90話 物言わぬ盾
途端に空気が凍る。
フゲンとスアンニーは耳を疑った。
「息子」という言葉を知らない?
いったい何の冗談だと言いたくなるが、しかしライルの顔を見れば冗談などではないとすぐにわかる。
ライルは、うっかり花瓶を割ってしまった子どものように青ざめていた。
「な……に言ってんだお前」
フゲンは声を絞り出す。
今まで見えていなかった、尋常ではない何かを垣間見た心地がしていた。
相手が大切な人であればあるほど、フゲンはその内側に立ち入ることを躊躇うタチだ。
けれども今に限っては、「これ」に限っては。
放っておいてはいけないと彼自身の勘が言っている。
祈りにも似た感覚を持ちながら、フゲンはじっと視線を向けた。
「いや、はは……これは、ちょっと、その」
愛想笑いで追及から逃れようとするライルだったが、相棒の真っ直ぐな赤い瞳に負け、観念して笑みを取り去る。
「……ごめん。本当に、わからないんだ」
項垂れ、掠れた声で彼は言った。
その姿は今にも消え入りそうなほど弱々しかった。
* * *
衣服を見繕い終えたシュリと共に孤児院を後にしたライルたちは、また彼の家へと戻った。
モンシュたちの再度の着替えを待って、一行は居間に集まる。
シュリが何やら用事のためにと席を外し、部屋に残った5人の間には少しぎこちない空気が流れた。
「俺、さ」
おずおずとライルは口を開く。
「実は……記憶が欠けてるんだ」
それはずっと隠しておくつもりだった秘密の一端。
できれば知られたくはなかった、恥とも言うべき事実だった。
だがあそこまで致命的なミスを犯してしまった今、白状するよりほかはない。
ライルは慎重に慎重に、必要最低限の告白を行う。
「いつからいつまでの、とかじゃなくて、虫食いみたいにあちこち『無く』なってる。だからみんなが当たり前に知ってることを知らなかったりするんだ」
遂に言ってしまった、という気持ちと、やっと言えた、という気持ちが腹の中で渦巻いた。
と共に、これ以上何かを喋るといよいよ歯止めが利かなくなってしまいそうで、ライルはそれきり口を閉ざす。
しかしいったい、どういう反応が返って来るのか。
彼にとってはそれもまた気がかりだった。
冷や汗まみれの思考を抱え、彼はただ処刑人に首を差し出すようにうつむく。
が、ほんの数秒もおかず、カシャとモンシュがほぼ同時に頷いた。
「あー、納得」
「なるほどですね」
「アレッ!?」
ライルは思わず素っ頓狂な声を上げる。
「何その顔」
「い、いや……」
もっと驚かれ、また責められるだろうと想定していたライルにとっては、意外も意外な反応だった。
だが彼の心情をさておいて、カシャは平然と続ける。
「だってあんたと喋ってると、時々話が噛み合わないんだもの。何かはあると思うでしょ」
「ライルさん、わりと抜けてるところがあるのでその流れで深くは考えていなかったんですけど……合点が行きました」
「わたしもあんまり気にしてなかったわ」
モンシュとクオウも彼女に続き、ライルはぽかんと間抜けに口を開けた。
なんだ、案外――という浅ましい安堵がじわりと沁みる。
「しっかしお前、なんでそんな妙なことになってんだよ」
次いでフゲンが切り込んだ。
虫食いの記憶喪失という奇妙な症状、しかも本人が隠していたのだ。
少なくともその事由は並大抵のものではない。
彼が困難を抱えていることはほとんど確実であった。
「それは……」
ライルの瞳に揺らぎが生じる。
「悪い、秘密ってことにしといてくれ」
安堵で緩んだ心を、しかし彼は己を叱咤して引き締めた。
この一線は越えてはいけない、これ以上は決して晒すべきではない、と。
「すごく個人的なことだから大丈夫だ。黙ってたのは悪かったが、これ以上このことが厄介事に発展することは無い。安心してくれ」
「わかったわ。そこまで言うなら、深入りはやめておきましょう。ただし、抱えきれなくなったら必ず白状すること。いいわね?」
「ああ」
ライルはホッと息を吐く。
何かあるとわかった上で、触れないままでいてくれる仲間の優しさが、今の彼には何より有り難かった。
「じゃあこれからのことを決めましょう! まずどうにかして、もう一度舟を調達しないといけないわよね」
重くなっていた空気を払うがごとく、クオウが手を叩く。
そう、一行にはまだ「どうやって再出発するか」という大きな問題が残っているのだ。
「……出立のめどが立つまで、ここに居るといい」
いつの間に戻って来ていたのか、部屋の入り口に立つシュリが声をかける。
「え、良いのか?」
二重に戸惑いながらもフゲンが言うと、彼はこくりと首を縦に振った。
「ありがとう。世話になる」
つくづく、シュリは人が好い。
舟が難破したのは痛かったが、その先でこのような人物に出会えたことは不幸中の幸い、いや幸いの分でお釣りが来るくらいだ。
さて、では家に置いてもらう対価は何にすれば良いか……とライルたちが考え始めたところで、不意に玄関の方から騒々しい声が飛んで来た。
「シュリさん、シュリさん!」
声の主は恐らく中年の女性。
シュリが応対に向かい、ライルたちはそっと聞き耳を立ててみた。
「大変だよ、なんだかおかしな奴らが町に入ろうとしてるんだ。町長を出せだとか喚いて、今は不在だって言っても聞かないんだよ。みんなもう怯えちゃって」
「わかった、すぐ行く。案内を」
何やら非常事態らしい。
助けてもらった恩があるし、それが無くとも放ってはおけない。
一行は頷き合い、部屋を出て玄関へと向かった。
「え、え、なんだいこの人ら」
シュリの後に続いてぞろぞろと出て来るライルたちに、女性は目を丸くする。
知人の家から見知らぬ者たちが次々現れたのだから、さもありなん、だ。
「客人だ」
「そ、そうかい」
女性は困惑しながらも、それ以上追及することはしなかった。
住宅地を抜け、町の端まで行くと、10人少々の町民たちと、町の門の外に群れる数十人の男たちが見えた。
先ほど女性からあった話の通り、揉めている様子だ。
そこへシュリが姿を現わすと、町の人々は皆、顔を明るくした。
「おお、シュリさん! やっと来てくれたか」
「頼むよ、私らじゃどうにもできない」
彼らはシュリにかなりの信頼を置いているらしく、期待まじりの眼差しを向けながら懇願する。
「ここで待っていてくれ」
シュリはライルたちに待機を指示すると、単身、男たちの前へと歩み出た。
「何の用だ」
門の前に立ち塞がり、短くそう言い放つ。
見た目と上背も相まってかなりの威圧感だが、男たちは怯まず、にやりと笑った。
「俺たちは金と住む場所に困っててなあ。ついてはこの町をいただこうと思ってんだ」
筆頭格らしき1人が恥ずかしげもなく言う。
まるで意味のわからない要求である。
横暴を通り越して馬鹿ではないかというほどだが、如何せん彼らは見るからに粗暴で、なるほど穏和そうな町民たちが真っ向から対峙するにはいささか勇気が必要だ。
「…………」
はいともいいえとも答えず、シュリは黙って佇む。
「俺たちを舐めない方がいいぜ。この人数、この装備。見えないわけは無いだろ?」
「…………」
「大人しく従うなら命は助けてやる」
「…………」
「さあどうする?」
「…………」
「そうかそうか。……野郎共、やっちまえ!」
ひたすらに無言を貫くシュリに男たちはいよいよ痺れを切らし、武器を構えて襲い掛かった。
対するシュリが手にしたのは、剣でも杖でもなく、背負っていた大きな盾だった。