23:【伝えたい想い】
夕日に照らされたグランドピアノ。
その影で、るりがどんな表情で弾いているのか分からない。
バッハのメヌエットト短調…悲しい旋律が、シンプルな構成で延々と訴えかける。
拙い音…たまに入るミスタッチ…。でも、そこには誰かに伝えたい、そんな想いを感じる。
私への曲だ。直感的に思ってグランドピアノに駆け寄る。
るりの前には楽譜が置かれていなかった。完全に暗譜している…。ピアノの旋律は、暗譜してからという面もある。音をすべて手に馴染ませ、そこに感情を込めていく…。そこからが演奏の新たなスタートになる。どんな難易度の曲にでも言える事だ。
私はるりにこの曲を提案した覚えはない。誰でも聴いたことある「メヌエットト長調」は一度教えた事があるが、なぜ「ト短調」を選んだのか。なぜ暗譜するまで弾き込んだのか。
るりのような初心者が短時間で暗譜するのは難しい。
音から伝わってくる。
それが分かるから、泣きそうになる。
私はグランドピアノの前でうつむいた。
弾き終わると、るりは何も言わずに立ち上がる。
「琴音、こっち向いて」
「っ!」
優しい唇が私の唇に重なった。
「これでもう、諦めるから」
るりは今にも泣き出しそうな、困った顔で言う。
「…もう、友達に戻ろう」
そんな顔しないで。私のせいならそう言って。
「…ごめんね」
るりはそう言うと、グランドピアノの下に置いてあったカバンを取る。
「鍵、返しておいてね」
机の上にそっと鍵が置かれた。
なんで…。
私はしゃがみ込む。
なんでるりじゃないんだろう。
美音と連弾していた時に感じたあの「感覚」。今までにないくらい鳥肌が立つ瞬間だった。それをなんと呼べばいいのかまだ分からない。でも、まだ私が音楽を好きだった、大好きだった時間を思い出させてくれた。音の「共鳴」。
私はしゃがみこんだまま、自分が泣いている事に気づいた。
分かってた…それを…。
人を好きになる瞬間…。
それを恋と呼ぶこと。




