212話 誰も居ない
「まともに飯を食えなくなって何年か……お前さんの言う通り、そろそろ限界が見えてきた頃だったな。気の狂った男が俺のところに来たんだ。当時はまだ青年だな。有角族の青年さ」
話しながら、ファストは足を進める。
執行団員の男が来たと思しき方向には、半開きになっている扉があった。
それはライルたちが彷徨っていたこのしばらくの間に、一度も見なかったものだった。
この扉こそが、在ると見当を付けていた「隠し通路」に違いない。
ライルは倒れ伏した執行団員の傍らにそっとパンを置くと、ファストに続いて扉の向こうへと足を踏み入れた。
「ガキの頃の俺に救われたとか何とか言って、あいつは俺に詰め寄った。『なんでもする』ってな。俺は鬱陶しかったから、その角を売ってこいと返してやった」
「有角族の角を……」
扉の先は、今までの場所とさして変わらないように見える薄暗い通路だった。
ライルは人の気配には気を付けつつ、耳はファストの話に傾ける。
有角族にとって、角がいかに重要なものであるか、ライルは既に知っていた。
自分が自分である証。
己が力の象徴。
種族としての誇り。
有角族が自身の意志で切り落とすなど、通常であれば有り得ないものだ。
それこそ、「有り得ない」経緯で切られた角は、違法で非道徳的な競りにて超高値で取り引きされるほどに。
であるからして、ファストはその青年を本気で追い払うつもりだったのだろう、とライルは推し量る。
だがファストは、「そしたらどうなったと思う?」と言葉を挟み、目を細めて笑った。
「あいつは本当に角を闇業者に売って、代金を俺に渡してきたんだ。あんなに狂った人間を、俺は見たことが無かった」
おかしくて堪らない……あるいは、嬉しくて堪らないと言わんばかりに、彼は肩を揺らす。
「しかもあいつはそのまま、俺の傍に居付いた。俺が物をロクに食べないと知るや、要らないと言っても何度も飯を作って差し出してきた。俺は半年くらい抵抗し続けたが……まあ何だ、あいつは正真正銘の狂人だからな。小細工なんてするわけない。小賢しく企み事をする常人より、却って安心できるとも言える」
恐らく、ファストはその有角族の青年を救った覚えが無いのだろう。
悪意から知らないふりをしているのではなく、本当に。
なぜならライルは「夢」という形で彼の幼少期を含む記憶を見たが、その中には今の話に該当するような出来事は無かったからだ。
かと言って、ファストの善行が青年の思い込みとも断定し難い。
記憶はあくまで記憶であり、必ずしも事実と完璧には合致しないからだ。
「諦めと引き換えに、俺は以前よりかはまともに栄養を摂取できるようになった。これが答えだ。俺は狂った奴に飯を与えられて、生きながらえている。……真相を知れて満足したか?」
やがて現れた曲がり角の手前で足を止め、ファストは振り返る。
彼の口角はいつものように、意地悪く吊り上がっていた。
「……たぶんだけど」
ライルは少し悩み、言う。
「それは狂気じゃなくて、愛じゃないか?」
それは率直な疑問だった。
今まで生きてきて、幾つもの出来事を経験してきた中で得た思考力により、導き出された推測だ。
が、当然、ファストは顔をしかめた。
「同じだろ」
「俺は違うと思う」
ライルは全否定をすることなく、しかしきっぱりと意見を述べる。
もしかしたらファストも内心ではわかっているかもしれないけれど、と思いながら。
「……とりあえず。無事にここを出たら、ちゃんと飯食えよ」
「有り難いご心配をどうも」
ファストは前方に向き直る。
すると直後、ズズン……と鈍い地響きがして、彼らの居る空間が揺さぶられた。
「うわっ!」
「ッ……!」
ライルはよろめき、ファストは踏ん張り切れず壁に体をぶつける。
小さな呻き声は、地響きの余韻にかき消された。
一拍遅れて、ぱらぱらと天井から建築材の欠片が降ってくる。
どうやら音と振動の発生源は、上の方にあるらしい。
ライルとファストはほぼ同時に頭上を見た。
「フゲンたちだ」
パッと、ライルの口元が綻ぶ。
次いでドン、ゴゴ……と断続的に響いてくる破壊音は、物騒ながら彼にはとても安心できるものに聞こえた。
「そう言えばお前、ヨクヨたちはどうしたんだ? 別の場所に捕まってるのか?」
「さあな。全員勝手に逃げてるだろ」
ファストは肩をすくめる。
単純な、ただそれだけの身振りだがその実、大袈裟で、芝居がかってすらいた。
「心にも無いこと言うなよ」
敢えて咎めるような口調で、ライルは言う。
「自分の気持ちを悪意で誤魔化すの、良くないぞ」
「さすが、自分の正体を誤魔化している奴の言うことは違うな」
寄せて返す波にも似て易々と、ファストはライルに嫌味を投げかける。
ライルはぐっと押し黙った。
「そこ」に言及されては、反論の余地も何も無いからだ。
「ふん」
ファストは興覚めとでも言いたげにライルを一瞥し、再び通路を進み始めた。
彼の後に、半歩遅れてライルも続く。
足を動かしながら、ライルはふと自分の手のひらを見てみた。
見た目だけは人間のそれと変わらない、異物がそこにはあった。
「……居ないな」
2人は突き当たった曲がり角から顔を出し、周辺を警戒する。
視界の内には、人っ子ひとり見当たらない。
そればかりか誰かが活動をした痕跡すら残っていなかった。
「みんな上の方に集まってるのかもな。脱走には絶好の機会だ」
ライルは拳を握りしめる。
使命や義務や目的とは別の場所で、早く仲間に会いたいという気持ちが、心の中でざわついていた。
***
所変わり、教会の内部。
執行団員に扮したモンシュ、クオウ、シュリ、ティガルは、フゲンとヨクヨを追って、本物の執行団員と共に全力疾走していた。
「はあっ、はあっ!」
モンシュは息を切らして、今にももつれそうな足を必死に動かす。
幸いフゲンたちは、まだ見える範囲には居た。
「……不味いな」
シュリがぽつりと呟く。
まだ見える、とはいえ、フゲンたちとの距離は決して近いとは言えなかった。
「み、見失っちゃいそう……!」
クオウは自分とモンシュに緩く強化魔法をかけながら、へろへろの声を上げる。
そう、フゲンたちは徐々に、しかし確実に、遠ざかりつつあった。
「あいつら速すぎんだよ!」
ティガルが青筋を浮かべ、やぶれかぶれに叫ぶ。
モンシュたちとフゲンたちが完全に離れてしまいそうな原因、それは後者の2人が加減知らずであることだった。
ヘタに手を抜いて、フゲンたちがわざと追われていることが知られるよりかはマシだが、それにしても限度がある。
片や、天竜族、魔人族、人間族、海竜族。
片や、桁外れの身体能力を持つ人間族、戦闘経験を積んだ有角族。
力の差は歴然だ。
「でも、おかげで、上手く入り込めて、ます……!」
フゲンたちを庇うように、モンシュは息も絶え絶えに言う。
確かに今、彼らは皆予定通り、教会への自然な侵入には成功していた。
「おい、お前たち! 右の通路から回り込むんだ!」
と、本物の執行団員が指示を飛ばす。
どうやら馬鹿正直に追跡するのでは無理だと、懸命な判断を下したらしい。
「了解した」
シュリが返事をし、4人は頷き合う。
そして次の分かれ道を、サッと右へ曲がった。
これでまた、近くに居る執行団員の数が減ることになる。
理想的なのは、道案内のできる者を1人か2人連れて、上手く口車に乗せ行動を誘導する……という状態だ。
動きやすさで言えば無論、モンシュたち4人だけの方が良いのだが、この入り組んだ教会内を探索するには、勝手を知る者が欲しいところである。
ゆえに、本物の執行団員が0人にはならないよう、気を付けなくては――ならなかったのだが。
「……待て、おれたち以外誰も来てねえぞ!」
はたと背後を見たティガルがそう叫ぶまで、そう時間はかからなかった。




