55話 決起の時
「カダ」
穏やかな朝だ。
城の最上階に位置する部屋、その窓から見えるのは澄み渡る空。
喧騒とは無縁の室内に響くのは、優しげな声のみである。
「カダ、カダよ」
天蓋の付いた豪奢なベッドに歩み寄るは、城の主ローズ。
彼女はベッドで眠る者の名を、繰り返し、しかし急かすふうでもなく呼ぶ。
「あ……おはよう、ローズ様」
じきに、声が耳に届いたのか眠っていた青年が目を覚ました。
彼は寝起きの緩んだ顔で、己が主に笑いかける。
「お前に話がある」
ローズはそんな彼の頭をひと撫でしてから、少し声の温度を下げた。
「お前は先日、塔から脱走していたクオウを連れ戻してきたな」
「うん! 頑張って見つけた」
無邪気に答えるカダに、ローズはかぶりを振る。
真っ赤な髪が緩慢に揺れた。
「ああカダ、お前の働きは見事だった。おかげで心配事がひとつ減った。だがな、ひとつだけ頂けない点がある」
わかるか、と彼女は続ける。
「それは私の許可無く動いたことだ」
カダは「あっ」と声を上げ、口元をおさえた。
自分が良くないことをしたと、たった今気付いたようだった。
「カダ、お前が私にとってどれほど大事な存在か、知らないわけではないだろう」
ほんの僅かに怒りを滲ませながらローズは言う。
もう一度、頭を撫でると、カダは素直に頷いた。
「うん。ローズ様、いつも言ってるから。俺馬鹿だけど、それはちゃんと覚えてるよ」
「ならば私の言うことには従え。私の命無しに勝手なことをするな。無論、部屋から出ることも許さない」
上乗せするように、ローズはもう少しだけ語気を強める。
天秤に物を乗せるがごとく、慎重に。
「ごめんなさい……」
カダはすっかり反省した様子で項垂れる。
ローズの髪と同じ色をした、長い横髪がするりと肩を滑り落ちた。
「理解したなら良い。それに、先の行動は私を想ってのことだったのだろう?」
「! うん、そうだよ」
「ふふ……であればこれ以上の説教はよしておこう」
こくこくと頷くカダに機嫌をよくしたのか、ローズは微笑み、声色を戻す。
「さあ、じきに朝食の時間だ。着替えて席についておけ」
「わかった! ねえローズ様、今日のメニューは何かな?」
「さあな。来てからのお楽しみだ」
2人はさながら睦まじい親子のように、あるいは姉弟のように触れ合う。
少なくとも、ひとつの公国を苦しめる暴君と、謎に包まれたその「お気に入り」にはとても見えない。
極めて穏やかで、平和で、暖かな空間。
しかしそこへ、突如として慌ただしい足音が飛び込んで来た。
「魔女様! いらっしゃいますか!」
女性の声と共に、部屋の扉がドンドンと叩かれる。
ローズは顔をしかめ、カダに「少し待っていろ」とだけ告げて入り口に向かい、扉を開けた。
そこに居たのは中年のメイドで、何やら息を切らしている。
が、ローズが彼女を気遣うはずもなく、ただ冷ややかな視線のみを浴びせた。
「なんだ、朝から騒々しい」
「大変です! 召使いたちが職務を放棄し、一斉に城外へ出て行っています!」
メイドの方もローズの態度に気を配る余裕がないらしく、謝罪の言葉も仕草も無しに、そうまくし立てる。
「何者かが先導しているみたいで、次から次へと!」
「そうか」
召使い、すなわちローズ、カダ、クオウ以外の全員が脱走を図っているという異常事態を耳にしたにも関わらず、ローズは至極冷静に相槌を打った。
「……思ったより早かったな」
ややうつむき、傷ひとつ無い指先で自らの唇をすり、と触って彼女は呟く。
そうしてその言葉のメイドが尋ねるより早く、顔を上げた。
「残っている者、残ろうとしている者はどのくらいだ」
「私の見た限りでは、全くいません」
「そうか。では私の手駒は貴様だけというわけだな」
ローズは踵を返し、ひとまず部屋の中に戻ろうとする。
と、その背中に向かってメイドが口を開いた。
「いえ……違いますよ」
先ほどまでとは打って変わって、底冷えするほど冷淡な声。
豹変とも言える変化にローズが違和感を抱くと同時に、メイドは懐からナイフを取り出した。
「死ね! おぞましい魔女め!」
ナイフが光を反射してギラリと輝く。
刃は迷わずローズの背中へと向かった。
しかし。
「……愚かな」
凶刃が彼女に届く前に足元から無数の茨が生え、生き物のように蠢いたかと思うと、槍のごとくメイドの体を貫いた。
瞬く間に串刺しとなってしまったメイドの手から、ナイフが滑り落ちる。
流れ出た血は残らず茨に染み込み、床を汚すことすらしなかった。
「ローズ様、どうしたの? なんか外も騒がしいけど」
着替えの途中なのか、姿は現さないままカダが部屋の奥から声をかける。
ローズは息絶えたメイドを忌々しげに睨み付け、舌打ちをした。
茨を使って哀れな彼女を通路に放り出し、何事もなかったかのように扉を閉める。
「いいかカダ。私の言うことをよくよく聞け」
そうして今度こそ部屋の中に戻り、落ち着いた声でカダに命を下すのであった。
* * *
さてローズが異常を察知した時分、城の召使いたちは既にそのほとんどが城外へと出ていた。
彼女らは群れを成し、前の者に続いて、通りを駆けて行く。
先頭にいるのは茶髪のメイド、カアラ。
その隣には、ライルと彼に抱えられるモンシュの姿もあった。
100人近い召使いの集団にいったい何事かと民衆たちが注目する中、脇道から1人の青年がカアラに駆け寄る。
「とりあえず第一段階は上手くいったみたいだな」
「フゲンさん。ええ、ライルさんとモンシュさんのおかげで」
一瞬、誰かと警戒しかけたカアラだったが、相手がフゲンだとわかると表情を緩める。
「夜通し会話を続けてくださったおかげで、件のメイドたちの判断力は低下、決起の誘いにすぐさま応じてくれました。あとは予定通り、芋づる式です」
言いながら、カアラはライルたちの方を見た。
ライルはぴんぴんしているが、モンシュの方はさすがに徹夜が堪えたようで、彼の腕の中で眠っている。
「なあカアラ、モンシュはもう少し寝かしといていいよな?」
「もちろんです。モンシュさんはもう十二分に働いてくれましたから」
ライルの問いに淀みなく答え、カアラは前に向き直った。
「さあ、ここからが本番です。フゲンさん、魔道具の準備は」
「バッチリだぜ。ほらよ」
フゲンはにやりと口角を上げ、カアラに水晶玉のような魔道具を渡す。
「カシャも配置についたし、グラスたちもじきに来る。始めちまっていいぜ」
「わかりました」
頷き、カアラは周囲を見回した。
「あそこにしましょう。フゲンさん、お願いします」
道に沿って並ぶ建物の中、ひときわ高いものを指して彼女は言う。
フゲンはそれを聞くや否や、カアラを小脇に抱えて跳び上がった。
人外じみた跳躍は彼の体を容易く屋根の辺りまで運ぶ。
すかさずフゲンは屋根のへりを掴み、さらに上へと体を押し上げた。
「よっと」
あっと言う間に屋根の上に登った彼は、カアラをその場に下ろす。
カアラは数秒遅れてライルもやって来たのを確認し、先ほど手渡された水晶に似た魔道具を握りしめた。
息を深く吸い、吐き、また吸い込む。
祈るように目を閉じ、決意と共に開いた。
屋根の上の彼女らを、召使いたちや民衆は皆一様に見上げている。
無数の視線が集まる中、カアラは口を開いた。
「公国民の皆々様! どうか耳を貸してください!」
凜としたその声が――文字通り、国中に響き渡る。