生まれ変わって
目を開けていたことに気づいたとき、俺は腐った藁の上にいた。
視界は霞み、世界は影絵のように滲んでいた。鼻を突く酸臭、湿った布のような空気、女の低いうめき。すべてが混ざり合い、思考を鈍らせる。
それでも、分かった。
(……俺、死んだんじゃなかったか)
思い出すのは深夜のコンビニ帰り。信号無視のトラック、その光——
……うん、異世界転生するには実に典型的な死に方だったと思う。
痛みはなく、ただ眩しさの中で意識が途切れた。すべてが終わった、はずだった。
そうして目覚めたのは、糞尿と血と藁の匂いに満ちた小屋。俺は裸で転がされていた。
すぐに悟った。これは、いわゆる「異世界転生」だ。
だが、何かが違った。
ステータスが開くこともなければ、神に出会った記憶もなく、チートが宿っている気配もない。
俺はてっきり、こういうのって、スキルとかチートとかを授かるもんだと思ってた。
そうだろ? 異世界って、そういうもんじゃないか。
でも、現実は違った。
俺の前には、美少女も、老人の賢者も――誰一人、現れなかった。
俺の体は小さく、言葉も出せず、視界はなお霞んでいる。
神様なんていない。いたら、もう少しマシな生まれ方を選ばせてくれるはずだろう。
もしかしたらわざとだったのかもしれない。だとしたら、けっこう趣味が悪い。
俺は、赤子として“生まれ直した”のだった。
最初にしたことは剣を取ることでも、魔法を使うことでもない。泣き、寒さに震えながら、母の腕を探して這うことだった。
◇
母は十代半ばの、まだ子供に片足を残した娘だった。
痩せた体には骨の輪郭が浮き、腕も脚も細かった。背は低く、声も小さい。
髪は乾いた藁のようにぱさつき、額にはいつも滲むように汗が滲んでいた。
顔色は悪く、目の下には紫がかった隈が定着していた。——栄養のない食事と、休まる暇のない生活のせいだろう。
それでも、彼女の腕は、いつだって温かかった。
泣きも喚きもしない俺を、戸惑いながらもぎこちなく抱き上げ、
乳をくれた。張りもない小さな胸から、わずかに絞るようにして。
足りない分は粥にして、麦粒を手で潰し、指先で掬って、俺の口にそっと運んでくれた。
赤ん坊の世話をどうすればいいのかも分からず、何度もこぼしては慌て、
夜中に泣きたそうな顔をしながらも、決して俺から目を逸らさなかった。
言葉の意味は分からなかったが、その声音には、たしかに優しさが混じっていた。
同時に、それを包み込むように、深い怯えがあった。
彼女は気づいていたのだ。「この子は、普通ではない」と。
生まれてすぐに泣き声を上げなかったこと。
生後数ヶ月も経たないうちに、視線をまっすぐに返すこと。
まるで何かを理解しているかのように、周囲を見回し、言葉を模そうと舌を動かすこと。
母親の指先をつかみ、目を見て離さないこと。
——そこに宿っているのは、乳飲み子にはあるはずのない、“意志”だった。
それが不気味でないはずがない。
気味悪がって捨てても、誰も責めなかったはずだ。
ただでさえ、母も「邪魔者」として扱われていたのだから。
母に“夫”はいなかった。村の誰もが、そのことについて口を閉ざしていた。
彼女自身も何も語らなかった。ただ、男の名も、顔も、血筋も記されていない出生帳が、すべてを物語っていた。
あるいは、それは罪の結果だったのかもしれない。
あるいは、ある夜に「誰かに奪われた」結果だったのかもしれない。
どちらにせよ、母の腹が膨らんだ時点で、彼女には未来などなかった。
その年齢で身ごもった女に、選択肢はない。
ただ、産むしかなかった。産み、育て、何とかして生き延びるしかなかったのだ。
けれど彼女は、俺を捨てなかった。
目を伏せ、唇を噛みながら、それでも俺を抱きしめた。
その腕の中には確かに、誰かを抱きしめることを知ったばかりの少女の、未熟で不器用な、けれど真摯な愛情があった。
俺はそのぬくもりを、はっきりと覚えている。
◇
季節が巡り、俺はようやく歩くことを覚えた。
足元はふらつき、転んでは土を舐め、泣きもせずに立ち上がった。
言葉は、もっと時間がかかった。けれど耳で拾い、口の形を真似し、母の声を何度もなぞった。
最初に発した言葉は、「ぱん」だった。
——パン。食べ物の名前。
赤子が初めて口にする単語として、それはあまりに露骨だった。
俺が、どれほど飢えていたかがよく分かる。
日本にいた頃。
腹が減ったと思えば、コンビニに行けばいいだけだった。
肉まん、カップ麺、ポテチ、チョコレート。気分次第で好きなものを選び、数分後には口に入っていた。
冷蔵庫を開ければ牛乳があり、パンがあり、何かしらの総菜があるのが当然だった。
飢えという感覚は、ゲームのステータスや災害報道の中にしか存在しなかった。
だが、ここでは違った。
粥。
母が干し麦を挽き、湯に放って煮たもの。塩気も出汁もない、ただの澱。
それが日に何度も虫を湧かせた。コクゾウムシ、蛆、名前も知らない白いもの。
それでも、母は掬って、虫を指で潰して、俺に食わせた。
「いけるよ、まだいける」そう言って。自分の分は、いつも最後にした。
塩は貴族のもので、庶民には薬と同じ価値だった。
肉など年に一度、祭りの日に削がれる干し獣肉を、一口もらえれば御の字だった。
その代わり、母は野に出て、野草を拾った。
苦味で顔をしかめ、時には喉が焼けるようで吐き出した。
それがどんな名前なのかなんてわからない。大事なのは、毒ではなく、酷い味だとしても食べられるということだった。
食わねば、死ぬ。食っても、腹は膨れない。
ある日、隣家の幼い子が、腐った乳を飲んで死んだ。
寒さで母親の乳が止まり、代わりに古い羊乳を飲ませたのだという。
腹を下し、嘔吐し、最後には泡を吹いて動かなくなった。
それを見ても、誰も驚かなかった。ただ、「ああ」と唸り、埋める穴を掘るだけだった。
——これが、「普通」だった。
腹を満たすとは、命を繋ぐということだった。
明日の食事は“ないかもしれないもの”だった。
飢えは静かに、だが確実に、命を削っていく。
誰もがそれを知っていた。知っていて、それでも今日を越えるしかなかった。
俺は、この世界に「生きて」いたわけではない。
「死なずにいる」だけだ。
地べたに座り、口の中で母の粥を転がしながら、俺はぼんやりとそう思った。
◇
かつて夢見た異世界転生は、万能の力と冒険に満ちていた。
俺は魔法で敵をなぎ倒し、美少女たちに囲まれ、勇者として称えられる——そんな“テンプレ”を、疑いもなく信じていた。
だが現実は、恐怖と沈黙と、焚刑の炎だった。
この村では、魔法という言葉さえ忌避された。
それを語ることすら「穢れ」とされ、子供でも口にすれば平手打ちを食らう。
秋の終わり、収穫がほぼ終わった頃だった。
一人の旅人が、街道を通ってやって来た。
名は言わず、物静かで、身なりも粗末。
村の納屋に寝泊まりし、日中は井戸を掘ったり、崩れた柵を直したりして過ごした。
対価は麦の一椀と固いパン。
浮浪者としては、よく働く男だった。
その異変は、ささいな一瞬に過ぎなかった。
ある日、納屋の屋根の上で、彼が板を張り直していた時のこと。
足を滑らせ、彼はバランスを崩した。
反射的に手を振り、宙をつかむ。
次の瞬間——風が、重力を逆なでしたように、ふっと彼の体を持ち上げた。
誰かが見ていた。
俺も、見た。
その場では、誰も何も言わなかった。
だが、その夜から、空気が変わった。
子供たちは彼を避け、女たちは食事を渡す時に目を合わせなくなった。
酒場の席では誰も隣に座らず、笑い声が途切れるたび、視線だけが彼を刺した。
男は首をかしげていた。
「何か怒らせるようなことをしたかな」
そう呟く声に、悲しげな色が混じっていた。
告げ口は、静かに、だが確実に行われた。
村の誰かが、馬に乗り、街道を越え、教会へ向かった。
往復に数日かかるその旅路を、冬の足音が追いかけていた。
その間、男は気づかぬまま、村の仕事を続けた。
俺は言葉をかけられなかった。
それが優しさか、臆病かもわからなかった。
一週間が過ぎた朝、教会の兵が村に現れた。
重装の騎士二人、軽装の従者が三人。
彼らは黙って納屋に向かい、男に縄をかけた。
抵抗はなかった。むしろ、呆然としていた。
「なぜ……?」
「俺は、何かしたのか……?」
答えはなかった。
教会の使者はただ、男を広場へ引きずっていく。
村人たちは沈黙し、遠巻きに眺めるだけだった。
神父が現れ、言葉を読み上げる。
「この者、魔を用いし罪により、神の御前にて裁かれるべし」
「その行い、神の定めを犯し、人の道を踏み外せし者なり」
「これを“異端”と定め、焚刑に処す」
男は縛られ、柱に立たされた。
足元に薪が積まれる。
視線を彷徨わせたその目が、村の誰とも合わなかった。
信じていたのだ。
自分はここで受け入れられていた、と。
誰も答えなかった。
目を背け、祈るふりをする者もいた。
男はただ、呟いた。
「……違うんだ。ただ、助かりたかっただけなんだ……」
火がつけられた。
ぱち、と音を立て、乾いた枝が燃え上がる。
炎が衣を舐め、皮膚を裂き、脂が弾けた。
男の悲鳴は、村の沈黙に吸い込まれていった。
俺は目を逸らさなかった。
魔法は、奇跡でも力でもなかった。
この世界では、それはただの“罪”だった。
◇
成長するにつれ、前世の知識は少しずつ、霞んでいった。
記憶そのものは残っていた。だが、それを使う場面がなかった。
因数分解も、化学式も、英単語も——この村では、誰もそんなものを必要としなかった。
ここに“問題”を解く紙も、“式”を書く机もなかった。
紙は羊の皮より高価で、炭は暖を取るためにしか使われない。
鉛筆など夢のまた夢。読み書きできる者など、村には一人として存在しなかった。
地理の知識も、歴史の知恵も、無用だった。
村の外に何があるのか、誰も知らない。
聞かれれば「神の導きがなければ歩くべきではない」と返されるだけ。
地図を描けば「悪魔の目録」として焼かれるだろう。
日々は単調で、沈黙に満ちていた。
朝になれば男たちが畑へ出る。鍬を振り、石を掘り、汗を流す。
女たちは川へ行き、衣を叩き、子を抱き、火を起こす。
老人は戸口の影に座り、何も語らず、日が落ちるのを待つ。
それが、この村の“すべて”だった。
信じられないほど狭く、息苦しいこの世界で——俺もまた、その一部になりかけていた。
(……違う。こんなはずじゃなかった)
夜、干し藁に寝転び、穴の空いた屋根の向こうに夜空を見上げるたび、そう思った。
星は無数に瞬いていた。けれど、それは俺の知っている星座ではなかった。
オリオン座も、北斗七星も、この空にはない。
どこか遠くの、見知らぬ星たち。冷たく、遠く、声の届かない空。
前世の「夢」は、そこにあった。
剣と魔法、華やかな冒険、仲間との出会い——
だが、現実のこの世界にあるのは、汗と土と沈黙と死だけだった。
神は答えなかった。
祈っても、何も起きなかった。
むしろ聖句を唱えて祈ることさえ、この村では「教会の者にしか許されない行為」だった。
俺ができたのは、ただ空を見上げることだけ。
異世界転生は、祝福でも、物語でもなかった。
それはただ、もう一度“人生”をやり直すということだった。
どこに生まれようと、何を知っていようと。
身体が小さくとも、心が老いていようとも。
苦しみは平等に与えられ、夢は容赦なく砕かれる。
ようやく俺は、それを理解し始めていた。
ここには「例外」などない。
この世界で“生きる”とは、そういうことだった。
◇
五つか、六つになった頃だったと思う。俺はもう、しっかりと言葉を話せるようになっていた。
母の手を引いて歩くのも苦ではなくなり、短い足でも村の端まで一人で行けるようになっていた。昼には鳥を追いかけ、夜には小屋の隙間に潜む鼠に耳を澄ませる。そんな、些細な冒険が日常だった。
言葉を覚えるのは、楽しかった。言葉は音にすぎないはずなのに、それが形を持ち、意味を持ち、誰かの心に届くと知ったとき、俺は初めて「この世界」に触れられたような気がした。
だが、この村では、それ以上を望むことは許されていなかった。
母に「文字を覚えたい」と言ったときのことを、今でもよく覚えている。
彼女は洗い桶の前で手を止め、戸惑うように目を伏せた。あれは叱るでも、笑うでもない。——どうしていいかわからない、という顔だった。
「……神父さまに、聞いてみようね?」
その言葉に、俺はこくりと頷いた。
礼拝堂は村の中央にある、石造りの建物だった。小さな尖塔と、木の扉。その扉の前で、母は何度も手をこすり合わせ、緊張した面持ちで中を伺った。
中には、白い衣を着た神父がいた。四十を超えたばかりだろうか、痩せぎすで長い指を持ち、落ち着いた声で母と話をした後、俺の前に膝をついて、まっすぐに目を見た。
「おまえが……文字を、学びたいのか?」
頷くと、神父はほんの少し眉をひそめた。観察するような目つきだった。まるで、羊の群れに混じった異質な何かを見つけたような——だが、次の瞬間には優しい微笑みに変わっていた。
「よろしい。週に一度だけ、朝の祈りの後に時間を与えよう。だがこれは、神への奉仕の一環だ。文字とは、神の言葉を写し取るもの。慎みと敬いを忘れるな」
その日から、俺は礼拝堂へ通い始めた。
神父は羊皮紙と石板を使って、アルファベットのようなこの世界の文字を教えてくれた。最初に書かされたのは、「神」「光」「罪」など、教会の教義に関わる単語ばかりだった。
それでも俺は、貪るように覚えた。母が拾ってきた炭を使い、土の上に何度も文字をなぞり、寝ても覚めても書き続けた。学ぶという行為そのものが、俺にとっては生きる証だった。
ただ、その喜びの中にも、何か得体の知れないざらつきがあった。
神父の目——あれは、慈愛ではなかった。試すような、見透かすような目。
(この子は、本当に“神の道”に従うのか……?)
そんな言葉が、背後から聞こえてくるような感覚。
俺はまだ幼く、それを正確に言葉にはできなかったが、あの時からすでに「教会」というものに対する不信の芽が、どこか心の奥で芽吹いていたのかもしれない。
◇
神父の授業は、いつも決まった形式で始まった。
まずは「朝の祈り」。それから、教義に基づく聖句の暗唱。神の名は声に出してはならず、「お方」や「光」といった婉曲表現で語られる。それだけでも、この世界の宗教の重さがわかる気がした。
文字は、この国で使われている古い筆記体系——前世の記憶と照らし合わせれば、ラテン語に近い造りをしていた。曲線の多い筆記体。複雑な綴り。読み書きどころか発音すら難しいものばかりだったが、俺は前世の知識と照らし合わせながら、形と音と意味をひとつずつ紐づけていった。
神父は丁寧に教えてくれた。文字の形、読み方、聖句の写し方。だが、肝心の「意味」になると話が曖昧になる。
「これは……神の御業を讃える言葉です。深く知ろうとする必要はありません」
そう言って、いつも言葉を濁す。
俺が「この言葉はどうしてこの順番なんですか?」「ここは“光”と“祝福”のどちらの意味ですか?」と尋ねると、神父はわずかに眉をひそめた。
「それは考えることではなく、受け入れることなのです」
——受け入れること。
そう言われるたびに、胸の奥がざらついた。
教義には理屈がなかった。ただ「神がそう定めたから」「神が望んだもう一つの道だから」。それ以上の説明はなく、求めることも許されなかった。
前世で、数式や法則の美しさに魅了されていた俺にとって、それは受け入れがたい現実だった。考えること、疑うこと、比較すること。すべてが「信仰の障り」として否定される。
ある日の授業で、ふと思い立って質問した。
「人は……どうして病気になるんですか?」
神父は、わずかに目を伏せ、そして静かに答えた。
「それは、罪を背負っているからです。神に背いた魂は、肉体の病として罰を受けるのです」
そのとき、何かが胸の奥で音を立てて崩れた。
(……違う。それは、説明じゃない。ただの“逃避”だ)
熱も、咳も、赤子の病も、それが罪だというのか?
ならば、あの日死んだ幼子も。
日に焼けた額で畑に伏した男も。
目の見えぬ老婆も。
——皆、罪人なのか?
俺の中で、何かが決定的に変わった。
学ぶこと、それは知識を得ることではなかった。
この場所では、「信じること」がすべてだった。
言葉を覚えるたび、文字を読めるようになるたび、それが「神のため」でなければならない。
質問をすればするほど、神父の目は冷えていった。
俺はやがて、質問をやめた。
そして悟った。
ここでは、「考えること」が罪になる。
教会とは、知を与える場所ではなく、沈黙を植えつける場所なのだと。
◇
家では、母が小麦を挽き、粥を炊き、夜には粗末な布にくるまって共に眠った。貧しくとも、母の愛情は確かにあった。俺の存在を奇異に思いながらも、どこかで“守らねばならないもの”として感じてくれていたのだろう。
だが、それもまた、脆く不確かな均衡にすぎなかった。
ある年、冬を越えたばかりの村に、黒い風が吹いた。
最初に倒れたのは、二軒隣の老婆だった。咳が止まらず、やがて血を吐いた。翌日には死んでいた。
次に倒れたのは、飼っていた豚の餌を盗みに入った子供。熱にうなされ、肌に黒い斑点が浮かび、苦しみながら息を引き取った。
その後は、早かった。村の広場には泣き声と咳と嘔吐が交じり、昼も夜も呻き声が絶えなかった。
——疫病だった。
だが村には、薬も、医者もいなかった。代わりにいたのは、教会の神父だけだった。
彼は高台の石造りの礼拝堂から降りてきて、静かに言った。
「神は、見ておられます。これは、信仰が試されているのです」
薬草の一つも出されることなく、人々はただ祈りを命じられた。
水桶に聖句を唱えて飲ませ、腐りかけた肉を清めの香に燻し、死者には額に灰を塗って埋めるように言われた。
だが、死は止まらなかった。
昨日まで遊んでいた友達が、今日には口から泡を吹き、痙攣して死んでいく。
母と親しくしていた若い娘は、肺から血を吐いて倒れたまま動かなくなった。
大人たちはそれでも「神の赦し」を信じて祈り続け、子供たちは熱にうなされながら泣き叫んだ。
死は、静かに、しかし確実に人々を連れていった。
そしてその“連れていかれる瞬間”を、俺は、見てしまった。
それはある夜、母が外で咳き込んでいる声に目を覚ましたときだった。
寝床から這い出し、戸口を開ける。月明かりの中、母が誰かを抱えていた。
それは、隣家の赤ん坊だった。まだ乳も離れていない、小さな命。母がよく面倒を見ていた子だった。
だが、その身体はすでに冷たく、ぐったりと腕から垂れていた。
「……泣かなかったの。ずっと、静かだったのよ」
母は、誰に言うでもなく呟いた。
涙も、叫びもなかった。ただ、その小さな死体を、布でそっと包んでいた。
その光景が、脳裏に焼きついた。
「死ぬ」というのは、叫んだり、大きな音を立てたりすることじゃない。
音もなく、ただ、そこに“いなくなる”ことだ。
俺はまだ、子供だった。だが、もう知ってしまった。
死とは、思ったよりも静かで、あまりに簡単だった。
疫病が始まって半月が過ぎたころ、村の年寄りたちが、神父のもとへ詰めかけた。
「お願いです、神父様……どうか、奇跡を。教会の加護を……!」
「このままでは、村が……!」
男たちは膝をつき、女たちは泣きながら十字を切って懇願した。生き残った者の中には、自分の家族すら埋葬しきれず、喪服さえ着る暇もない者もいた。皆、縋るしかなかったのだ。あとは“神”しかないと信じ込むしかなかった。
しかし、神父は首を振った。
「奇跡は、ただの“術”ではありません。神が望まれた時にのみ、顕現するものです。……それは、私ごときが差し出せるものではないのです」
村人の一人が、声を荒げた。
「でも……教会には“神の御手”を持つ神官様がいると聞きました! かつて南の街では、疫病すら清められたと……!」
神父は、微笑んだ。
「その通りです。大聖都には、選ばれし神官がおられます。ですが彼らは、神の導きに従って、より多くの魂を救うため巡礼の旅を続けておられる。……このような辺境にまでお呼びすることは、神のご意思に反するのです」
「それじゃあ……私たちは見捨てられたんですか!? こんなにも祈っているのに……!」
叫んだのは、病に倒れた娘を背負った父親だった。血まみれの布に包まれたその子の顔は、もう青白く、目も開いていなかった。
神父は、静かに歩み寄り、男の肩に手を置いた。
「いいえ。神は、すべてをご覧になっています。あなたの苦しみも、悲しみも、祈りも。……だからこそ、試されているのです。信仰の強さを。魂の輝きを」
言葉は柔らかく、声は穏やかだった。だが、そこには何の「答え」もなかった。
村人たちは沈黙した。
それ以上、何も言えなかった。
絶望を飲み込むように、また祈りの声が繰り返された。泣き声が交じり、嘆きが交じり、それでも教会の石の壁は何一つとして答えなかった。
俺は、離れたところからそのやりとりを見ていた。
(あれが……“奇跡”の正体か)
“与えられる”ものではない。ただ、“与えられない”理由を美しい言葉で覆い隠すもの。
奇跡は起きなかった。
それでも、人々は祈りをやめなかった。
その数日後だった。俺はとうとう、耐えられなくなった。
母は毎日、手を裂くほどに祈り、誰よりも神を信じていた。
なのに、誰一人救われなかった。
奇跡は起きなかった。
にもかかわらず——誰も教会を疑わなかった。
「祈っても……!死んでいく!それでも神は、見ているのか!?」
声は震え、喉が焼けるようだった。でも止められなかった。
叫びというより、悲鳴に近かった。
神父は、目を細めて俺を見下ろした。
「お前の言葉は、神を疑い、教えを汚す罪だ。幼子の無知ゆえに罰は下されぬが、覚えておけ。信仰なくして人は救われぬ。そして、信仰を拒む者に、神の御手は差し伸べられない」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
ああ、神は、教会は——俺の声なんて、聞いていなかった。
母の祈りも、隣の赤ん坊の命も、信仰も、涙も……全部、届いていなかった。
その日を境に、俺は教会に出入りできなくなった。
母は何も言わなかったが、顔から血の気が引いていた。
近所の女たちがひそひそと話すのが聞こえた。
「あの子、神父様に逆らったって」
「お祈りしなかったらしいわよ」
それからは、目が合うたびに距離を置かれた。
友達も、口を利かなくなった。まるで、俺も“病気”にかかったかのように。
人は、死を恐れていた。
でもそれ以上に、神を疑うことを——“異端”とされることを、恐れていた。
俺は理解した。
この世界では、「死」よりも「異端」の方が、よほど恐れられているのだと。
◇
村で流行った疫病も落ち着き、八歳になる頃。俺は村の“異物”として、はっきりと浮き上がっていた。
子供たちは、俺と目を合わせようとしなかった。遊びに誘われることはなくなり、誰かの家に呼ばれることもない。
大人たちの目には、あからさまな警戒と、不気味なものを見るような不信が宿っていた。
きっかけは――疫病の時だった。あの時、俺は明確に神を疑った。
与えられた教えをただ受け入れるのではなく、問いを持ち、神の救いなどないのだと声高に宣った。
「子供らしくない」
「目が怖い」
「不信心」
それは、この世界の“普通”に馴染めないという、無言の烙印だった。
言葉を発するたび、誰かが距離を取った。考えを述べるたび、大人の目が曇った。
“疑う”という行為が、信仰の村では異端だった。
“観察する”という態度が、“神の奇跡”に対する侮辱と見なされた。
だが、俺はどうしても、目を閉じることができなかった。
目の前にある現実から、顔を背けることができなかった。
魔法も、ステータスも、特別な力もない。
冒険もなければ、スローライフもない。
あるのは、死と、祈りと、沈黙。
泥と飢えと、そして無知。
それが、この世界のリアルだった。
それが、この“異世界”の、本当の姿だった。
俺には才能がなかった。ただ、飢えず、凍えず、明日を迎えるために、生きるしかなかった
(オタクとして夢見た異世界は、どこにもなかった)
幻想が崩れ去るのに、八年もかかった。
子供としての感性が、少しずつ削られ、現実の重みに押し潰される中で、ようやく、俺は考え始めた。
この世界で、どう生きるのか。
誰にも期待されず、誰にも頼れず、それでも、生きるためにはどうするべきか。
それはようやく、“物語”の始まりだった。
誰かに導かれるのではない、自分の足で歩むための、最初の一歩だった。