86話 強くなった
「…………」
アンの言葉を最後まで聞き終え、フゲンは沈黙した。
棒立ちのまま、沈黙に、沈黙を重ねた。
微動だにせず反応らしいものを見せない兄に、さすがに何か不安を覚えたアンは控えめに口を開く。
「……えっと、お兄ちゃん? だから気にせず『箱庭』探しの冒険も――」
「泣きそう」
「え?」
「泣きそう」
思いも寄らない言葉に彼女がぎょっとして見ると、確かにフゲンは何やら小刻みに震えていた。
だが涙を堪えているのか何なのか、目をかっぴらいて瞬きひとつしない。
「妹の成長に対する喜び、寂しさ、つらい思いをさせてたことに気付けなかった自分への怒り、もう会えないのかという悲しさ、その他諸々の感情で頭がパンクして泣きそうだ。助けてくれライル」
「ええ……」
早口の心情陳述ののち流れるように鉢を回されたライルは困惑する。
先ほど「支える」と豪語したし、その心づもりもしていた。
が、フゲンの様態は予想していたどれとも違う。
こういう時はどうするのが正解だろう。
残念ながら覚えている知識の中に答えは無い。
迷いながら、自分なりにライルは対応を考えた。
「あー、お前いま泣きたい? 泣きたくない?」
「ぜってェ泣きたくない」
「じゃあ頑張れ! ほら気合い!」
ライルはばしばしとフゲンの背を叩く。
ひとまずこれが、彼への精一杯の応援だった。
幸いにも効果はあったようで、フゲンは深呼吸をひとつしてまたアンを真っ直ぐに見据えた。
「……アン。これだけはハッキリ言っておく。オレはお前のことを負担だなんて思ったことは無いし、むしろお前が居てくれたから親父とお袋が死んでも何とかやっていけた」
滔々と語るその声は、つい先ほどまでとは打って変わって落ち着いている。
よくよく聞くと震えが残っているが、それを悟られないよう懸命に気丈さを保っているようだった。
「お前が軍人として生きてくってんなら応援する。でも……これはワガママだけど」
小さく息を吸い、意を固めてフゲンは言う。
「オレは自分のためだけに生きられるほど強くないんだ。だから、お前のためにも生きさせてくれるか?」
「……!」
アンの目が見開かれる。
収まりかけていた涙がまた溢れ、彼女の頬を伝って零れ落ちた。
「っうん。うん!」
アンは何度も頷く。
強くなりたいというのは本当。
軍人として生きて行く決意も本当。
けれどもやはり、兄がくれる愛は何にも代えがたく、嬉しいものなのだ。
2人の様子を見ながら、似た者兄妹だな、とライルはしみじみ思った。
* * *
かくして目まぐるしい1日は終わった。
喜ばしいことに、捜索隊は隊長から下位隊員に至るまで死人が出ず、大なり小なり怪我はあれど全員無事。
周辺への被害もさして無く、此度の戦いは理想的な勝利と言えよう。
一方で、雷霆冒険団の面々は捜索隊の医療班から手当てを受けた後、宿で朝を迎えることとなった。
「昨日はありがとな」
身支度を終えて外に出たフゲンは、同じく宿を出たライルにぽつりと零す。
「良いってことよ」
ライルは照れくさそうに答えた。
そよそよと穏やかな風が通りを抜けて行く。
晴れた空に、綿のような雲がゆったりと流れていた。
ニッと口角を上げ、フゲンは拳を差し出す。
「これからもよろしくな――相棒!」
「! ……おう」
相棒。
……相棒。
ライルはその言葉を反芻し、泣きそうな顔で拳をこつんとぶつけた。
胸が詰まりそうだった。
「よし、行こうぜ。モンシュたちが待ってる」
「ああ」
2人は小走りで捜索隊の拠点へと向かう。
もうすっかり通り慣れた道を辿って行くと、ほどなく、これまたもうすっかり見慣れた建物に着いた。
拠点の前にはモンシュたち3人と捜索隊の面々が皆集まっており、どうやらライルたちが最後らしかった。
「揃いましたね」
ぐるりと全員の顔を確認し、リンネが口を開く。
「さて、これで我々とあなたたちの協力関係はお終いです」
彼女がそう言うと、場に少しばかりの緊張が走った。
そう、雷霆冒険団と地上国軍『箱庭』捜索隊が手を組んでいたのは『地図』を取り戻し、執行団に打撃を与えるため。
目標が達成された今、両者の関係が元に戻るのは当然の道理であった。
「この『地図』は元々そちらの物でしたから、今ここで奪うことはしません。どうぞそのまま持っていてください」
原稿を読み上げるがごとく、リンネは淡々と説明する。
カシャは、そういえば彼女がコットの町の件とどう関わっていたのか聞けず終いだったな、と思いつつ、しかし積極的に聞く気は少しも起きなかった。
「10秒差し上げます。あなたたちが出発して10秒後、私たちは追跡を開始することとしましょう」
「ちなみに隊で唯一の天竜族の俺は、もう疲れたので飛べませーん」
リンネが話し終えると、すかさずツイナが口を挟んだ。
わざわざそれを言うあたり、彼の性根の善性が垣間見える。
「ありがとう」
「次に会ったら殺します」
ライルは礼を言っても相変わらずの様子のリンネに苦笑した。
だがこれはこれで、ある種の安心感がある。
こうして雷霆冒険団一行は捜索隊の列から少し離れた場所まで移動した。
惜しいような惜しくないような、とにかくいよいよ別れの時である。
「お兄ちゃん!」
愛らしい声にフゲンが振り向くと、アンが晴れやかな笑顔で列の先頭に立っていた。
昨日の作戦では使わなかった弓を持ち、矢筒を背負っている。
その姿は、若いながらもれっきとした軍人のようだった。
「私は軍人だからお兄ちゃんのこと捕まえちゃうよ。覚悟してね」
「おう、望むとこだ」
温かな宣戦布告を交わし、フゲンはまた妹に背を向ける。
もう泣きそうなことは無い。
「モンシュ、行けそうか?」
「はい、ライルさん! 今回は戦闘をしなかったので」
モンシュが竜態に変じ、残りの4人は各々その背に乗った。
与えられた逃亡の猶予は10秒。
天竜族の飛行速度から考えると、短くもなく長くもない。
「わたしも追い風をつくって手伝うわね」
「あんたまだ魔力残ってるの? 元気ね……」
「うふふ!」
「よし、出発だ!」
ライルの号令で、モンシュは素早く飛び上がる。
高度を確保したのちすぐに速度を出し始め、周囲の景色の流れが徐々に速くなっていった。
「1、2、3、4……」
秒数をライルが数える傍ら、フゲンはくるりと後ろを向く。
まるで何かを期待するように、今しがた離れた場所をじっと見つめた。
「……8、9、10!」
時間だ。
ライルたちは念のため、いつでも攻撃に対応できるよう構える。
すると遠くを見続けるフゲンの目に、ひとつの飛来物が入ってきた。
「お、来たな」
彼は明るい声で言う。
飛来物は緩やかな放物線を描き、凄まじい速さで近付いて来た。
「っと!」
遂に目の前まで迫ったそれを、フゲンはぱしりと掴み取る。
折れも曲がりもせず届いた飛来物の正体は、1本の矢であった。
「すげえ、あそこから届いたのか」
フゲンは手に収まった矢に目を落とし、感嘆の息を漏らす。
傷付けないようにそっと握ると、不思議とぬくもりが感じられた。
これを射たのが誰なのか、などと無粋なことは誰も聞かない。
ライルたちはただ、妹の成長を見届けた兄の背を見た。
「アン……ほんとに強くなったんだな」
呟いたフゲンの声は、どれだけ距離を隔てようとも、風に乗ってアンの元へと届いたことであろう。