かに導かれるのではない、自分の足で歩むための、最初の一歩だった。

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