64話 かくて少女は魔女となる
エトラル公国、東の森。
そこには1人の魔女が住んでいた。
仮の名はローズ。
茨を操る赤い髪の少女だ。
人々は彼女を『赤の魔女』と呼び、忌み嫌っていた。
魔女は強大な力を持つ。
膨大な魔力量とそれを扱う天性の才は、並の魔人族では足元にも及ばない。
故に人々は魔女を恐れ、遠ざけた。
暗い森に押し込めて、人里に現れることを禁じたのだ。
エトラル公は屈強な有角族を国外から雇い、年端もいかない彼女に暴力を振るうよう命じた。
「有角族には敵わない」と刷り込むためだ。
単純な武力では、誰も彼女を縛れない。
だがただひとつ、心の柔らかいところに刻まれた恐怖だけが、ローズに首輪を付けていた。
そんな具合で、幼い魔女は大人しく森で暮らし、公国民は安心して街で生活をすることができていたのである。
しかし魔女の住む小さな家に通う者が、1人だけいた。
* * *
「こんにちはー!」
魔女ローズが13歳になる春、その何ということはない某日。
東の森に金髪の少年がやって来た。
「カダ」
ちょうど家の外で花壇の世話をしていたローズは、くるりと振り返る。
「■■■さん、食べ物買ってきました! 一緒に食べましょ!」
彼女の本名を親しげに呼び、少年カダはにこりと笑った。
2人が出会ったのは8年前のこと。
偶然森に迷い込んだカダがローズに懐き、ローズもまた月日が経つにつれ彼に心を開いて、現在に至る。
この頃、地上国・地底国間で大きな戦争が起こっていた。
長年に渡る小さな拗れが積み重なった末に、戦いが勃発したのだ。
両者の争いの勢いたるや凄まじく、天上国や海底国にまで飛び火するかというほどだった。
しかしエトラル公国は地上国に属しながらも、中立を保っていた。
理由は単純、魔女という兵器を敵も味方も恐れていたからだ。
心の無い武器ならいざ知らず、寝返りや反抗、乱心の可能性もある魔女は、戦いに利用するには危険すぎる。
そういうわけで、エトラル公国だけはあらゆる陣営と相互不可侵の条約を結んでいた。
「ねえ、カダ。大丈夫なの?」
簡素なテーブルに向かい合って座り、ローズは尋ねる。
「何がですか?」
「私と仲良くするのが」
「あはは、今さらですね」
カダはローズに出してもらった水を一口飲んだ。
「街の人たちに嫌なことされない?」
「全然! まあちょっと面白くなさそうな顔はされますけど、案外みんな放っておいてくれますよ」
「……そっか」
ローズはホッと息を吐く。
森の中で暮らす彼女には、家族がいない。
気が付いたら既に独りだった。
だがカダは違う……と、ローズは思っている。
きっと街に戻れば家族も友だちもいるし、多くの人と共に生きている。
自分のせいで彼らからカダが嫌われるようなことがあったら、と思うとローズは申し訳なくて、恐ろしくて堪らなかった。
「それじゃ、また来ます!」
「うん。またね」
やがて日が落ち始め、カダは街へと帰って行く。
ローズはその背を見送りながら、独り家の扉を閉める。
これが彼女の日常だった。
* * *
「そうだ■■■さん、戦争終わったらしいですよ」
それからまた数年が経ち、ローズは18歳になった。
いつものようにやって来たカダの発した言葉に、彼女は「へえ」と返す。
「どっちが勝ったの?」
「引き分けだそうです」
ふうん、とローズは言った。
「まあ、良かったね。これでみんな怖がらずに済むんだから」
「ですねえ」
実のところ、ローズには戦争というものにあまり実感が無かった。
エトラル公国は中立だから関係無いし、その中でも隔離されている自分にはもっと関係無い。
ロクに情報を仕入れられない彼女の想像力では、せいぜい「公国民は不可侵の約束が破られないか不安だろう」と考えるのが関の山だった。
が、数日後、ローズは思わぬ形で戦争の影響を受けることになる。
* * *
「こんにちは、■■■さん」
「カダ! 全然来ないから心配したよ。何かあったの?」
いつものように……とは少し違い、十日近く空けて姿を見せた友人にローズは駆け寄った。
「いえいえ! ちょっと仕事が忙しくて。ほら、交易が回復した分、やることも増えたんですよ」
「そう、ならいいけど……」
言葉では引き下がるも、彼女は疑念を持つ。
今までカダは、3日に1度はローズに会いに来ていた。
この13年間ずっと、である。
そんな彼がこうも長く来なかったとなると、何かあったに違いないだろう。
いや、そもそも理屈より感覚で、ローズはカダが隠し事をしていると察していた。
けれども彼女はその「何か」までは思いつかない。
カダが帰った後、頭を悩ませた末にローズは考えた。
――北の森に行ってみようか。
エトラル公国にはもう1人、魔女がいる。
『青の魔女』と称される人物だ。
魂に触れることができるその魔女は、使い魔と共に北の森に住んでいる。
ローズも1度だけ会ったことがある――数年前にあちらから押しかけて来た――ものの、小難しいことばかり言うので正直苦手だった。
だがローズとまともに会話をしてくれる人間など、カダの他には彼女だけだ。
カダのことを相談するなら、彼女しかいなかった。
もしかしたら杞憂かもしれないし、取るに足らないことかもしれない。
それでもローズは友人のため、己の直感に従って『青の魔女』に相談することに決めたのだ。
国の端を通って行けば、ほとんど人里を避けて北の森まで行ける。
かつて『青の魔女』が教えた情報を頼りに、ローズは家を出た。
見つかったらまた有角族に殴られるかもしれないという恐怖が、波のように押し寄せる。
それがどうした、カダのためならそれくらい。
彼女は己を奮い立たせて夜道を黙々と歩き、とうとう北の森に辿り着いた。
しかし。
「……え?」
ローズが目にしたのは――屋敷の前で磔にされ、血を流して項垂れる『青の魔女』の姿だった。
「え、な、なんで……」
「誰だ!」
混乱する彼女の背後から、男の野太い声が飛んでくる。
沢山の足音、人の気配。
ローズは一目散に駆け出した。
ここにいたら殺される。
本能が生命の危機を感じ取っていた。
家に帰ろう。
家で大人しくしていれば、大丈夫。
繰り返し繰り返し自分にそう言い聞かせ、ローズはなんとか東の森に戻る。
だが彼女を待っていたのは、轟々と燃え盛る自分の家だった。
「あ……ああ……!」
ローズはその場に立ち尽くす。
人々がそれを知っていたかはわからない。
茨を使うことから弱点があると推測したのかもしれないし、ただ単に家を焼いてやろうという魂胆だったのかもしれない。
いずれにせよ、ローズは弱点である炎の前には為す術が無かった。
「カダ……カダ……!」
彼女は踵を返し、森の中を走り出す。
友人の名を何度も呼びながら、息を切らして。
磔にされた『青の魔女』、そして燃える自分の家。
そこから人々の悪意を感じ取れぬほど、ローズは鈍感ではなかった。
彼女は走る。
吐きそうなほどの恐怖に襲われ、友人の姿を一目見たいと、ただそれだけの望みに縋っていた。
けれども現実はいとも容易く、純粋な望みを歪めて叶える。
「カ、ダ……」
枯れた声でローズは呟く。
辿り着いた街の外れで、カダは血塗れになって倒れていた。
数歩分の距離を空けた位置からでもわかる、傷だらけの体。
鉄の匂い、何かが焦げた匂い。
カダはぴくりとも動かなかった。
「いたぞ、『赤の魔女』だ!」
呆然とするローズを見つけ、街の人々がぞろぞろとやって来る。
各々の手には松明や農具、刃物が握られていた。
それらが一斉に振りかざされる。
「よくも戦争なんか起こしやがったな!」
「人を操るのは楽しかったかよ! え!?」
「外から物が入って来ないせいで、ウチは危うく一家全員飢え死にするところだったんだぞ!」
「あたしの旦那は右手だけになって帰って来たわ! ここに帰って来られなくて、外で戦闘に巻き込まれたのよ!」
「魔女め! 人間ですらない卑しいゴミめ!」
「人間未満の分際で、平然と生きてるんじゃねえ!」
罵倒、罵倒、罵倒。
身に覚えのない罪。
知らない出来事。
意味のわからない言葉。
それらは暴力と共に、柔らかいローズの心と体めがけて降り注ぐ。
じくじくと広がる痛みは、ゆっくりと彼女に現実を理解させていった。
現実。
戦争は、想像以上に公国民の生活を脅かしていた。
人々は、戦争を誘発させたのが魔女だと思っている。
だからこいつらは、『青の魔女』を殺した。
こいつらは、カダを傷付けた。
最後の現実を呑み込んだ瞬間、恐怖の殻を破り、怒りが芽を出す。
――ほんの数十秒の時を経て、辺りは地獄絵図と化した。
「なんで、カダにひどいことしたの」
ローズはカダと自分を痛めつけた者たちの死体を一瞥し、残る1人に尋ねる。
老若男女の血肉が混ざり合った、異様な臭いが立ち込めていた。
「ひっ……だ、だって、そいつはお、お前と」
「やっぱりいい」
怯えきった声を遮り、ローズは茨で男の首を刎ねる。
角の生えた男の頭部がごろりと転がった。
恐怖という障害が無くなってしまえば、有角族を殺すことさえ簡単だった。
泥が沈殿するがごとく、ゆっくりとローズの心が静まって行く。
怒りは少しも消えてはいない。
ただ、彼女は冷静さを取り戻しつつあった。
「あ……」
か細い声がローズの耳に届く。
「! カダ……!」
彼女は弾かれるように、彼の元へと駆け寄った。
「■■■、さ……」
「そうだよ、私! ■■■だよ!」
「こ……は……危な……から、逃げ……」
瀕死の重傷を負ってなお、カダは友人の身を案ずる。
ローズは泣きそうになりながら、必死で彼に呼びかけた。
「大丈夫、いま助けるからね! 魔法で傷を……」
言って、彼女は回復魔法をかけるが、やがて違和感に気付く。
「あ、れ」
カダの顔色が一向に良くならない。
傷は塞がり、火傷も治ったのに、彼の呼吸は浅いまま。
それどころかどんどん弱々しくなっていく。
彼は既に血を流し過ぎていたのだと、ローズは遅れて理解した。
いくら回復魔法をかけたとしても、失った血は戻らない。
カダはもう、手遅れだった。
「…………」
否。
ひとつだけ、彼の命を救う方法はあった。
『青の魔女』が教えたそれを、ローズはまだ覚えていた。
彼女は自責と自己嫌悪に震える手で、そっとカダに触れる。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」
何度も謝りながら、彼女は魔法を使った。
カダの耳には何も聞こえていないようだった。
淡い光がローズからカダへと流れ込む。
しばしの沈黙を経て、カダはパチリと目を開けた。
ひょこっと上体を起こし、きょろきょろと周囲を見回して、ローズに言う。
「初めまして、あなたが俺の御主人ですね!」
屈託のない笑顔だった。
ローズは鉛を呑んだような心地がした。
「良かったら名前とか付けてくれませんか? 俺まだ名無しなので!」
少女はうつむく。
同時に、自分はもう少女ではいられないのだという、妙にはっきりとした自覚を得た。
「御主人?」
「なんでもない」
ローズは顔を上げた。
「あなた……いや、お前の名前は『カダ』だ」
立ち上がり、魔女は冷たい表情を作って言い放つ。
「私は『赤の魔女』ローズ。これからお前は私の言うことに従って生きるんだ。いいな」
カダは疑問ひとつ無い様子で、すぐさま頷いた。
「勿論! 俺はあなたの使い魔ですからね、ローズ様!」