9:【恋】
恋をしている。
わたしはそれを確信してしまった。
授業中だけれど、先生の声は全く聞こえてこない。
琴音が駅でピアノを弾いている女の子を見つめる姿。あんなに「音楽」に苦しんだ琴音が、ほんの少しだが熱を持った視線でそれを見ていた。
わたしが欲しかった視線。
ずっとずっと一緒にいたのに、一度もわたしには与えられなかったその視線。わたしは嫉妬と苛立ちで琴音をその場から強引に遠ざけた。
心がぐちゃぐちゃになる。
どうしたらあの視線を独占できるのか、気付いたらそんな事ばかり考えていた。
琴音は私の事をどう思っているんだろう。
…多分「幼馴染」だろう。それ以上でも以下でもない。
苦しい。
悔しい。
そんな感情が心の中で走り回る。
どうしたらいいんだろう。
わたしは授業中、ノートに何も書くこともせず、ただシャープペンシルをノックしては芯を戻す、そんな事を繰り返していた。
中学生くらいの頃から、琴音が出るコンクールを観に行くようになった。いつもの大人しくて優しい琴音からは考えられない情熱的で芯を持った音。心を灼熱の砂漠に晒されるような、痛みと愛おしさ。音楽の知識なんてほどんどない私にも十分それが伝わってきた。
でも、それを奏でる琴音は何の表情もなかった。
コンクールを重ねるうち、確かに琴音の順位は上がっていった。でも、順位が上がれば上がるほど、琴音の表情は硬く、悲痛な面持ちになっていった。それでも奏でられる音は多彩で美しい。
中学最後のコンクール、琴音は壇上にあがりお辞儀をするとピアノの椅子に腰掛ける。鍵盤に手を置き、呼吸を整えた。
「!?」
思わず声を上げそうになった。
苦しさ、辛さ、千切れそうな弦。それでも情熱的で人の心を掴む演奏。
琴音は叫んでいた。誰か…誰でもいい。この音を聴いて分かって欲しい。辛い。痛い。壊れそう。『この音を聴いて!』…その限界を超えた音がそこにはあった。
琴音は演奏を終えると、少しだけ息を乱しながら立ち上がり、お辞儀をする。
会場はしんと静まりかえっていた。
そのあと、ぽつぽつと拍手が上がる。
それを見てもう一度お辞儀をすると、琴音は舞台袖に消えていく。
琴音はその演奏のあと、しばらくして糸が千切れたマリオネットのようにふらふらと私の隣の席に座った。
「…大丈夫?」
琴音は答えない。
結局琴音は一言も喋ることをしなかった。
「最優秀賞…30番…」
最優秀賞の発表のとき、隣に座る琴音のエントリーナンバーが呼ばれる。
琴音はゆらゆらと立ち上がり、壇上にへと向かった。
やはりその表情には何の感情も浮かんでいなかった。
帰り道も、それはずっと続く。琴音はふらふらと歩くので、ずっと手を握っていた。せめて、この繋いだ手だけでも、温かさがあるように。
助けたい。もっとずっと側で。そんな意思を込めて、強く手を握った。
あの時、わたしが琴音を「音楽」から守ってあげていれば、変わったのかもれない。受け入れてくれたかもしれない。でも、わたしは何もできなかった。あくまで「友達」のままだった。
今更恋心を伝えたところで、何も変わらないのかもしれない。それとも、琴音は受け入れてくれる…?それとも拒絶されるのだろうか。いや、琴音は私のことを大事に思ってくれている。そこに入り込めば…。
自分の卑しい気持ちに吐き気がしそうになる。
ノートには折れたシャープペンシルの芯が落ちていた。