88話 海を舐めてはいけない
リンネら捜索隊から無事逃げおおせたライルたちはしばらくの間、傷と疲れを癒しつつのんびりと東へ向かった。
なぜ東かと言うと、『地図』の光がそちらを指していたからだ。
先日、公国を出てすぐ蓋を開けた時には『地図』は散漫な光を発した。
だがそれは公国内……すなわち魔女の膨大な魔力に中てられてのこと。
十分にハルルの街から遠ざかった後、ライルたちは「今なら『地図』は正常に働くはず」と仮説を立てた。
しかして開かれた『地図』から放たれたのは真っ直ぐなひと筋の光。
その光が指したのが、東の方角だったというわけだ。
ライルたちは以後も何度か――捜索隊に居場所がバレないよう、開けるのはほんの数秒だけにすることを心掛けて――『地図』を確認しながら進み続け、遂に東端の海岸まで辿り着いた。
が、『地図』はなおも東を指す。
どうやら次なる手がかりを見つけるためには、海を渡る必要があるらしかった。
というわけで。
「よーし! 出発進行!」
「おー!」
雷霆冒険団一行は、早速フネに乗り込んだ。
ただしフネはフネでも、「舟」である。
5人乗れば満員の、小規模な手漕ぎ舟である。
地元の船乗りと交渉して買い取った簡素なものだが、手持ちの金銭を考えると乗り物を獲得できただけで上等だ。
「本当に大丈夫なんでしょうか……?」
モンシュは初めて間近で目にする海と、初見でもわかる頼りなさげな舟に不安を隠せない。
「行ける行ける! 天気良いし、次の島まですぐだぜ!」
一方のフゲンは元気いっぱいだ。
いや楽天的と言った方が正しい。
彼がオールをぐいと漕ぐと、舟は勢いよく海原に飛び出した。
「すごいわ、ずっと向こうまで全部海! 深さはどのくらいあるのかしら?」
中々の速さで進む舟と流れる景色、そして広大な海にクオウは目を輝かせる。
「あんまり乗り出すと危ないわよ」
「ふふ、はあい。あっ、今あっちで何か跳ねたわ! きっとお魚ね!」
カシャはそんなクオウを見守りつつ、自らも辺りを見渡した。
海を見るのはいつぶりだろうか。
少なくともここ3年ほどは内陸に居っぱなしだったから、新鮮な気分だ。
「天上国がよく見えますね」
舟が進むにつれ少し慣れたのか、先ほどよりも和らいだ表情でモンシュが言う。
視線の先は上空、雲の切れ間から覗く浮遊島。
彼の故郷である天上国は、空に浮かぶ列島である。
大小の島々はこの世界にぐるりと巻き付く帯のように、行儀よく整列しているのだ。
遮蔽物の無い海上では特に、その様子がよくわかる。
「モンシュの村はどの辺だ?」
ライルが尋ねると、モンシュは南の空を指差した。
「ずっと向こう、あっちの方です」
「へえ、随分遠くから来たんだな」
「はい。村のある島の真下には海しか無いので、陸地のある方に移動してから降りて来たんです」
5人を乗せた舟は沖合に出る。
波による揺れをも楽しみ、ライルたちは飽くことなく談笑に興じた。
しかしながら、素人の船旅がそう順風満帆に行くはずもなく。
「ちょっと風が出て来たわね」
そうカシャが気付いたかと思えば。
「向こうの方、雲が出て来てるわ」
「雨雲……ですね」
クオウとモンシュがそう呟き。
「あれ、何か近付いてきてないか?」
フゲンが目を細め。
「……なあ、これって」
ライルが危機を察知する頃には、既に波は高くなり始めており。
あっと言う間に、一行の舟は暴れ狂う海に弄ばれるところとなった。
「うわーーーーっ!!」
大粒の雨が叩き付ける音に負けないくらいの、盛大な悲鳴の合唱が海原に響く。
勿論、聴衆はいない。
「なんだこの荒れっぷり!? 海ってこんなになるのか!?」
ライルがあまりにも当然すぎる疑問を叫ぶ。
いくら彼らが強くとも、この巨大で気まぐれで凶暴な怪物に勝つなど到底無理である。
海に出るなら船乗りか海竜族を連れて来るべきだったが、今となっては全てが後の祭りだ。
「モンシュ、こっちだ!」
「しっかり掴まってなさい、クオウ!」
もはや右も左もわからない。
ライルはモンシュを、カシャはクオウをしかと抱き、フゲンはオールを駆使して舟の体勢を保とうと奮闘する。
この豪雨では飛行は無理筋、波は魔法でどうこうできる規模でもない。
打つ手の無い一行は抵抗虚しく、ひときわ大きく被さって来た波によって舟から放り出された。
ライルは水中でもみくちゃにされながらも、仲間たちを見失うまいと気合いで目を開く。
が、波に振り回され凶器と化した舟が勢いよく後頭部にぶつかり、彼は久方ぶりの気絶を味わった。
* * *
「う……」
ライルが瞼を開くと、ごつごつとした岩肌が視界いっぱいに広がっていた。
背中や腕の下にも硬い感触。
どうやら自分は仰向けに寝転がっているらしいと、少し痛む頭で理解する。
「ここは……?」
現状把握をしなくては。
彼はむくりと上体を起こした。
「目ェ覚めたか、ライル」
と、背後から聞こえて来た声にライルは頬を緩める。
「フゲン」
立ち上がり、回れ右をするとフゲンだけでなくモンシュ、カシャ、クオウも揃っていた。
みんなびしょ濡れだが、見たところ大きな怪我は無い。
「良かった、みんな無事だな」
ライルはほっとひと息吐く。
最悪の事態は回避できたようだ。
「ここは地底国の横穴よ」
「地底国……」
地底に広がる国、フゲンの故郷。
国の入り口は2種類あり、うちひとつが「横穴」だ。
文字通り外に向かって横方向に空いた穴で、繋がる先は海に面した崖となっていることが多い。
その特性ゆえに普段は水門で閉ざされているため、基本的に一般人の入国には不向きだ。
しかし今、一行はその横穴の中にいる。
いったいこれはどういうことかと、ライルは首を傾げた。
「僕たち、波で岸の方まで押し戻されたみたいです。それで横穴の入り口に流れ着いたところを、あの方が助けてくれたそうなんですよ」
言って、モンシュが後方に目を向ける。
そこ……半ば死角となっている岩陰には、1人の青年がいた。
「…………」
青年は自分が話に出されたのに応えてか、ゆっくりと近付いて来る。
深く被ったフード、口元を隠す厚手の布、赤と青の混じった不思議な色の瞳と、黒々とした髪。
丈の長いコートで包まれた長身はフゲンをゆうに上回る。
背には大きな盾を背負っており、ただ立っているだけでも威圧感は十二分だ。
「ありがとう。おかげで命拾いしたよ」
ライルは笑顔で礼を言うが、青年はにこりともしない。
「……旅人か」
「ああ」
「自分はシュリという。……ついて来るといい」
短く、微妙にぎこちない会話を経て、青年改めシュリは歩き始める。
聴きたいことは多いものの、何やらあまり話したくなさそうな気配を察し、ライルたちは大人しくついて行くことにした。
しばらく進むと、ごつごつとした足元が次第になだらかになる。
辺りにはぽつりぽつりと建造物が増え、人里の空気が流れ込んで来た。
地底の道は上下左右を岩に囲まれ陽の光はひとつも見えないが、先頭を行くシュリも後に続くライルたちも、惑うことは無い。
あちこちの岩肌に群生する植物らしきものが光を放っているからだ。
「照らし草ってんだ。夜の間だけしぼんで、朝んなるとまた復活して光る」
物珍しそうにチラチラと見るライルたちに、フゲンが解説する。
「光ってないのは息草。根っこが地上まで繋がってて、あっちとこっちの空気を入れ替えてるんだと」
「面白いな。これは?」
「照らし岩だ。なんか1日中微妙に光ってる」
「どういう仕組みなんだ?」
「わかんね」
そうこうしているうちに、一行は家々の建ち並ぶ町に着いた。
横穴付近と比べ、縦にも横にも幅が大きく、照らし草も大いに茂っている。
住人と思しき人々は、荷運びをする、井戸端会議に勤しむ、あてどもなく散歩をするなど、思い思いの時間を過ごしているようだった。
まさに平穏そのものである。
踏み固められた道をなおも歩いて行くと、3人の子どもたちが駆け寄って来た。
「シュリ兄ちゃんだ!」
「何してんの」
「そのびちょびちょの奴ら誰ー?」
年のほどは8から10歳くらいだろうか。
彼らはシュリの元に集まり、各々好きに発言する。
「……お客だ」
シュリは少し目を泳がせたのち、短く返答した。
「ふーん。じゃ、今日はウチに来ないの」
「いや……行く。遅くなるだけだ」
「なあんだ、よかった!」
子どもたちはその答えで満足したらしく、さっさと彼から離れる。
「待ってるからなー!」
「おいあんまり急ぐと転ぶぞ!」
「2人とも待ってー」
きゃあきゃあと騒がしくも微笑ましい声を響かせ、3人はあっと言う間に見えないところまで走って行った。
「元気な子たちだな」
ライルがそう零すが、シュリがそれに応えて会話を続けることは無かった。