第13話 波乱の予感です
それから風香はシフトを増やし、週5日早瀬先生のもとで働くことになった。
シフト増加=給料の増加なのでありがたいけれど、仕事の密度は下がった。感覚としては、週2日原稿のお手伝い(ネーム段階でのチェックと原稿完成後のチェック)、週3日は掃除や食事といった家事関連といったところ(実際は家事関連は毎日やるのだけれど)。
仕事量に対して時間は十分で、週末の作り置きをしたりしてもまだ時間を持て余しているというのが本音。それでも、早瀬先生は「できるならもう1日シフトを増やしてほしい」と言う。
「風香さんのご飯食べられると思うと、仕事頑張れるから」
こちらが早瀬先生の主張。そして、その主張は間違いでもなかったらしい。
あの日の宣言通り、早瀬先生の漫画のアンケートは上昇(相変わらず原稿は遅いようだが)。「波が来ている!」と担当編集の林田さんもウハウハ。そんなこんなで、
「風香さんがいるだけで運気が上がる気がするから、毎日でも来てほしい」
というのが2人の主張である(そんなに働きたくないので断っている)。
風香のご飯が食べたいと執着を見せる割に、早瀬先生のリクエストはシンプルだ。カレー、ハンバーグ、唐揚げ、サンドイッチの繰り返し。他にないのかと聞いても、「家庭料理は分からないから任せる」とのこと。特にサンドイッチへの熱は凄くて、毎日1回は食べたがる。
そのこだわりを除いては何を出しても気持ち良いくらいよく食べて、美味しいと喜んでくれるので楽だ。
……緑黄色野菜を除いては。
早瀬先生は野菜が苦手らしい。「なんか土の味がする」といって避けたがるのである。そこで風香はフードプロセッサーを持ち込み、粉々にした野菜を仕込むという野菜嫌いの幼児対策を取ることにした。この作戦は功を奏し、早瀬先生は知らないうちに野菜もいっぱい摂っているので風香は大満足だった。
一方、漫画の手伝いの方は__。
チェックを手伝うことが決まってから、バックナンバーを見せてもらった。
手渡されたのは、1冊約400ページの雑誌が13冊分。積み上げると風香の座高と同じくらいの高さ。
まずは早瀬先生の連載『神戯契約』に絞って読み進めていく。
最新話まで追いついた風香は、原稿中の早瀬先生に話かけずにいられなかった。
「先生、作業中にごめんなさい」
「ん、どうした?」
「今全部読み終わったんですけど、『神祇契約』めちゃくちゃ面白いです……!絵もカッコいいし、主人公のアサギが報われるのかすごく気になります!」
もう読んでくれたんだ、と早瀬先生は顔を綻ばせた。
「でしょ、面白いでしょ!うわー、風香さんに認められたらなおのこと嬉しい!あまり漫画読まないって言ってたから、ちょっと不安だったんだ」
「漫画読み慣れてない私でも、スッと読めました。設定とか整理するためにもう一回読みます」
ただ、整理する作業はそうスムーズには進まなかった。
2巡目は何気なく他の漫画にも目を通したのが、どれも面白くて読む手が止まらなくなってしまったのだった。
コンビニや食料品メーカーとのコラボで見知ってる漫画もいくつか掲載されている。と同時に新陳代謝も早いらしく、新連載が3号連続で投入されていたりする。やはり続きから読むよりも1話から読んだほうが入り込めるというもの。
風香が特に気に入ったのは9号から開始の『池袋スクワッド』という新連載。巻末コメントによると、この先生もまだ若いらしい。そのほかの新連載もどれも面白く、風香は改めてLeapが商業誌としてトップに君臨する雑誌であることを実感する。
「こんなすごい雑誌で連載するってどんな感じなんだろ……」
きっと早瀬先生みたいな感じである。
掲載されている漫画は凡そ20本。この20本の作成現場にもドラマがあるんだろうなと思うと、風香は特別な思いで雑誌を読み込んでしまうのだった。
◆◆◆◆
アンケートが好調となった今、問題となるのは「原稿の遅さ」だった。
相変わらず締め切り前は修羅場。締め切りも林田さんに頼んでギリギリまで伸ばしてもらうことが常態化していた。
「もう限界です。さすがにアシスタント増やしてください」
鳴海と山名の意見も尤もだった。
こうして1名、新たなアシスタントが加わることになった。
6月下旬。
雨が降るその日、17時にインターホンが鳴った。今日がその新しいアシスタントさんを迎える日である。
「はーい」
ドアを開けると、人形のように可愛らしい少女が立っていた。
腰まであるミルクティー色の髪。
卵型の小さな顔に濃いまつ毛に彩られた大きな瞳。
風香は面食らってしまった。
漫画業界って美男美女だらけなのだろうか?それともウチだけ?
美少女は可愛らしい声で名乗った。
「今日からお世話になる椎名リリです。よろしくお願いします。もしかして、早瀬先生ですか?」
「あ、違います。先生は中で作業していますよ。とりあえず、中にどうぞ」
風香の返答に、美少女は明かにほっとした様子。
「よかったー!!」
……よかった??
どういう意味だろう。
なんだか妙に違和感がある。少女は上品な身のこなしで靴を脱ぎ、部屋に上がった。そんな風香の戸惑いを知ってか知らずか、少女はにっこりと微笑んでみせる。まるでアイドルのような可愛さ。
思わず気を許したくなってしまうような。そんな微笑みを浮かべながら、少女は風香を上から下までジロジロと見つめた。
「……もしかして、早瀬先生の奥さまですか?」
「違います、私はここのアルバイトです」
「よかったー!!」
またしてもアイドルのような完璧な笑顔。
一方の風香はこの2回の「よかった」にモヤモヤ。
どういう意味なんだろう。仲良くなれるかな……。
残念ながらこの不安は的中することになるのだった。