202話 立ち込める
薄曇りの空の下に、その教会は静かに佇んでいた。
白い壁、澄んだ窓、神を称えるシンボル。
荘厳な雰囲気を纏ったそれは、しかしこの島にあっては異質そのものだ。
ライルは美しい装飾の扉に手を触れる。
ぞっとするような冷たさが、彼の体温を少しばかり奪った。
「開けるぞ」
フゲンたちに目配せをし、彼は扉を押す。
扉はぎこちなさなど微塵も無く、至極なめらかに開いた。
雷霆冒険団は各々警戒態勢を取りつつ、教会の中へと侵入する。
ここは十中八九、敵が居る場所。
1歩でも入れば途端に戦闘開始、なんてことも有り得る。
――と、彼らは踏んでいたのだが。
「? 居ない……」
ライルは構えた槍を少し下げ、呟く。
教会の中には灯りが無く、光と言えば窓から差し込む日光だけだった。
そしてその僅かな光に照らされていたのは、規則正しく並んだ長椅子と、その先にある祭壇だけ。
執行団どころか、そもそも人の姿自体、全く見当たらない。
しんとした空気は、静謐そのものだ。
まさか勘違いだったのか。
何かの偶然で、執行団の者たちが島を不在にしていたり、あるいは他の場所へ既に移っていたりするのだろうか。
ライルがそんなことを考え始めた時だった。
「ッ伏せろ!」
不意に、フゲンが叫んだ。
ほとんど反射的に、ライルたちは身をかがめる。
直後、彼らの頭上を1本の矢が掠めていった。
7人は緩みかけていた警戒をただちに持ち直し、周囲を見回す。
するとその視線に応えるように、祭壇の幕の陰から、有角族の男が歩み出てきた。
「おや、惜しい」
彼はゆったりとした口調で言う。
その顔には温和な笑みが浮かべられていたが、彼の纏う黒衣には、執行団の印がはっきりと記されていた。
「聖弓術、《清らなる雨》」
男はその手に弓を持ち、あろうことか数本の矢をいっぺんに番えて放つ。
有角族の優れた肉体で以て射られた矢は、空気を切り裂き、ライルたちの方へと一直線に飛来する。
ライルは咄嗟に1歩前に出、矢を叩き落とすように槍を振るった。
ほとんどの矢はそのひと薙ぎで威力を失ったが、ただ1本だけ、槍の軌道をかいくぐってライルの肩へと突き刺さる。
「ぐッ……!」
「ライル!」
ぐらついた彼をフゲンが支え、同時にシュリが盾を構えて彼らを庇う。
執行団の男はその様子をじっくりと見つめると、微笑んだまま弓を下ろした。
「初めまして、不信心の愚か者諸君。私の名はジユズ。執行団一番隊の、副隊長と――」
言いながら、彼は片手を広げる。
それを合図とし、ライルたちの周囲を囲む暗がりが一斉に蠢いた。
「この聖地の防衛を、任されている」
ジユズは広げた手をゆっくりと戻し、胸に当て、恭しくお辞儀をする。
暗がりの蠢き、それは何十人という執行団員たちだった。
「こいつら、どこから……!?」
全く、気配を感じ取れなかった。
ライルは焦りと驚愕の中、教会中を素早く見回して状況を把握しようとする。
他の面々も背中を合わせ、せめて背後を取られないようにと構える。
執行団員たちは当然ながら完全に武装しており、ジユズの声ひとつで戦闘が始まるであろうことは、誰にも明らかだ。
「ふーん?」
緊迫した空気が流れるが、しかしただ1人、フゲンは好戦的に目をギラつかせる。
味方は馴染みの仲間6人、あとは全員敵。
単純明快な状況こそ、彼が好み、また真価を発揮できるところだ。
「上等だ、やってや――」
と、その時。
コツン、と軽い音を立て、何かがライルと、その横のフゲンの目の前に落下した。
「あ? 何だこれ」
フゲンは素直にも落下物に視線を向ける。
それは、ガラスでできた四角い容器だった。
床とぶつかった衝撃で、その容器にはヒビが入る。
瞬間、ライルはフゲンを力いっぱい後方へ押し返した。
「逃げろ! 一時撤退だ!」
彼が叫ぶと同時に、ガラス容器のヒビが一気に大きくなる。
そのヒビが容器全体を覆うより先に、ライルは槍を構えた。
「天命槍術、《雷霆》!」
雷のごとき一撃が、床に叩き込まれる。
教会全体が振動し、ジユズ含む執行団員たちはもちろん、フゲンたちも大なり小なりよろめいた。
だがライルは仲間たちに何を説明するでもなく、間髪入れずに槍を放って両手を彼らの方へと向ける。
なけなしの彼の魔力が、その掌に爆発的に集中した。
「風魔法、《千里の風馬》っ!」
ライルの声に応えるように、どこからともなく風が巻き起こる。
辺り一帯の空気をかき集めるがごとき風は、フゲンたちの足元を掬い上げ、宙へと浮かせた。
「おいライル!?」
フゲンは叫ぶ。
彼の、彼らの視線の下で、ライルはただ1人、床に足を付けたまま立っていた。
「後は頼んだ!」
相棒の困惑に、彼は笑顔で返答する。
まばたきひとつ、フゲンたち6人は渾身の風に乗せられて、教会の外へと物凄い勢いで運ばれていった。
場に残されたのはライルとジユズたち執行団、そして――ガラスの容器から溢れ出る、灰色の煙。
ジユズは目を細め、感心したように手を打った。
「よく気付いたものだ。中々に勘が良いか、博識と見た」
「褒めてくれてありがとう……っ」
ぐら、とライルの視界が歪む。
次いで呼吸が浅くなり、手足が痺れ始める。
それは間違いなく、灰色の煙を吸ったことによる害だった。
「主に仕える者として訓練を積んだ我々には、どうということはないものだが……君のような凡愚には堪らないだろう」
「まあ、な……」
ライルは口元に笑みを浮かべて強がる。
しかし煙の毒をその身に受けていることは、覇気の無い声からも、青白い顔色からも明らかだ。
「では、しばし眠りたまえ」
ジユズは弓を再び構えることはせず、ライルを見下ろす。
恐らく、すぐに殺す気は無いのだろう。
……そんな推測を弾き出したのを最後に、ライルの思考と意識は煙の中に沈んでいった。
***
「クソッ、なんだってあいつ……!」
教会から少し離れた通りで、フゲンは立ち上がる。
ライルの放った風魔法は、彼らをできる限り遠くへ送り届けると、力尽きるように空中で消滅した。
それすなわち、6人を宙に放り出すということ。
不意に落下することとなった彼らは、各々不格好に着地することとなったのだ。
「待ちなさいフゲン! ライルがあの程度の人数相手に、あんたを逃がすわけないでしょ。力技じゃどうにもならない物が出てきたって判断したのよ」
一も二も無く教会へ戻ろうとするフゲンを、カシャが語気を強めて引き止める。
彼女に続き、シュリも盾を担ぎながら言った。
「……微妙に手足が痺れている。恐らく、あの妙な煙を少し吸ったせいだろう」
「痺れ粉の煙幕、といったところでしょうか……」
モンシュは不安げに眉を下げる。
毒の類は、どんな強者にも簡単にダメージを与え得るもの。
対抗する手段は薬か、毒への耐性を持つことであり、そのどちらをもフゲンたちは有していない。
ライルはローズ公国での一件の折、「毒に耐性がある」と言っていた。
だが毒と一口に表現しても、実際は種々様々だ。
先ほどの「後は任せた」という言葉からして、今回の毒に、ライルは耐性が無いと見ていいだろう。
あの灰色の煙は、少量取り込んだシュリでも、自覚できるほどの影響が出ている。
ライルはそれを間近で食らうことになったのだから、どう楽観的に見積もっても、無傷では済まない。
「とにかく身を隠すわよ。ライルを助けに行くのは、態勢を立て直して、策を練ってから。いいわね?」
「……おう」
フゲンは渋々頷く。
予想外の大人数に、毒煙という特殊な攻撃手段。
死角からの事態は、早くも暗雲を呼び寄せつつあった。