45話 赤の魔女
ライルたちはディーヴァに連れられて城内を見学し、その日は他に特筆すべきこともなく――本当に、ただの市民として働きに来たと錯覚しそうなほど真っ当に――終わった。
さて翌日、2人の「指導役」としてやって来たのは、やはりと言うべきかカアラだった。
フゲンたちの手引きは上手く行ったのだろう。
彼女は何食わぬ顔で、ごく自然に、業務を果たしに来ていた。
であればライルたちもそれに続くのみ、「奇遇ですね」くらいでつかず離れずを保ちつつ接することに。
「ではさっそく、仕事に向かいましょう。今日は城内の掃除をしてもらいます」
「わかった」
「はいっ」
カアラに連れられ、2人は宿舎を出る。
倉庫から掃除道具を取り出しつつ、向かった先は城の3階。
真っ直ぐな通路にいくつもの扉が並ぶフロアだった。
「ここは……収蔵部屋棟ですね」
「正解です。ちゃんと覚えてもらったみたいで良かった」
雑巾と箒を持ち、カアラは通路の突き当りまで歩いて行く。
「これらの部屋ひとつひとつに、魔女様の所有する貴重品や無機物系の物資が収納されています。それらの手入れおよび室内の掃除もメイドの仕事ですが、今回私たちが担当するのは通路の方です」
確かに、少なくとも付近の部屋からは、人の気配や物音がする。
3人より先に来たメイドたちが仕事をしているのだろう。
水の入ったバケツを持ったライルにこれを下ろすよう促し、カアラは続ける。
「私とモンシュさんで床を掃きますので、ライルさんは窓拭きをお願いします」
通路の南側、収蔵部屋の反対の面には四角い窓が等間隔に設置されていた。
これらを全て拭くとなると相当骨が折れそうだが、到底できないというほどではない。
ライルは腕まくりをしながら、カアラに尋ねる。
「水の汲み替えはさっきの倉庫横まで行けばいいのか?」
「はい。少し手間ですが……」
「いや、これくらい平気だ。任せてくれ」
力を売りにした手前、これは却って好都合だと、彼は内心意気込んだ。
モンシュも隣で箒を持ち、やる気に満ちた顔をしている。
カアラはそんな2人の様子を見、少し安心したように眉を下げ、「さあ、始めましょう」と号令をかけた。
――と、その時。
「もう嫌!」
悲痛な叫び声と、何かが割れる音が同時に響き渡った。
出所は通路の中ほどにある扉の、おそらく向こう。
ライルたちは考えるより早く、掃除道具を置いて駆け出す。
音のした部屋の目前まで来ると、扉が勢いよく開いて若い少女のメイドが1人、通路に飛び出した。
次いで、年長のメイドが彼女を追いかけて出て来る。
「落ち着いて! 大丈夫、大丈夫よ!」
「何が大丈夫なの!?」
何やら興奮した様子の少女を宥めようと、女性が彼女の肩を掴んだ。
が、少女は少しも聞かず、長い黒髪を振り乱して逃れようと抵抗する。
明らかに尋常でない取り乱し方に、ライルたちさえも思わずたじろいだ。
遅れて彼女らと共に作業をしていたであろうメイドが3人、おそるおそるといった風に少女のところへ集まる。
だがライルたちと同じく、どうしたら良いかわかりかねて右往左往するのみだ。
騒ぎを聞きつけて他の部屋からも徐々にメイドたちが様子を見に来るが、少女はそんなことなどお構いなしに叫び散らす。
「給料は出ない、食事も最低限、休暇も娯楽も無い! 毎日毎日、魔女のために働いて魔女に搾取されて、これっぽっちも良いことなんて無いのに! あああ、こんな生活、今に気が狂うわ!」
「やめなさい!」
痺れを切らした女性が厳しい口調で諫めるも、少女は止まらない。
野次馬のメイドたちのざわつきさえ、これっぽっちも耳に入っていないようだった。
「そう言うあなたはどうなの!? 生まれてから一度でも、お腹いっぱいご飯を食べたことはある? 自分のためにおしゃれをしたことはある? 魔女に怯えず過ごした日はある? 生きてて楽しいって思ったことはある? 無いでしょう!?」
日頃の鬱憤が、何かのきっかけで爆発してしまったのであろう。
少女はローズ公国民であればまず口にすることの無い、魔女への不満を吐き出し続ける。
「魔女なんて最低よ! 森の魔女もね! 魔女法を良いことに、民に貢がせるだけ貢がせて自分は少しも働かない。まだ政治ごっこをしてるあの魔女の方がマシだわ!」
「あの魔女、とは?」
しん、と。
少女の言葉が途切れた瞬間、どこからともなく聞こえて来た声に辺りは静まり返った。
「あ、あっ……」
それまで何も言われても黙らなかった少女が、一転して言葉を詰まらせる。
唇をわなわなと震わせ、声のした方に視線を向けた。
集まっていたメイドたちは慌てて通路の脇に寄り、頭を垂れる。
一体何事かと、声の主がいるであろう方向を見るライルとモンシュだったが、「整列、頭を下げて!」とカアラに言われひとまずその通りにした。
「魔女、さま」
少女の恐怖に満ちた声が聞える。
ライルは思わず耳を疑った。
魔女様。
ということは。
「全員、面を上げろ」
その声に、場のメイドたちは一斉に顔を上げる。
冷徹に発せられた言葉が、許可ではなく命令であることを知っていたからだ。
やや遅れてライルとモンシュも姿勢を戻す。
目の前には、顔面蒼白で立ちすくむ少女と――黒いドレスに身を包んだ、真っ赤な髪の美女が居た。
恐ろしくさえある美貌から発せられる威圧感。
長身が故、だけではない、絶対的に相手を見下す視線。
ライルは瞬時に理解する。
この女性が、『赤の魔女』ローズだ。
「貴様……名を何と言ったか……」
ローズは手を口元にやり、考えるような仕草をする。
「わっ、わた、私は」
「黙れ。貴様に聞いているわけではない」
名乗ろうとした少女にぴしゃりと言い放ち、彼女はことさら冷たい視線を浴びせた。
「まあ良い。十把一絡げの下民の名など、覚えるに値しないからな。……ともあれ貴様の声、よくよく聞こえて来たぞ」
一歩また一歩と少女に歩み寄る魔女。
悪意、あるいは敵意を隠そうともせず、少女をいたぶるがごとく言葉を紡ぐ。
「とても、耳障りだった。せっかくの穏やかな午前が台無しだ。わかるか? 貴様の金切り声と無価値な言葉により、私は気分を害されたのだ」
あと一歩の間隔を空けて、ローズは立ち止まった。
少女はひゅっと息を呑む。
あれだけの暴言を直接聞かれたのだ。
どうあがいても言い逃れは不可能、厳罰は免れない。
ガタガタと震えて怯える少女に、何を思ったか魔女は微笑みかけた。
「だが、そうだな。実を言うと私は今日、非常に機嫌が良い。気に掛けていた庭の花が見事に咲いたのと……今朝の食事が実に美味であったからな」
加えて、ほんの少しだけ声を明るくして言う。
これはもしや……と少女の瞳に希望が灯った。
が。
「故に、貴様の愚かな不敬の罪、特例として許すとしよう――鞭打ち100回でな」
少女の顔がサッと青ざめる。
わかりやすい表情の変化に、ローズは愉快そうに笑った。
魔女が少女の反応を楽しむためにわざと束の間の希望を与えたのだと、誰もが察する。
けれどもそれを咎めるなどできるはずもなく、メイドたちはただただ沈黙を保つだけだ。
「業務に支障が出るのは良くない。この場はひとまず仕事を続け、今日の夕食を終えたのち、地下牢の入り口まで来るように」
ローズは踵を返し、用は済んだとばかりに少女に背を向ける。
と、そこで緑髪のメイド、すなわちライルが彼女の視界に入った。
通常ならば一瞥もせず通り過ぎるのみだが、しかしローズは彼に目を奪われる。
それもそのはず、ライルは恐れも媚びもしない真っ直ぐな視線を、あろうことか怒りを込めて彼女に向けていたのだ。