第3話 先生、顔色が悪いです
初日に感じた「大変かも」という予感は的中することになった。
風香の勤務日は月曜日の夜。掃除をして夕飯を作るというのが業務内容である。2回の業務を終えて分かったのは、週刊連載をしている漫画家は人間をやめているということだ。
漫画家はまずまともな生活を送れない。少なくとも早瀬先生は起きている時間の全てを漫画に費やしているようだった。
常に顔色が悪く、過労の人にありがちな寝起きのような顔。いつも同じ白Tシャツにグレーのスウェットパンツ。
せっかくの男前が台無しである。
洗濯どころか、家事全般を後回しにしているようだ。早瀬先生は職場兼仕事部屋なのでプライベート用の寝室は覗かないようにしているが、洗面所には洗濯物が山のように積まれている。部屋はどこもぐっちゃぐちゃ。2DKのこの家は、いくら片付けても風香が出勤すると元のカオス状況に戻っているのだった。
3回目の出勤時、駅近のスーパーで食材を買い出してから出勤した。
職場はマンションというよりも団地といった風情の建物内にある。古びた10階建ての建物が何棟も連なっており、その前にある広場空間では小学生たちが元気にドッジボールをしていた。夕暮れに子供たちの元気な声。懐かしいような、微笑ましいような気分に包まれて出勤したのだが、玄関で出迎えてくれた先生の顔色があまりに悪くてギョッとしてしまった。
思わずスーパーの袋を落としそうになって、慌てて力を入れ直した。どうぞ入ってください、という声にも力がない。
「先生、ちゃんとご飯食べていますか?」
先生はふにゃふにゃと首を振った。その動作をする気力もない様子である。
「昨日カップラーメン食べたきりです。締切がヤバくて」
現在の時刻は16時。朝食も昼食も食べていないということだ。
「急いで作りますね」
「……お願いします」
部屋には先生だけだった。鳴海や山名はどうしたのかと聞くと、本当は今日の朝から入ってもらう予定だったが、先生側の作業が間に合わなくて入りの時間を遅らせているのだという。
相変わらず部屋は散らかり放題で、こないだ出すように言ったゴミ袋も床に置かれたままである。
風香は少し苛立ちを感じたが、今にも倒れそうな先生に怒る気にはなれない。リビングは乱雑であるが、キッチンは風香が最後に来た時と全く同じ状態だった。当たり前だが、この家でキッチンに立つ人間は風香しかいないらしい。
一体何を食べて過ごしていたのだろうか……。その答えはシンクに転がっているカップラーメンの食べ残しから推察できる。こんな食生活では栄養失調になってしまう……。
とりあえず一人前を手早く作ろうと考えて、サンドイッチを作ることにした。
卵は3つ、お砂糖もたっぷり大さじ1杯。甘めだが、今の先生には糖分が必要だろう。パンの耳は切り落とし、ほかほかの炒り卵、カリッとしたベーコン、(スーパーで買った洗い不要の)キャベツの千切りをのせ、たっぷりバターを塗ったパンで挟んだ。
調理をしている間も先生は奥の部屋で作業をしている。もう一つ簡単なツナマヨサンドを作り終えた。具材がはみ出すので少し迷ったが、作業しながらでも食べやすいように四等分に切る。
家に着いてからここまで15分。我ながら中々の手際である。
「あの……取り急ぎ軽食としてサンドイッチを作ったので、召し上がりますか?」
先生はあまりに疲れていて、話しかけられていることにも気づかなかったらしい。一拍遅れて机から顔を上げると、サンドイッチと風香に目をやり、ぱぁぁと顔を輝かせた。
本当に子犬そっくりだ。心なしか頭上に犬の耳が見えるような気までしてくる。種類で言ったら……ハスキー犬?それにしても、クマの酷いこと。紫色のなめくじのようになっている。
「いいんですか?実は腹減って死にそうで」
「もちろんですよ、そのために作ったんですから。お夕食はちょっと時間かかると思うので、それまでの繋ぎだと思ってください。コーヒーか何か淹れますか?」
「大丈夫です、というか多分、コーヒー切れちゃってます。冷蔵庫の中にエナドリが入ってるので、それをもらってもいいですか?」
先生の机の下にはエナジードリンクの空き缶が数本並んでいる。こんなに飲んだら体に良くないですよ、という言葉を発しかけたが、出過ぎたことをしたくないと思い直した。風香は頷き、冷蔵庫まで飲み物を取りに行った。中にはエナジードリンクが数本と、こないだ風香が買った卵の残りだけが入っていた。
まともな食生活を送ってるとは思えない。
エナジードリンクを渡すと、先生はそれを開けずに机の上に置いた。先生はサンドイッチを次々と頬張っている。右手で作業をしながら、左手で器用に放り込んでいく。
1つ、2つ。
よかった、口に合ったようだ。
ほっとして風香が居間に下がろうとしたとき、うっうっという嗚咽が聞こえてきた。俯いていて表情は見えないが、先生がサンドイッチを食べながら泣いている……!