210話 死人の顔
「何だその目は。鬱陶しいな」
ファストは不快感を隠そうともせず、顔をしかめる。
己に向けられる金色の瞳が、やたら眩しいとでも言わんばかりに。
「お前は俺の夢を見ただろ。俺はお前の夢を見た。……お前は優しかった」
ライルは先ほどまで見ていた出来事と、同化した感情を思い返す。
あの酷い裏切りに遭うまでの「彼」の心は、間違いなく善良そのものだった。
「それは死人だ。もう居ない」
昏い目付きで、ファストは言う。
その言葉通り、今の彼の纏う雰囲気の中には、かつての善良さはまるで見えなかった。
が、それでもライルはゆっくりと首を横に振る。
「居るさ。あの心はまだ、お前の一部だ」
夢の中で、ライルは途中から「彼」の心をほとんど感じられなくなった。
だが一方で、どこかでは微かに繋がっている感覚が、最後の最後まで残っていた。
もし、ライルが夢で同化したのが善良な心――あるいは人格――なのだとしたら、それは傷付き、限りなく存在を薄めながらも、完全に消えてはいないと解釈できる。
「優しい心を持たない人間が、誰かを思いやれるわけがない」
執行団二番隊の拠点での戦い。
あの時、ライルはフゲンと共に、ファストとヨクヨに立ち向かった。
……あの時、ファストは確かに、ヨクヨを信用し、また思いやりながら戦っていた。
ライルは既に、ファストとヨクヨの関係について確信に近いものを抱いている。
彼らは、互いを大切に思い合っているのだと。
「黙れ!」
ドン、とライルの背に衝撃が走る。
気付けば彼は、ファストの影魔法によって、喉元を掴まれ壁に叩きつけられていた。
「ファスト……」
ライルは目の前の人間を見る。
命を分けた甲斐あって、ファストは魔法を使えるくらいには回復しているようだった。
「残念だったな、善人さん。悪人に情けなんかかけるから、こうやって恩を仇で返されるんだ」
ファストはわざとらしいまでにあくどく笑む。
だがその表情には、焦り交じりの怒りが滲み出ていた。
直視されることを恐れるように、領域に侵入されることを拒むように。
殺意で以て、彼は抵抗していた。
対するライルは、自分の首を締め上げる影魔法を一瞥し、それからまたファストの方を見やって、静かに口を開いた。
「返せないよ」
淡々とした、ただ事実を述べるだけの声。
首を絞められているにもかかわらず、彼は普段通りに発話する。
「お前は、俺を殺せない」
ライルはじっと、ファストを見つめた。
憂いも恐れも無く、必要十分な言葉で、説得を試みる。
「……ちっ」
果たして、ファストは諦めたように魔法を解いた。
拘束から解放されたライルは、すとんと軽やかに着地する。
疲れた様子など少しも無かった。
「ああ、そうだな。お前さんはそういう存在だ。よくよくわかっているとも。直に見たからな」
ファストは嫌味ったらしく笑う。
笑うしかない、と顔に書いてあった。
しかし。
「……ところで、ひとつ聞きたいんだが」
言うが早いか、にわかにファストの笑みが消える。
嫌悪と疑心を露わにした視線と共に、彼は続けた。
「なんでそんなお前さんが、あいつの――ヨライの顔をしている?」
ライルは息を呑む。
ヨライ。
それは夢に出てきた、ファストのかつての友人。
彼が自らの手で殺した過去の一部だ。
なぜ彼と自分の顔が同じなのか。
ライルはその答えを自覚しているが、しかしだからこそ、安直に口にすることは憚られた。
「……夢では」
「見なかった。俺が見たのは、お前さんが眠るまでの出来事だけだ」
ファストは死人の肌のように冷たい視線を、じっとライルに向ける。
彼は過去と現在を線で結ぶべきなのか、ただ回答を要求していた。
ぐっと息を呑み込み、ライルは目を伏せる。
しかしこじ開けるがごとく瞼を持ち上げると、ファストの目を見て、答えた。
「無作為だ。多くの死者の中から、たまたま選ばれたのが、彼だった」
返答は無い。
赤い髪の青年は、なおも眼前の存在を見据える。
ライルは続けた。
「誰かを傷付けるつもりは無かった。けど、誰かを傷付ける可能性について考えていなかった」
「まさに、人でなしだな?」
ようやく表情を動かして、ファストが言う。
神経を逆撫でする気満々の口ぶりは、ライルの心をかき乱すためだけにそう在るようだった。
「…………」
だが煽ろうとするファストに反してライルは無言のままだった。
罪を認め処刑を待つ囚人にも似た様子で、悲しげに眉を下げる。
そんな彼に、ファストは面白くなさそうに首を傾けた。
「そこは『お前に言われたくない!』だろ」
「言い返されたいのか?」
「黙れ」
なんとも大きい溜め息が、牢の中に吐き出される。
ファストはすっかり、気を削がれてしまっていた。
「……お前さんと話すと、調子が崩れて仕方がない。動く迷路でも見ている気分だ」
「俺はお前のことを、もっとよく知りたいと思ってる。動く迷路みたいでも、ちゃんと理解したい」
「ご勝手にどうぞ」
ライルはあくまでも、どこまでも真摯に語り掛ける。
それはファストにとって、うんざりするほどの誠意であり善意だった。
「まずはここから出よう。それについては、異論無いだろ?」
ライルがそう言えば、ファストは肩をすくめる。
「決まりだな」
全ての無言が肯定とは限らないが、この場においては概ね肯定で良いだろう。
執行団員の気配が無いことを確かめ、ライルはひん曲げた檻を抜けて、通路へと出た。
「行こう、ファスト。そのうちフゲンたちも来るはずだ」
彼は周囲への警戒を続けつつ、ファストに手を差し伸べる。
が、ファストはそれをあえなく払いのけた。
***
「ライル! どこだー!!」
ドーン、とか、ゴゴ……とか、そういった破壊音が教会内に響き渡る。
名実ともに侵入者として教会に突入したフゲンは、手当たり次第に壁やら床やらを壊しながら、猪突猛進に相棒を探していた。
「聞こえたら返事しろー!」
叫び声と破壊音が重なり、ついでに追手であるところの執行団員たちの悲鳴や怒号も交ざってくる。
屋内という閉鎖空間にあって、場は既に混沌とし始めていた。
「思ったよりゴチャゴチャしてやがるな、この建物」
いくつ目かわからない壁を壊しつつ、フゲンは呟く。
実際、教会は外観よりもずっと複雑で、仕掛けだらけの構造をしていた。
通常の宗教施設ではなく、執行団が使用している建物であることを考えれば、ごく自然ですらあるが。
「おいヨクヨ! 間取りどうなってんのかわかるか?」
フゲンはくるりと横に顔を向ける。
彼の隣にはヨクヨが、終始無言で、特に積極的な破壊活動はせず、黙々と足を動かしていた。
「ごく一部しか」
ヨクヨは端的に答える。
表情はぴくりとも動かない。
「じゃ、やっぱしらみ潰し作戦しかねえか」
再び顔を前に戻し、フゲンはグッと拳を握りしめる。
「我流体術ッ、《ぶん殴る》!」
今度、哀れにも破壊されたのは1本の柱だった。
円柱形で丈夫そうなそれは、クッキーのように砕け、フゲンたちに道を開けた。
「……あまり柱は破壊するな。建物が崩落する可能性がある。そうなればファストに害が及ぶ」
「あ! 確かに」
フゲンはポンと手を叩く。
全くの盲点だったらしい。
「お前、頭いいな」
「…………」
「……今のフツーに褒めたんだけど、嫌だったか?」
「全く。どうでもいい」
少し考え、フゲンは続けて問う。
「ファスト以外だから?」
「そうだ」
その返答を聞くや、にんまりとフゲンは笑った。
「オレお前のこと、若干わかってきたぜ」
咳払いをひとつ。
彼は人差し指を立て、ヨクヨに言った。
「お前はオレに興味がねえ。だろ?」
「ああ」
「ははは! 正直だな!」
フゲンは愉快そうに肩を揺らす。
一方のヨクヨは、多くの人間が騒音に対してそうするように、少しだけ眉をひそめた。




