幕間 胎動する綻び
冷たく静かな海の底。
海底国軍『箱庭』捜索隊の拠点、その一室で、マッポは机に向かっていた。
「うーん……?」
机の上に広げられているのは、海底の一部を切り取った地図と、沢山の数値が記された紙束やノート。
マッポはそれらと顔を突き合わせながら、ペンを片手に右へ左へと首を傾げる。
そうしていると、部屋の扉が特に何の遠慮も無く開き、ニパータがするりと入ってきた。
「どしたの、マッポ。難しい顔して」
「あっ……ええと、ちょっと気になることがあって」
マッポは嫌な顔ひとつせず、トコトコと近寄ってくるニパータを隣へと招く。
「今、いつもの観測結果を集計してたんですけど」
「魔力の濃度と海流を見るやつねー」
「はい」
常日頃から、マッポは近くの海域の観測を行っている。
それは単純に趣味であり、家族に忌み嫌われ軟禁されていた昔も、海底国軍『箱庭』捜索隊としてアグヴィル協会と手を組むこととなった現在も、誰にも強制されること無く続けていた。
「でもここ、見てください」
言いながら、マッポは地図のとある一点を指す。
ニパータはマッポを顔がくっつきそうになるのも構わず、ずいっとそこを覗き込んだ。
「んー? ……なんか、変なマークが描いてあるね?」
「そうです。この地点で、前例の無い魔力が観測できたんですよ」
少し早口気味になってマッポは言う。
良し悪しはさておき、この観測結果に興奮しているようだった。
「魔力って、実は人それぞれに個性があるんです。特別な魔道具か魔法を使ってしっかり比較しないと、わからないくらい微妙にですけど……」
「ふんふん」
ニパータは相槌を打つ。
ただ彼女はマッポの説明の内容というより、マッポの喋りそのものに関心と好意を寄せていた。
「でも、ここで観測した魔力は『全く違う』んです。既存のどの魔力とも異なる、いわば異質な魔力です」
「新種ってこと? 大発見じゃん」
「そうだったら良いんですけど……」
と、マッポはにわかに顔を曇らせる。
彼女は確かに、前例の無い事象に興奮してはいた。
だが同時にそれが致命的に――より具体的に言えば、人間に害が及ぶくらいに――良くないものである可能性を考えると、どうしても不安は生じるのだ。
相反する2つの感情に挟まれ、マッポは渋い顔をする。
するとニパータはにわかに彼女の腕を掴んだ。
「じゃ、見に行こー」
「えっ?!」
マッポが目を丸くするが早いか、ニパータは部屋の外へと飛び出す。
その足は少しも止まることなく、拠点の外、町の外までも軽々と突き抜けていった。
「うわわ、ちょっと、ニパータさん!」
「ほら早くー!」
やがて彼女はドームの外へと、足を踏み出そうとする。
腕を引かれるがままのマッポは、己が体が海中に突っ込む前に、急いで魔法を使った。
「大海魔法活動術っ、《海獣の被膜》!」
直後、2人は海中に身を放り出す。
マッポは魔法で呼吸やら耐圧やらを確保し、ニパータはというと。
「案内よろしくねー」
魚に似た下半身と、水かきのある手、それから長い触覚を2本持った姿へと変貌し、マッポを背中に乗せていた。
否、変貌したというより「戻った」と表現した方が正しい。
なぜならばこの姿こそが、海底国軍の生物兵器として開発された、ニパータの本来の姿なのだから。
そういう用途を想定して造られた彼女は、海竜族にも負けないほど素早く泳ぐ。
彼女の体は先ほどまでと変わらないサイズであり、つまりは一般的な海竜族の竜態よりもはるかに小さいため、小回りが利くしさほど目立つこともない。
人目を気にせず、ニパータはすいすいと海中を前進した。
「えっと……そこの大岩を右へ曲がってください。それから海藻畑を越えて……」
マッポは頭の中で地図を思い描きつつ、任せられたまま道案内をする。
そんな具合で、とある町と町の間にある平地に差し掛かろうかという頃、マッポは声を上げた。
「あそこです!」
指差したのは、岩陰に隠れた窪み。
竜態の海竜族1人がすっぽりと収まるくらいの大きさで、深さもそこそこあるようだった。
「ん、りょーかい。近付くよー」
ニパータは少し加速して、窪みへと接近する。
が、その時。
「ッ!」
ざわりと、海流が不気味にうねり、2人の肌を撫でた。
ニパータは反射的にその場で止まり、マッポも咄嗟に防御魔法の構えを取る。
しかし襲い掛かってくるものは居ない。
ただ今しがた近付こうとしていた窪みから、身の毛がよだつような気配――魔力が発せられていた。
「なにこれ、ヤバそーじゃない?」
「やばいです! ニパータさん、いったん帰りましょう!」
思考を共有するや、文字通り尻尾を巻いて2人は場から逃げ出す。
十分な情報も無しに危ない橋を渡らない、というのが彼女たちの鉄則だった。
「『箱庭』の捜索は争いと凶事を招く……」
ニパータの背中で、マッポが呟く。
「あの預言は、人間同士の諍いを指しているものとばかり思っていましたが……もしかしたら……」
「かもね」
短く、それでいて緊張感を帯びた声で、ニパータは言った。
この世界のうちでもいち早く、彼女たちは不穏な綻びに気付き始めていた。