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吾輩はミミックである

作者: 狂いうし
掲載日:2026/03/21

 吾輩はミミックである。


 名のある魔物ではまだない。もっとも、魔物に戸籍も系図もあったものではないから、名などなくとも別段困りはしない。困るのは腹が減ることと、近頃の冒険者どもがまるでこちらの期待に沿わぬこと、その二点である。


 吾輩の住処は、古びた地下迷宮の第三層、北回廊を折れた先の小部屋である。湿った石壁には年中うっすらと苔が生え、天井の隙間からは時おり冷たい滴が垂れる。床はひび割れ、灯火は遠く、空気は重い。人間どもはこういう場所を陰気だの不気味だのと申すが、住めば都という言葉もある。少なくとも吾輩にとっては、長年身を置いたぶんだけ愛着のある一室であった。


 部屋の中央には、古びた木箱がひとつ置かれている。


 言うまでもなく、吾輩である。


 これがなかなか見映えのする姿なのだ。黒ずんだ木目には年季があり、角を補強する鉄具合も実に渋い。蓋の継ぎ目にはほどよい隙があり、見る者に「中には何が入っているのだろう」と期待を抱かせる。単なる箱と侮るなかれ、擬態にも美というものがある。宝箱たるもの、ただそこに置かれているだけで人の欲をかき立てねばならぬ。吾輩はその点、まことによく出来ていると自負している。


 昔は、であるが。


 昔の冒険者は単純でよかった。部屋へ入るなり目を輝かせ、息を潜め、仲間と顔を見合わせては「当たりだ」「財宝だ」と囁いたものである。中には慎重な者もいたが、それでも慎重さには限度というものがあった。ひとまず近寄る。手をかける。開ける。その瞬間に吾輩が喰らいつく。実に合理的で、美しい流れであった。


 ところが近頃の冒険者ときたらどうだ。


 まず入口で立ち止まり、床を棒でつつく。壁を見る。天井を見る。魔力がどうの、罠がどうのとぶつぶつ相談したのち、ようやく宝箱の存在に気づく。そして気づいたかと思えば、今度は遠くから槍で突く。石を投げる。長い棒で蓋をこじ開けようとする。実に無粋である。礼儀というものを知らぬ。


 宝箱とは、本来、開けるべきものではないのか。


 なぜ疑う。


 なぜ初手で殴る。


 世の中が荒んだ証拠である。


 つい三日前にも、二人組の若い冒険者がこの部屋へ来た。片方が「どうせミミックだろ」と言い、もう片方は「じゃあ火をつけてみるか」と言った。なんたる暴論であろう。仮に吾輩が本物の宝箱であったらどうするつもりなのだ。財宝ごと焼く気か。最近の若者は物を大切にする心が足りぬ。


 もっとも、そのとき吾輩は本当にミミックであったから、少々の火種には腹を立てつつも、結局何も出来なかった。こう見えて、機会というものは選ばねばならぬ。相手が二人、しかも最初からこちらを疑っているようでは分が悪い。無理に飛びかかって痛い目を見たことも、一度や二度ではないのである。


 ゆえに吾輩は待つ。


 ひたすらに待つ。


 待つことこそ、吾輩の生である。


 だが待つだけの生というものは、時として恐ろしく長い。とりわけ空腹が続く時分にはなおさらだ。迷宮は昔に比べてずいぶん寂れた。この第三層まで降りてくる者も減ったし、来たとしても皆、妙に用心深い。吾輩の腹は減る一方であるし、退屈もまた増すばかりである。


 退屈はよくない。


 空腹は腹を痩せさせるが、退屈は魂を痩せさせる。


 もっとも、吾輩に魂なる高尚なものがあるかどうかは知らぬ。ただ、あまりにも来訪者がない日が続くと、自分がただの木箱に戻ってしまったような気分になるのだ。それは魔物として、なかなか侮りがたい屈辱であった。


 その日も、吾輩は半ば眠るようにして部屋の空気の澱みを感じていた。


 第三層の空気は、朝も昼も夜も大差がない。したがって時刻というものには疎くなる。だが遠くから響く足音の種類によって、だいたいのことは分かる。重い靴音なら重装の戦士、軽ければ盗賊か斥候、妙に間の抜けた間合いで響くものは、たいてい未熟な若造である。


 そのとき聞こえてきたのは、まさに最後の靴音であった。


 かつ、疲れていた。


 石の床を擦るような足取り。ときおり立ち止まり、何かに手をついて息を整える気配。鎧のこすれる音も安っぽい。剣帯の金具も、よく手入れされた者の静かな響きではなく、ぶらぶらと所在なげに揺れるだけの軽薄な音を立てている。


 吾輩は内心、少しばかり期待した。


 これは良い。


 いかにも良い。


 単独で、疲れていて、未熟。こういう者は判断が鈍る。宝箱を見れば、なけなしの希望をそこへ預ける。人間というものは追いつめられるほど、光る箱に弱くなるものである。


 やがて来訪者は、部屋の入口に姿を見せた。


 若い男であった。


 二十そこそこに見える。革鎧は擦り切れ、肩当ての片方は紐で雑に結び直してある。剣は腰に佩いているが、鞘の縁は欠け、柄の革も剥げていた。靴は泥にまみれ、頬は少しこけている。英雄譚に出てくる若き勇者にはほど遠く、街道の風に吹かれてたまたま地下へ転がり込んできた貧乏青年、といった風情であった。


 男は部屋を見回し、そして吾輩を見つけた。


 その瞬間、吾輩は腹の奥がきゅうと鳴るのを感じた。久方ぶりの食事かもしれぬ。蓋の蝶番に力を溜め、いつでも飛び出せるよう密かに身構える。さあ来い。近づけ。手をかけろ。欲に目を曇らせるがいい。


 ところが男は、吾輩を見たまま、ぴたりと動きを止めた。


「……あるな」


 かすれた声でそう言ってから、しばらくじっとこちらを見つめる。吾輩もまた息を殺した。もっとも、箱に見える間は呼吸などしておらぬから、息を殺すも何もないのだが、気分の問題である。


 男は一歩進み、また止まった。


 さらに一歩。


 実に遅い。


 腹の空いたこちらの身にもなっていただきたい。


 ようやく吾輩の前まで来たかと思うと、男はしゃがみこみ、蓋の金具を見た。吾輩はその指先が伸びてくるのを待った。待ったのだが、伸びてきたのは指先ではなく、ため息であった。


「……いや、こういうの、だいたい罠なんだよな」


 何たることか。


 いきなり核心を突かれたので、吾輩は一瞬、蝶番のあたりがひやりとした。近頃の若者は無礼なうえに勘まで良い。これでは商売あがったりである。


 男はその場にどさりと座り込んだ。壁に背を預け、剣を脇へ置き、天井を仰いで長く息を吐く。


「今日も外れかあ……」


 外れとは何だ。失礼な。吾輩は大当たりである。開ければ最後、その人生に鮮烈な終止符を打ってやれるのだ。これほど印象深い宝箱があろうか。


 だが男はそんな吾輩の憤慨を知るよしもなく、独り言を続けた。


「一個くらい本物の宝箱あってもいいだろ……。いや、あるのかもしれないけどさ。俺が開けたらたぶんミミックなんだよな。そういう運だし」


 そういう運、という言い方には、妙に実感がこもっていた。


 男は腰の袋を探り、干からびた黒パンのようなものを取り出した。硬そうで、見ているこちらの顎が痛くなる。彼はそれを少し噛み、顔をしかめ、またため息をつく。


「宿代ももうあんまりないんだよなあ……」


 そして、しばらく黙った。


 部屋には滴の落ちる音だけがした。遠くで何か小型の魔物が鳴いた。男は天井を見たまま、ぽつりと続けた。


「別に大金持ちになりたいわけじゃないんだけどな」


 吾輩は、内心で少し首をかしげた。


 人間というものはたいてい、宝を前にすると欲望をむき出しにする。金、名誉、力、安全、女、酒、館。望みの形は違えど、その目は皆よく似ている。ところがこの若造の声色には、ぎらついたところがなかった。あるのはくたびれた疲労と、少しばかりの諦めだけである。


「とりあえず飯が食えて、雨風しのげて、たまにまともな肉が食えたら十分なんだけどなあ」


 まことに小さい望みである。


 だが、小さい望みほど叶わぬ者も多い、ということを、吾輩は長いことここで見てきた。


 男はパンをもうひとかじりしたあと、その欠片をぽろりと床に落とした。欠片は石の継ぎ目に転がり、そこで止まった。吾輩としては肉片のほうがありがたいが、贅沢は言うまい。来訪者がいるだけでも久しぶりなのだ。


 やがて男は立ち上がった。膝に手をつき、剣を取り、吾輩を見下ろす。


「……本物だったらよかったのにな」


 そう言って、彼は苦く笑った。


 吾輩は不覚にも、その言葉を少し妙に感じた。


 本物とは何だ。宝箱でない以上、吾輩は偽物だと言いたいのか。魔物としての吾輩はれっきとした本物である。迷宮に生き、腹を減らし、獲物を待つ存在として、これ以上なく真実である。


 だが彼の言う「本物」は、そういうことではないらしかった。


 願えば開き、開けば中から何かを与えてくれるもの。そういう都合のよい箱を、彼は本物と呼んだのだろう。


 人間とはつくづく勝手なものである。


 自分に都合のよいものを本物と呼び、都合の悪いものを罠と呼ぶ。


 まったく、いい気なものだ。


 男は吾輩に背を向け、部屋を出ていった。足音は来たとき以上に重かった。ひとつ角を曲がり、その気配が消えるまで、吾輩はじっと耳を澄ませていた。


 静けさが戻る。


 滴の音。


 湿った空気。


 苔の匂い。


 いつも通りの部屋である。


 いつも通りのはずであった。


 しかしどういうわけか、その日の吾輩は落ち着かなかった。食事を逃した腹立たしさとは少し違う。たしかに腹は減っている。減っているが、それ以上に、妙な後味が残っていた。


 あの若造、吾輩を疑ったくせに、壊しも蹴りもせなんだ。


 棒でつつきもせず、石も投げず、火もつけず、ただ疲れた顔で座り込み、勝手に愚痴をこぼして帰っていっただけである。


 まるで吾輩を、宝箱ではなく、そこにいる何かとして扱ったかのようであった。


 無論、気のせいであろう。


 人間が箱に話しかけるのは、たいてい疲れているときだけだ。酔っているときか、追いつめられているときか、その両方である。今日の若造は明らかに後者であった。


 それでも、である。


 次に足音がしたとき、吾輩は少しだけ耳をそばだてた。


 もしや、と思ったのである。


 もしや、あの間の抜けた若造がまた来るのではないかと。


 まことに妙な話である。吾輩はミミックであって、宿屋の亭主でもなければ、懺悔を聞く司祭でもない。来訪者を待つのは腹のためであって、情のためではない。ましてや、食い損ねた獲物の再訪を期待するなど、魔物としていささか締まりがない。


 だが、待ってしまったものは仕方がない。


 そして三日後、あの靴音は本当に戻ってきたのである。


 それからというもの、あの若造――のちにレノと知る男は、妙な具合にこの部屋へ顔を出すようになった。


 最初の再訪のとき、吾輩は前回よりいくらか慎重に待ち構えていた。慎重に、というのは、すなわち過度な期待を抱かぬよう努めていたということである。人間に期待するのは愚かだ。期待は裏切られるためにある。とりわけ若く貧しい人間は、自分のことで手いっぱいで、他の何かを顧みる余裕などない。吾輩はそのことを長い経験によって知っている。


 知っているはずだった。


 ところが、である。


 あの足音が北回廊の角を曲がり、少し拖るようにこちらへ近づいてきたとき、吾輩の蝶番は自分でも情けなくなるほど落ち着きを失っていた。開くでもなく、飛びかかるでもなく、ただ内部の筋肉がそわそわと波打つ。まるで初めて獲物を待つ若い魔物のようではないか。吾輩ほどの年季ある存在がこの体たらくとは、嘆かわしい。


 レノは前と同じく一人で来た。


 前と同じく、くたびれていた。


 ただし前回と違ったのは、部屋へ入るなり吾輩を見て、少しだけ気まずそうな顔をしたことである。


「……またある」


 失礼な言い草である。吾輩は元からここにある。昨日今日置かれた家具のように言われては心外だ。


 レノは少し部屋の入口で逡巡したのち、結局また吾輩のそばまで来た。来て、しゃがみ、じっと見る。吾輩もまた、見られるままにじっとする。なんとも妙な対峙であった。


「いや、開けないけどさ」


 開けぬのか。


「たぶん危ないし」


 たぶんではない。確実に危ない。


「でも他に座るところないんだよな……」


 そう言うと彼は、なんと吾輩のすぐ横に腰を下ろした。壁に背を預け、膝を立て、剣を脇へ置く。少しでもこちらが気まぐれを起こせば、首筋に食らいつける距離である。


 なんたる不用心。


 なんたる信頼ならぬ諦め。


 しかもレノはそのまま、当然のように話し始めた。


「今日、荷運びの依頼、断られたんだよな。力なさそうだからって」


 吾輩は内心で鼻を鳴らした。実際、力はなさそうであった。腕は細いし、肩もまだ出来ていない。剣を振るより鍬でも持ったほうが向いていそうな体つきである。


「剣士としても半端だし、体力仕事もだめだし、じゃあ何ができるんだろうな、俺」


 それを箱に問うか。


 いや、箱に問うからこそ言えるのかもしれぬ。人間は、生きた相手には見栄を張る。答えの返らぬ相手にだけ、本音を落とすことがある。


 レノは苦笑して、懐からまたあの硬い黒パンを取り出した。前回と同じものかと思うほど貧相である。彼はしばらくそれを眺め、やがて諦めたようにかじった。


「うまくない」


 当然である。


「でも、まあ、食えないよりはいいか」


 それもまた当然である。


 ひとりで勝手に話し、ひとりで勝手に納得している。吾輩としては実に扱いやすい相手だと思った。思ったのだが、そうしているうちに奇妙なことに気づいた。吾輩は彼の話を、思いのほか真面目に聞いていたのである。


 荷運びを断られたこと。


 安宿の主人に今月の支払いを急かされたこと。


 訓練場で年下の少年に模擬戦で負けたこと。


 少し気になる娘がいるが、話しかける勇気も金もないこと。


 どれもこれも小さく、冴えず、取り立てて劇的でもない出来事ばかりであった。だが、吾輩は不思議と退屈しなかった。なぜならそのどれにも、レノ本人の体温のようなものが染みていたからである。勝てぬ者の語る負け話には、勝者の武勇伝にはない生々しさがある。


 もっとも、聞いている最中、吾輩は終始「くだらぬ」「要領の悪い若造だ」「その程度のことでへこたれるとは軟弱な」と心中で毒づいていた。これは本当である。吾輩は別に急に優しい存在へ変貌したわけではない。だが毒づきながらも耳を傾けていたという事実は、さらに認めがたかった。


 その日、レノは結局また吾輩を開けずに帰った。


 去り際、彼は立ち上がって膝の埃を払い、吾輩を見下ろして言った。


「お前、絶対なんかいるよな」


 どきりとした。


 しかし次の言葉で、その緊張は少々別のものに変わった。


「……でも、まあいいか。誰かがいると思うと、ちょっと楽だし」


 そうして彼は笑い、部屋を出ていった。


 なんという暴言であろう。


 何が「ちょっと楽」だ。こちらは飢えた魔物である。慰めの置物ではない。気安く寂しさを預けられては困る。


 困る、はずであった。


 にもかかわらず、その日の吾輩は妙に機嫌が悪くなかった。これは由々しき事態である。空腹のときに機嫌が悪くないなど、魔物としての根幹に関わる。


 それからレノは、五日に一度ほどの割合でやってきた。


 正確な日数は分からぬ。迷宮に暦はないし、吾輩は日の昇り沈みを知らぬ。ただ彼の来訪には、妙な律動があった。少し間が空くと、北回廊の向こうからあの頼りない足音が近づいてくる。そして彼は大抵、何かひとつ失敗を抱えていた。


「聞いてくれよ。今日、罠の解除を手伝ったんだけど、俺が触る前に終わってた」


「聞いてくれよ。薬草採取の依頼で、似てる毒草を山ほど持って帰っちゃってさ」


「聞いてくれよ。今日こそ稼げると思ったのに、報酬前払いの宿代で消えた」


 聞く筋合いはない。


 しかし聞いてしまう。


 しかも時折、吾輩は彼が喋り出す前から、今日はどんな失敗をしてきたのだろうと予想するようになっていた。まことに余計なお世話である。


 ある日など、レノは珍しく少しばかり晴れやかな顔で現れた。足取りも幾分軽い。部屋へ入るなり吾輩の前に立ち、妙に得意げな顔で胸を張る。


「今日はな、ちょっといいことあった」


 知らぬ。


「串焼き食べた」


 小さすぎる。


「ちゃんと肉だった」


 そこは大事なのかもしれぬ。


「しかも奢り」


 なるほど、それは嬉しかろう。


 レノは機嫌よく笑いながら、袋から何かを取り出した。骨である。串焼きの残骸らしい。吾輩の前にそれを置いて、「お裾分け」と言った。


 ……これはいかがなものか。


 吾輩は一瞬、己の誇りというものを真剣に考えた。ミミックたるもの、人間の食い残しを与えられて喜ぶようでは格が落ちる。しかも骨だ。肉はほとんどついておらぬ。こんなもの、犬でももう少し慎重に扱うであろう。


 だが、レノの手が離れたあと、部屋が静かになってしばらくしてから、吾輩はそっと舌を伸ばしてその骨を引き寄せた。


 別に嬉しかったわけではない。


 ただ、捨てておくのはもったいなかっただけである。


 ほんのわずかに残っていた脂は、驚くほど薄く、それでも確かに肉の味がした。


 その味が妙に長く口の奥に残ったことを、吾輩は誰にも話していない。


 またある日、レノは腕に切り傷を負ってやってきた。深手ではないが、浅く長く裂けている。血が乾いて革鎧に張りつき、顔色も悪い。吾輩は彼が部屋へ入ってきた瞬間に、その様子の悪さに気づいた。


「だいじょうぶ、死んでない」


 聞いてもいないのに言うあたり、相当に心細かったのだろう。


 レノは吾輩のそばへ座るなり、壁に頭をもたせかけて目を閉じた。息が少し荒い。傷口を布で巻こうとしているが、片手ではうまく結べないらしく、何度も布を落とす。


 吾輩はその様子を見ながら、ひどく居心地の悪い思いをした。


 喰うなら今である。


 弱っている。血の匂いもする。抵抗も鈍る。これほど好条件は久々だ。ミミックとして、ここで飛びかからぬ理由はない。


 ない、はずだった。


 それなのに吾輩は動けなかった。


 理由をつけるなら、簡単である。怪我人は味が落ちる。疲弊した人間は肉が締まらぬ。あるいは、部屋の入口に近すぎて都合が悪い。血の匂いにつられて他の魔物が寄る危険もある。いくらでももっともらしく言えた。


 だが、真の理由はおそらくそうではない。


 吾輩はそのとき、食事としてのレノよりも、いつものようにくだらぬ話をこぼすレノのほうを待っていたのである。


 なんたる屈辱。


 魔物としてこれ以上の堕落があろうか。


 レノはしばらくして、ようやく布を巻き終えた。ひどく不格好で、すぐ解けそうな有様である。彼はそれを見て肩を落とし、それから吾輩へ向かって苦笑した。


「笑うなよ」


 笑ってなどいない。


 ただ呆れていただけである。


「……俺、ほんと向いてないのかな」


 その一言だけが、やけに静かに落ちた。


 吾輩は返事を持たぬ。


 持たぬが、もし持っていたなら、何と言っただろう。向いていない、やめてしまえ、と切って捨てたか。あるいは、向いている者ばかりが生き残るわけでもない、とでも言ったか。どちらも吾輩らしくなく、どちらも少しだけ真実であった。


 結局、吾輩は黙っていた。


 レノもまた、それ以上は何も言わなかった。


 その沈黙は妙に重たく、それでいて不快ではなかった。返事のない相手との沈黙が、なぜか誰かと同席している感じを失わない。人間というものは、ときおり実に奇妙な生き物である。


 しばらくしてレノは立ち上がり、吾輩の蓋にそっと手を置いた。


 吾輩の全身がひやりとした。


 開けるのではない。


 壊すのでもない。


 ただ、手を置いたのである。


「お前が本物の宝箱だったらなあ」


 前にも似たことを言っていた。まるで口癖らしい。


「そうしたら、人生一発逆転って感じなのに」


 人間はすぐ一発逆転を夢見る。


 だが人生というものは、箱ひとつでひっくり返るほど単純ではあるまい。少なくとも、吾輩の見てきた限りではそうである。箱を開けて救われた者より、箱を開けて破滅した者のほうがよほど多い。


 もっとも、吾輩自身がその一端を担ってきたのだから、あまり偉そうなことは言えぬ。


 レノは手を離し、去っていった。


 そのぬくもりが、鉄具のあたりにしばらく残ったような気がした。もちろん気のせいであろう。宝箱に感傷は不要である。ぬくもりだの余韻だの、そういうものは人間が詩人ぶるときに使う言葉だ。


 しかしその晩、吾輩はどうにも眠りが浅かった。


 レノの「向いてないのかな」という声が、湿った石壁のあちこちに沁みこんで、夜更けにまた滲み出してくるような気がしたのである。


 さて、そんなふうにして妙な日々が続いていたある日のことだ。


 その日、レノはこれまでになく明るい顔で現れた。足取りも軽い。肩の落ち方も弱々しくない。部屋へ飛び込むなり、彼は周囲を確かめることも忘れた様子で吾輩のところへやってきた。


「聞いてくれ」


 聞かぬ、と言いたいところだが、どうせ喋る。


「今日、小さい依頼だけど成功した」


 ほう。


「いや、ほんとに小さいやつな。倉庫の見張り。魔物退治ですらない。でも報酬出た」


 よかったではないか。


「しかも余ったパンまで貰った」


 それはあまり自慢になっておらぬ。


「で、明日もう一回呼ばれてる」


 レノはそこで、まるで子どものように笑った。ほんの少しのことなのに、顔全体がぱっと明るくなる。その表情を見て、吾輩は妙な感慨を覚えた。人間というものはつくづく、少しの光で息を吹き返す。だからこそ何度でも痛い目を見るのだろうが、それを愚かとだけ言い切れぬのが厄介である。


 レノは吾輩の前に腰を下ろし、袋からまだ柔らかいパンを取り出した。今日のそれはいつもの黒パンより多少ましな代物らしく、彼は一口かじるたびにいちいち満足そうな顔をした。


「お前、何も言わないけど聞くのだけは上手いよな」


 そのとき吾輩は、奇妙な錯覚にとらわれた。


 自分がただの罠でなくなったような錯覚である。


 もちろん、実際にはそんなことはない。吾輩はミミックであり、牙も舌も胃袋も持つ魔物である。それ以外の何者でもない。聞き上手などという穏当な肩書きは、酒場の女給か宿屋の老人にでもくれてやるがよい。


 だがその言葉は、吾輩の内部のどこか、空腹とも退屈とも違う場所に、静かに引っかかった。


 そして、まさにその直後であった。


 部屋の外から、複数の足音がした。


 重い。


 速い。


 ためらいがない。


 レノもそれに気づいて顔を上げた。吾輩もまた一瞬で察した。あれは迷う者の足音ではない。ここを目的地と決め、ためらわず進んでくる者たちの歩みである。しかも一人ではない。三人、いや四人。


 次の瞬間、北回廊の角から武装した冒険者たちが姿を現した。


 鎧の質、武器の手入れ、歩幅の揃い方、そのどれを見てもレノとは格が違った。熟練者である。手荒で、効率を優先し、迷宮を「攻略対象」としか見ぬ種類の人間どもだ。


 先頭の男が部屋へ入るなり、レノを見て眉をひそめた。


「なんだ、まだこんなところをうろついていたのか」


 レノの肩がわずかに強張る。知り合いらしい。しかも、あまり愉快な類の。


 別の男が鼻で笑った。


「身の程知らずはしぶといな」


 三人目は答えも待たず、部屋を見回し、そして吾輩に目を留めた。


「……へえ。いかにもって箱がある」


 吾輩の内部が冷えた。


 その視線には、レノのような迷いも躊躇もなかった。見る、疑う、壊す。その手順が最初から決まっている目だ。


 先頭の男が肩をすくめる。


「こういうのは壊してから調べればいい」


 まことに野蛮である。


 レノがはっとして立ち上がった。


「待って、それ――」


 何を待てと言うのか、自分でも分かっていない声音だった。宝箱を庇う理由など、彼にはない。いや、あるはずがない。だが彼は一歩前へ出た。


 そのとき、冒険者のひとりが苛立ったように腕を振り、レノを乱暴に突き飛ばした。


 若造の体は軽い。簡単に均衡を崩し、石床へ倒れる。倒れた先は、部屋の隅。そこには古い罠の残骸があり、折れた鉄杭が斜めに突き出していた。


 あぶない、と吾輩は思った。


 思ってしまった。


 次の瞬間にはもう、考えるより先に、蓋が跳ね上がっていた。


 蓋が跳ね上がる音は、長い歳月を通して幾度も響いてきたはずである。だがそのときのそれは、吾輩自身にとってさえ初めて聞く音のようであった。


 鈍く、重く、そしていささか拙い。


 獲物へ飛びかかるための開き方ではない。迷いなく襲うための身構えでもない。ただ、目の前で起こりかけている何かを止めるために、咄嗟に全身が弾けた。そういう、みっともないほど率直な開き方であった。


 冒険者どもの目が見開かれる。


 当然である。古びた宝箱が突如として口を開き、内側からぬらりと舌が伸び、牙が並ぶのを見て驚かぬ者があろうか。驚かぬとすれば、それはもう相当にろくでもない経験を積んだ者だけだ。


「ミミックだ!」


 誰かが叫んだ。


 いまさら何を言う。見れば分かる。


 吾輩は伸ばした舌を、倒れかけたレノの肩口へ絡めた。喰らいつくためではない。引くためである。自分でも信じがたいが、そうするほかなかった。レノの体を鉄杭から少しでも遠ざけるべく、舌に力を込める。


 レノは悲鳴とも声にならぬ息ともつかぬ音を漏らした。無理もない。つい今しがたまで黙って愚痴を聞いていた宝箱が、いきなり舌を伸ばして肩を掴んだのだ。事情を説明しろと言われても、吾輩にも難しい。


 しかし幸い、そのひと引きで彼の体はわずかに横へずれ、折れた鉄杭の切っ先は脇腹を掠めるだけで済んだ。布が裂け、薄く血が滲む。致命傷ではない。


 その一瞬で十分であった。


「下がれ!」


 先頭の冒険者が剣を抜く。実に手際がよい。気に食わぬが、腕は立つ。別の男はすでに小盾を構えているし、三人目は槍の間合いを取ろうと後ろへ開いた。四人目だけが出遅れていたが、それも驚いたのが一拍分長かっただけで、すぐに短杖を握り直した。


 つまり、最悪である。


 吾輩は久しく本気の戦いというものをしていなかった。獲物を待ち、噛みつき、食らう。それが吾輩の本分であって、正面から武装した人間どもと渡り合うようにはできていない。ましてや四人。しかも統率がとれている。これで勝てると思うほど、吾輩は若くも愚かでもない。


 だが、今さら蓋を閉じて「なかったこと」にも出来ぬ。


 ならばせめて、一番気に食わぬ男から喰らいついてやろう。そう決めた瞬間、剣士が踏み込んできた。


 速い。


 刃が光る。


 吾輩は咄嗟に蓋を振ってそれを受けた。金具が悲鳴を上げ、蝶番に衝撃が走る。ああ、なんということだ。自慢の渋い鉄具に傷がつく。美観の問題としても腹立たしいが、それ以上に、痛い。


 箱にも痛覚はある。


 人間どもはそのあたりを軽んじすぎである。


 続けざま、槍が脇から突き込まれた。吾輩は身をひねるようにして避ける。避けきれず、側板をかすめる。木片が散る。まったくもって非道である。少しは物を大切に扱う心を持つがよい。


 もっとも、向こうから見れば吾輩は「物」ではなく魔物なので、期待するだけ無駄なのだろうが。


 レノは床に手をつき、呆然とこちらを見ていた。顔色は死人のように青い。口も半ば開いている。事情が飲み込めぬという顔だ。飲み込めるほうがおかしい。


「に、逃げろ……!」


 自分が何に向かって叫んでいるのか分かっているのかいないのか、彼は震える声でそう言った。


 逃げるのはお前だ、と吾輩は心中で怒鳴った。


 だが声にはならぬ。吾輩は元来、人語を話すようには出来ていない。ただ思考があり、記憶があり、皮肉があり、空腹があるだけだ。そこに言葉まで備わっていたら、神というものは少々サービスが過ぎる。


 剣が再び来る。


 吾輩は舌を鞭のように打って牽制し、剣士の手首へ絡めた。思いきり引く。男の体勢が崩れる。そこへ蓋の縁を叩きつけるように振ると、鈍い音がして男は壁へぶつかった。よし、ひとり。


 だがその間に、杖を持った男が短い詠唱を終えていた。


 青白い光が指先に宿る。


 まずい、と思ったときには遅い。


 閃光が走り、吾輩の正面を打った。乾いた爆ぜる音。木材の焦げる臭い。熱と痺れが一度に襲ってくる。吾輩はたまらず蓋を大きく開いて呻いた。実際に声が出たかどうかは分からぬが、少なくとも内部はたいへんに乱れた。火や雷は実にいけない。どちらも箱と相性が悪すぎる。


「やっぱり壊せばよかったんだ!」


 杖の男が叫ぶ。


 貴様は最初からそのつもりだったではないか。いちいち再確認するな。


 そのとき、視界の端でレノが立ち上がるのが見えた。ふらつきながらも剣を抜き、こちらへ駆け寄ろうとしている。


 馬鹿者。


 来るな。


 吾輩は本気でそう思った。来たところで役に立つまい。むしろ足手まといである。しかも本人にその自覚があるくせに、こういうときだけ妙な意地を出す。人間のそういうところは理解しがたい。


 案の定、彼は途中で盾持ちの男に蹴り飛ばされた。壁に肩を打ちつけ、短く息を詰まらせる。吾輩の内部が熱くなった。怒りなのか焦りなのか、あるいは両方なのか、自分でもよく分からぬ。ただ、ひどく腹が立った。


 人間どもに対して腹が立つことなど珍しくもない。だがその腹立たしさの質が、普段と違っていた。


 喰らいたいからではない。


 奪われたくないからだ。


 その認識がよぎった瞬間、吾輩は自分で自分にぎょっとした。何を馬鹿な。レノは吾輩の獲物でも所有物でもない。ましてや「失いたくない」など、そんな人間じみた感慨を魔物が抱いてどうする。


 どうするも何も、もう抱いてしまっていたのだから仕方がない。


 吾輩は大きく身を翻した。宝箱のくせに翻るとは奇妙な話だが、ミミックとは概してそういうものである。擬態を解けば、箱の四隅は脚にもなれば顎にもなる。蓋は盾にも牙にもなる。見た目が箱なだけで、中身は決して静物ではない。


 吾輩は床を蹴り、盾持ちへ体当たりした。


 重い音。


 男がたたらを踏む。


 そこへ舌を絡め、足首を払うように引く。盾が落ちる。隙が生まれる。剣士が立ち直る前に、吾輩はもう一度蓋を打ち込んだ。今度は顎に入ったらしく、男は呻いて尻餅をつく。


 だがこちらも無事ではない。側板は裂け、金具は歪み、焦げた匂いはますます濃い。蝶番のひとつがすでに悲鳴ではなく泣き言に近い音を立てている。ああ、なんという惨状だ。戦いのあとで鏡を見るのが恐ろしい。もっとも吾輩には鏡を見る習慣などないが。


 杖の男がさらに後退し、次の術を練ろうとする。


 あれを許すと面倒だ。


 吾輩は近くに転がっていた石片を舌で巻き取り、その顔へ投げつけた。狙いは大して良くなかったが、額に当たったらしい。男が短く罵声を上げる。その隙に、レノが――なんとレノが――床を滑るようにして前へ出た。


 彼の剣は拙い。踏み込みも浅い。だが相手がよろめいているところへ、勢いだけは乗っていた。刃が杖の先端を叩き、杖が手から弾かれる。


 おお、と吾輩は少し感心した。


 同時に、そんな半端な成功で調子に乗るなとも思った。


 果たしてレノは次の瞬間、剣士に柄で殴られ、またしても床へ転がった。やはりである。期待させておいてすぐこれだ。実に彼らしい。


 だが、その一瞬で流れは変わった。


 四人の連携が崩れたのだ。盾持ちは尻餅をつき、剣士は苛立ち、杖の男は武器を落とし、先頭の男だけがまだ冷静を保っていたが、それでも完全ではない。目の前の「ただ壊せばよい箱」が、思いのほかしぶとく、しかも若造まで絡んできたことで、計算がずれている。


 こういうとき、勝敗を分けるのは往々にして実力そのものではなく、面倒を嫌う気持ちである。


 先頭の男が舌打ちした。


「退くぞ」


 賢明である。


 別の男が「は?」と顔をしかめる。だが先頭は剣を構えたままじりじりと後退し、短く言い捨てた。


「割に合わん。深追いするな」


 実に現実的な判断だ。気に食わぬが、正しい。連中の目的はおそらく探索か収穫であって、傷だらけになることではない。妙な若造と傷んだミミックのために命を賭けるほど、彼らは浪漫家ではなかった。


 盾持ちが悪態をつきつつ立ち上がる。剣士も口の端の血を拭い、杖の男は落とした武器を拾って後ずさる。最後に先頭がレノを一瞥し、冷えた声で言った。


「次は死ぬぞ」


 それだけ残して、四人は回廊の向こうへ消えた。


 足音が遠ざかる。


 静けさが戻る。


 戻った静けさは、それまで知っていたものとはまるで違っていた。荒い息、焦げた匂い、散った木片、血の気配。部屋そのものが戦いの余熱を抱えている。石壁さえ少し熱を帯びたように思えた。


 吾輩はしばらくその場を動けなかった。


 蓋は半ば開いたまま、舌も出しっぱなしで、ひどく締まりがない。これでは名うての魔物どころか、壊れかけの家具である。まことに見苦しい。


 しかし格好をつける余裕はなかった。


 痛い。


 腹も減った。


 そして何より、疲れた。


 やや遅れて、レノが掠れた声を出した。


「……ほんものだ」


 いまさらである。


 だがその言い方には、罠を見抜いたときの得意げな響きも、宝が外れだったときの落胆もなかった。ただ、信じていたものが別の形で本当だったと知ったときの、どうしようもない驚きだけがあった。


 レノは壁にもたれたまま、吾輩を見ていた。見ているというより、目を離せないのだろう。恐怖がないわけではない。いや、相当にある。顔色も悪いし、唇も震えている。だが、逃げようとはしなかった。


 逃げられないだけかもしれぬが。


 やがて彼は、喉を鳴らすようにして言った。


「……食わないのか」


 その問いは、ずいぶん前から二人のあいだに置かれていた気がした。


 吾輩はミミックである。


 人を欺き、喰らう魔物である。


 ならば答えは明白であるはずだ。今ここでレノに喰らいつき、遅れた食事を済ませればよい。彼は傷つき、疲れ、抵抗もろくにできまい。部屋にはもう邪魔者もいない。これ以上ない好機だ。


 だのに吾輩は動かなかった。


 動けなかった、ではない。動こうと思えば動けた。だがそうしなかった。なぜか。


 理由はおそらくいくつもある。ひどく疲れていた。痛みもあった。味が落ちそうだった。情けないほど薄い言い訳なら、いくらでも並べられる。


 だが、それらは枝葉にすぎぬ。


 肝心なのは、吾輩がもう、レノを「ただ喰えばよいもの」とは見ていなかったという一点である。


 彼は部屋へ来て、くだらぬ失敗談をこぼし、まずいパンを食い、たまに骨を置き、返事のない箱を相手に勝手に安心していた。そんな人間を、吾輩はいつの間にか待つようになっていた。待つ理由が空腹だけではなくなっていた。


 それは魔物として、きわめて不都合な事実である。


 だが不都合だからといって、消えるものでもなかった。


 吾輩はゆっくりと舌を引っ込めた。蓋をわずかに閉じる。戦うための姿勢を解く。牙も見えぬよう角度を変える。擬態に戻るには、まだいささか壊れすぎていたが、それでも出来るだけ「喰わぬ」姿を示したつもりである。


 レノはその動きを見て、目を見開いた。


「……ほんとに、食わないんだな」


 問いではなく、確認だった。


 吾輩は答えぬ。


 答えられぬ。


 だがそれで十分だったらしい。


 レノは壁に背を預けたまま、長く、長く息を吐いた。その息は、命拾いした安堵というより、何か取り返しのつかぬものが変わってしまったことへの諦めに近かった。


「お前……なんなんだよ」


 それはこちらの台詞である。


 吾輩はミミックである。それ以上でもそれ以下でもない。少なくとも、そう思ってきた。だが今日という日は、その単純な定義にひどく傷をつけていった。冒険者を助けるミミック。愚痴を聞くミミック。食うべき相手を食わぬミミック。どれも語感がよくない。肩書きとしても締まらぬ。


 レノはしばらく黙っていたが、やがて痛む脇腹を押さえながら立ち上がった。足元はおぼつかず、一歩ごとに顔をしかめる。無理もない。軽傷とはいえ、彼にとって今日は十分すぎるほどの厄日であったろう。


 彼は部屋の入口まで数歩進み、そこで止まった。


 振り返る。


 吾輩はじっとしていた。じっとしているしかない。


 以前のように蓋へ手を置くことは、もう出来なかった。そもそも今の吾輩は焦げ、割れ、血と埃にまみれており、気軽に触れてよい代物ではない。それに、触れればたしかにそこに牙があると分かってしまう。


 だからレノは、少し考えたのち、深く頭を下げた。


 礼であった。


 人間に礼をされるなど、吾輩は考えたこともなかった。獲物に泣かれたり、呪われたり、罵られたりしたことはある。死に際に神へ祈る者もいたし、仲間を呼ぶ者もいた。だが、礼だけは一度もない。


 なんと居心地の悪いことか。


 レノは頭を上げ、まだ震える声で言った。


「……また来る、って言ったら、変か」


 変である。


 大いに変である。


 助けられた相手がミミックで、しかもその部屋へまた来たいなど、相当にどうかしている。こちらとしても歓迎してよい話ではない。魔物の威厳というものがある。喫茶店ではないのだ。


 しかし吾輩は追い払うことも出来ぬ。


 結局、何も言わぬまま見送るほかなかった。


 レノはそれを肯定とも否定とも取れぬ顔で受け止め、ぎこちなく一歩下がった。それから、今度こそ回廊の向こうへ去っていった。足音は遅く、不揃いで、けれど生きていた。


 その気配が完全に消えるまで、吾輩は耳を澄ませていた。


 やがて本当の静寂が戻る。


 滴の音。


 湿った空気。


 苔の匂い。


 それらはいつも通りであるはずなのに、どこか違って感じられた。石壁に染みる冷たさが、今夜は少しだけ和らいでいる気がしたのである。無論、そんなはずはあるまい。壁は壁であり、湿気は湿気だ。都合よく温度まで変わってはくれぬ。


 だが、そう感じたこと自体は嘘ではなかった。


 吾輩はミミックである。


 人を欺き、喰らうための魔物である。


 その本分に背いたことが賢明であったかどうか、吾輩には今なお分からぬ。飢えは消えぬし、傷も痛む。明日にはまた、誰かが吾輩を壊しに来るかもしれぬ。レノとて、今日のことを誰かに話せば厄介は増えるばかりだろう。良いことなど、たぶんひとつもない。


 それでも。


 ただひとつだけ確かなのは、吾輩が今日、食わずに残したものの中に、空腹では埋められぬ何かがあったということだ。


 それが何であるか、吾輩はまだ知らない。


 知らぬが、知らぬままでいることも、そう悪くはないのかもしれぬ。


 なにしろ吾輩はミミックである。


 だが、もはやただの箱ではない。

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