207話 殺した過去は悪夢のように
ライルは夢を見た。
しかし彼は夢を見ないので、それが特殊なものだということは自明だった。
夢の中で、ライルは少年だった。
視界は眩く光に溢れ、色彩は鮮やかに写る。
体は軽く、活発な力に満ちている。
少年の中には漠然とした希望があった。
「イッセン、すまないな……」
「父様と母様だけは、傍にいますからね」
気付けば、少年の肩に優しく触れる者たちがあった。
彼らは大きな屋敷の前で、ひとつずつ大きめの鞄を持ち、少年に寄り添っていた。
情景としては、突然現れた彼らだが、実際は違う。
ずっと前から、彼らは少年と一緒に居る。
ライルは少年と、視点と情感を共にしていた。
であるからして、彼らが少年の両親だということは、言葉にするまでもない実感として呑み込めていた。
「イッセン……」
両親とは別の声がして、少年は振り向く。
ライルの視点も、視界も、動く。
そこに立っていたのは、金髪の少年だった。
ライルは自分の姿が見えなかったが、彼が自分と同じ年であると理解する。
「父上と母上はダメと言うが、俺はいつまでもお前の友だちだ。お前が困ってたら、きっと助けるから……だから、俺を呼んでくれよ」
そう言って、金髪の彼は暗い影に覆われて消えた。
少年たちを阻むものがあったのだと、非現実的な「演出」から、ライルは知った。
「随分と狭い家になってしまった……。お前たちには、苦労をかけるな」
「良いのですよ。家族が揃っていれば、それだけでどんなお屋敷にも勝ります」
また景色が変わる。
少年の傍には再び両親が佇んでいた。
しかし目の前にあるのは、もう大きな屋敷ではなく、貧相なボロ家だった。
両親と少年は、ボロ家に入っていく。
外観に違わず家の中はひどく煤け、汚れていたが、少年の視界はいまだなお明るかった。
「さて、今日も行ってくるとしよう」
「お利口に待っていてくださいね、可愛いイッセン」
しばらく月日が流れた。
両親は少年を置いて、ボロ家を出て行く。
ライルはその目的を知っていた。
仕事を探しに行くのだ。
いつも通り、少年はボロ家で留守番をする。
玩具や本など、暇つぶしになるものはひとつも無い。
少年は自分の影を魔法で操り、勇ましい騎士の英雄譚を上映し始めた。
家庭教師から習ってきた魔法の中でも、影魔法はいっとう得意だった。
少年の影がうごめき、騎士が悪党たちと戦う。
令嬢が恋に落ち、市民は祝福する。
幸福に満ちた物語は、少年の心から生まれ、また少年の心を豊かにした。
騎士の舞台がひと段落した頃、少年はふと顔を上げる。
窓の外は暗かった。
夜が来ていた。
太陽と月が、ぐるぐると回る。
いくつもの日が過ぎていった。
少年の心に不安という影が差す。
心細さと空腹に耐え兼ね、少年は両親を探して外へ出た。
すぐに、雨が降って来た。
ライルの胸にも、押し潰されそうなくらいの寂しさと、泣きたくなるような恐怖が、じわじわと広がる。
少年は街をたくさん歩いたが、両親を見つけられはしなかった。
「よお、ガキ。こんなとこウロついてどうした」
頭の上から声がして、少年は顔を上げた。
視界に、若い男が映る。
少年は彼に、事の次第を語った。
不安で仕方がない中、話しかけてくれた男に安堵と感謝を覚えていた。
「そりゃあ大変だ。あー、そうだな、とりあえず俺んとこに来いよ」
若い男は手を差し伸べる。
少年はその白く小さな手で、彼の手を取った。
男が少年を連れていく。
薄暗く、湿っぽい路地の方へと。
「お前ら! 新入りだ!」
路地の奥、ひっそりと佇む小屋の中には、背の高い男たちが居た。
「あ? なんだそのチビ」
「使いモンになんのか?」
男たちは怪訝な顔をする。
しかし少年を案内した張本人は、あくまで笑顔で、少年に語り掛けた。
「いろいろ、話聞かせてくれよ。苦労してきたんだろ? 見りゃわかる」
ぽん、と少年の頭に手が置かれる。
あたたかい体温が、緩やかに伝わってきた。
ライルは自分の口が自然と動くのがわかった。
生まれ、育ち、家族、友、そして抗いようのなかった没落、離別。
切なる語りの場面は、一瞬のうちに終わった。
「よし。じゃ、好きなだけここに居ろ。親探すのも手伝ってやる。ただし、お前もここのルールには従えよ?」
かくして、少年は男たちに受け入れられた。
また日が巡り、時が経つ。
男たちは「表」ではなく「裏」で生きる者たちだった。
同時に、名前も付かないようなささやかな徒党でもあった。
矢のごとく過ぎていく日々の中で、少年は悪事を求められた。
それは生きるために仕方のない術であると教えられ、従うことにした少年だったが、どうも良心が邪魔をしていつも上手くいかなかった。
「ったく、またか? イッセンはドジだな」
いつの間にか、雪が降り始めていた。
窃盗に失敗し、男に助けられた少年は、肩を落として彼と共に住処へと帰る。
「こっち来い」
男に手を引かれれば、パッと景色が変わり、視点は屋外から小屋の中に。
少年はゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、ワッと歓声が上がった。
「誕生日おめでとう!」
焦点を合わせれば、少年の周りでは、男たちが彼を見守るように囲んでいた。
少年の心に得も言われぬ喜びが満ちる。
それを、ライルも感じる。
「なに突っ立ってんだよ。座れ座れ」
男によって、少年はテーブルに付かされる。
目の前には、生家を離れてからはずっと食べていなかったような、豊かな食事が並んでいた。
「ほら、遠慮なく食え。全部お前のために用意したんだぜ」
男たちは笑顔だ。
少年もまた、笑顔になった。
夢見心地で、少年は料理を食べる。
幸せが形を持って、腹の中に溜まっていく感覚があった。
やがてそれが、満タンになる頃。
少年はにわかに、めまいを覚えた。
突然訪れた小さなひずみは、一瞬にして座ってもいられないような激痛と吐き気に変わる。
たまらず、少年は床に転がり、のたうち回った。
ほどなく吐き気が限界に達し、胃の中が全てひっくり返るような嘔吐をした。
「イッセン?」
男たちが近寄ってくる。
少年は助けを求め、彼らを見た。
同時に、部屋の扉が開いて、1人の身なりの良い老人が入ってきた。
「あ、どーぞどーぞ! こっちです!」
男たちは頭をぺこぺこと下げ、老人を歓待する。
苦しみもだえる少年を放って。
「確かに、間違いないっすよね?」
やがて男が、少年を指差す。
老人は深く頷いた。
「ちゃんと貰った毒、全部入れましたんで! そのうち死にますよ!」
少年は愚かではなかったから、男の言う言葉の意味がわかった。
少年の視界が、にわかに色を失い始める。
「あざーっす!」
男たちは、老人からチャリチャリと音のする袋を受け取る。
そして改めて、少年を見下した。
「いや、俺らしんみりすんのは嫌いだからさ。役に立たねえお坊ちゃんへの憂さ晴らしも兼ねて、な!」
「手持ちの金なし、家の財産の在り処も知らない、ってわかった時はマジ絶望だったけど。根気よく飼ってて良かったわ!」
一言一句が、少年の心に刻まれた。
音のひと粒ひと粒が、少年の心を丁寧に引き裂いた。
そうして。
心が砕ける感触を、ライルは、知った。
視界から鮮やかな色が消える。
それと共に、体以外の痛みも薄れていく。
壊れたものの「代わり」が、全てを誤魔化すように、急速に組み上げられる。
まばたきをひとつ終えた後。
少年の視界はもう、灰一色に染まっていた。
魔法によって影がうごめき、男たちと老人は肉塊と化す。
少年は初めて、自分に人を殺す才能があったのだと知った。
「主のお導きを。愚かな不届き者に粛清を……」
ふと、厳かに狂った声が聞こえてくる。
少年が表に出れば、黒衣の人間がちょうど人を殺し終えたところだった。
終わりの無い空腹と吐き気を抱えながら、少年はその人間と同じ黒衣を纏うことにした。
その行動の理由を、ライルは感じ取ることができなかった。
夢の始まりから少年と一心同体となったライルだが、視界の色が変わってから、どうにも心の方が剥離していたのだ。
「あら、アナタ……ワタシと同類かしら?」
黒髪の女性が、少年に微笑みかけてくる。
否、少年は既に、青年だった。
「おめでとうございます。あなたは本日より、二番隊の隊長です」
女性の姿が消え、代わりに黒衣の人々が現れて青年を称賛する。
青年は笑顔だった。
ライルは青年が何を感じているのか、もう少しもわからなかった。
「授かられた聖名は――ああ、『ファスト』と。なんと美しい名でしょうか……」
黒衣の人々がかき消える。
視界が揺らぎ、どこかの屋敷の廊下が青年の前に広がる。
「ファスト様、粛清すべき不届き者を見つけました。富に毒された悪しき貴族です」
そんな声がして、青年は廊下を歩き始めた。
窓の外は暗い。
1歩1歩を踏み出すたびに、鉄臭い匂いが鼻をついた。
食欲の失せそうな匂いだが、青年は構わなかった。
吐き気を忘れて物を食べることなど、あの日以来、ただの1度もできていなかったから。
青年は光の漏れる部屋を見つける。
既に足元には給仕服の男が血を流して倒れており、それだけではなく、廊下は多くの死体で溢れかえっていた。
扉を開け、青年は部屋に踏み入る。
と、そこに居た人物と目が合った。
「イッセン……!?」
部屋には、金髪の青年が居た。
離別の時より成長し、立派な貴族の出で立ちをした――ライルと全く同じ顔だちの、青年が。
ライルは心臓が掴まれるような心地がした。
しかしそれは決して、青年の感情ではなかった。
目の前が数秒、真っ暗になる。
再び光を得た視界では、金髪の青年が黒い影に締め上げられ、血を流していた。
「やめよう、イッセン。今なら引き返せる」
苦しげな表情で、金髪の、ライルと同じ顔の青年は言う。
彼に死への怯えや、生への執着は無かった。
そうであると、ライルは見ただけでわかった。
「罪なら俺も一緒に背負う。罰だって、一緒に受ける。イッセン、俺は――」
影の剣が、金髪の青年の胸を貫く。
自分がやったのだという、物理的な感覚だけは、ライルにも伝わってきた。
金髪の青年は、取るに足らないゴミのように、床に叩きつけられる。
それでも、視線は、青年と交わっていた。
じきに消えるであろう命の灯。
灰色の視界にあって、金髪の青年の目は、いやに印象深く輝いていた。
金髪の青年の、血を失って青ざめた唇が動く。
彼は、悲しげに微笑んだ。
「大丈夫。俺は、お前の、友だちだ」