42話 偽装
ローズ公国城、北の塔最上階。
さんさんと陽の光が差し込む室内で、1人の女性が窓辺に座って本を読んでいた。
手入れされた長い髪と汚れひとつ無い洋服、彼女は上等な身なりをしている。
が、それを見る者はいない。
部屋は静かだ。
塔の中の音はおろか、外の音もほとんど聞こえてこない。
壁に沿って置かれた本棚とそこに並ぶ数々の書物が、空間の静謐に拍車をかけている。
女性はしおりを挟んで本を閉じ、そっと息を吐いた。
窓の外を見やり、枠によって切り取られた世界に思いを馳せる。
――彼女は知っていた。
世の中のことを。
国主たる魔女の圧制を。
新たな旅人の来訪を。
けれど、それらを直接目にしたことは無かった。
時おり魔女が与える書物から。
魔女本人の口から。
城内で働く者たちの噂から。
ただ間接的に知るだけであった。
また彼女は、己の立場をも理解していた。
気まぐれな魔女の道楽あるいは暇つぶしとして飼われている、無力な魔人族。
魔女でもそのお気に入りでもないのにローズ公国で不自由ない生活を送っている、ただ1人の人間。
お前は何もするなと言われた。
お前には何もできないとも言われた。
そして自らも、それを事実だと思っている。
しかし。
「これで、良いのかしら」
彼女は呟く。
他の誰でもない、自分自身に向かって。
「本当に……このままで……」
人知れず、孤独な塔にて彼女の心は揺れ動く。
何不自由ない不自由の檻から、不自由な自由の世界を見つめる。
やがて女性は立ち上がった。
本を棚に戻し、代わって無地の紙とペン、黒いインク瓶を机に置く。
椅子にまた座り直した彼女は、一心不乱にペンを走らせ始めた。
記されるは長く難解な文字列。
描かれるは円を用いた図形。
「このままで良いのか」。
問いの答えを、彼女は未だ出せない。
それでも彼女は確かに進みつつある。
手探りながら確かな自己を形成しつつある。
彼女には自信が無いし、予感も無い。
だが暗闇の中でもがく者の手は時に、天命に綻びをもたらす。
新生の時は、近い。
* * *
所変わり城の門前、小さいながらもしっかりとした小屋の中にて。
「それで、えーっと……」
小屋、言い換えると「入城審査所」の主たる中年の男性は、目の前の人物に困り果て言葉を詰まらせていた。
「ライルです」
「モンシュです」
長机越しに男性と対峙するのは、ライルとモンシュ。
ついさっきフゲンら3人と別れた彼らは、いよいよ城で働くために行動を始めた――すなわち、まずは城に入るために審査所を訪れていた。
「あ、うん名前はもう聞いたからいいよ。大丈夫。そうじゃなくてね」
苦笑いを浮かべる男性に、ライルとモンシュは声を張って堂々と言う。
「やる気あります!」
「き、気合い入ってます!」
「そうでもなくてねー」
ペンを持ったままの手で額をかき、男性は溜め息を吐いた。
「あのー、男だよね?」
「僕は女の子です」
「いや違う違う、君はいいんだよ。女の子だってわかるから。じゃなくてそっち。緑髪の」
モンシュが男だとは露ほども思っていない男性は、ライルの方にのみ疑いの目を向ける。
が、ライルはすました顔で首を傾げた。
「俺も女ですけど」
「無理があるよね! どう見ても男だよね!」
とうとう男性はそれなりの大声を出す。
もうツッコまずにはいられなかった。
「あのねえ、まだ小さいこの子と一緒に働いてあげたいって気持ちはわかるよ? でもここの判断基準は『体の』性別なの。君が何て主張しようが関係無いんだよ。さっきも言ったけど、これは魔女様が決めたことだから仕方ないことなの。わかる?」
「体も女です」
「どこが!?」
体の線に顔つき、喉仏……は微妙なラインだが、あとは声。
どこをとってもライルが持つのは男性のそれだ。
「まったく……なら脱いで見せてみなさい。できるもんならね!」
無茶な主張をして譲らないライルに、男性は痺れを切らしたように言う。
物言いとしては下品だが、彼を追い払うにはもはや手段を選んではいられなかった。
ところが、これで諦めてくれるだろうという男性の期待とは裏腹に、ライルはあっさりと頷く。
「わかった。じゃ、ちょっと来てくれ」
「え」
そしてあろうことか机を軽く跳び越え、男性の手を引いて奥の方――先ほどの位置からは見えない死角――へと移動した。
ややあって、残されたモンシュの元に物音が聞こえ始める。
「ちょ、ちょっと本気……いや本当に脱がなくてい……え……えっ、あ……」
ベルトを外しているであろう軽い金属音、衣擦れの音、そしてあからさまに困惑する男性の声。
「…………無い……」
その言葉を最後に男性の声は途絶え、またいくらか物音がした後、彼とライルは長机のところに戻って来た。
「……2人共、入城を許可します」
平然としているライルに反し、男性は罪悪感からか汗を滲ませ浮かない顔で言う。
「申し訳ない……本当に……」
「気にしないでくれ。お前は業務を遂行しただけだ」
呻くように謝罪をする彼に、ライルはにこやかな笑顔を向けた。
言葉通り何も気にしていないような、というか実際気にする必要が無い彼の様子を見、男性は少しだけ調子を取り戻す。
慣れた様子で手元の書類に云々と書き込み、その一部を鋏で切り取ってライルに手渡した。
「じゃあ……はい、これを門番に見せれば城に入れるからね。あとは案内に従えば大丈夫」
どうやらこの紙切れが通行証になるようだ。
男性は眉を下げ、笑む。
「雇ってもらえるかは君たち次第。健闘を祈るよ」
「ありがとう」
「ありがとうございました」
彼に頭を下げ、ライルとモンシュは小屋を後にした。
これで城に入る手段は確保。
2人はほんの先に見える城門へ、早々に歩き出す。
「よかったですね、ライルさん」
少し行ったところでモンシュが言った。
例によって表現をぼかしているが、ライルには当然、彼が指していることが理解できる。
「ああ、どうなることかと思った」
苦笑し、彼は自分の服に視線を落とした。
目に映るのはこの国に来た時と同じ、いつもの服装。
……そう、ライルは女装をするのをすっかり忘れていたのである。
当初の予定ではどこかで適当にスカートでも買って、「ちょっと体格の良い女」で通すはずだった。
しかし諸々の話を聞いている間にその予定が頭から抜け落ち、結果、「見るからに男」の状態で小屋にまで来てしまったというわけだ。
「市民登録の時に性別も記してもらえれば早かったのにな」
「性別を登録されなくてよかった」の意味を込めてライルは言う。
もちろんモンシュは意図を汲み取り、ごく自然に頷いた。
「そうですね。お姉ちゃんは男っぽいですから」
「お前はこんなにも可愛いのにな。ま、血が繋がってないんだから仕方ないさ」
「もう、その話はしない約束ですよ。あの事故以来、僕たちはずっと一緒に育って来たんです。今さら血なんて関係ありません」
「はは、悪い悪い。そうだな、この10年は血よりも重い。お前は俺の大事な妹だ」
雑談に見せかけて、2人は設定を決めていく。
別に旅仲間ということにしても良いが、家族の体でいた方が行動を共にしやすいし、汚い手ではあるものの同情を引きやすい。
城は目前、これより先は敵の膝元。
さながら戦場に赴く兵士のごとく、ライルとモンシュは歩みを進めるのであった。