195話 大将の帰還
それからしばらく。
ライルたちは慎重に、城内を探索していった。
目下の目的はケサとの合流だ。
味方――特に、公的な立場のある人間――が欲しいというのもあるが、一番は彼女の安否を確認するためである。
彼女の部下であるシキが宰相によって傷付けられた今、ケサ自身も危険な状況に置かれていると考えるのが自然だろう。
いずれにせよ、手遅れになる前に合流したいところだ。
これまで以上に、周囲に警戒しながら、ライルたちは進んでいく。
と、階段で上階へと移動している最中に、ピンドーラが「あっ」と小さく声を上げた。
彼女の視線の先、廊下の突き当たりの角には、ちょうどそこを曲がっていく者が1人。
タイミングが良いのか悪いのか、ライルたちにはその人物の後ろ姿しか見えなかったが、ピンドーラはそれだけでも人物の識別ができたようだった。
「ミトラ!!」
ピンドーラは喜色を滲ませた声を上げ、角を曲がった人物目掛けて駆け出す。
「あっ、おい!」
慌ててライルが彼女を追いかけ、他の面々もそれに続いた。
だが角を曲がって追いついた時には、ピンドーラは既にその人物と対面していた。
「ピンドーラ様」
足を止めて振り返ったその人物は、滑らかな空色の長髪を後ろでひとつに結った軍人だった。
一見、女性と間違えそうな中性的な顔立ちであり、同時に、とてもとても美しい。
その佇まいは上品で、軍服の装飾からしても高い地位に居る者であろうことが推測できた。
ピンドーラはそんな彼に、躊躇することなく歩み寄る。
「ミトラ、ああ! もう戻っていたんだな! 会いたかった……!」
「ミトラ」と言えば……と、ライルが記憶を掘り起こそうとすると、ピンドーラが思考を助けるように口を開いた。
「ほら、話していた例の大将だ!」
なるほど確かにそうだった、とライルは納得する。
ピンドーラが一番信用できると言っていた人物、それがミトラだ。
地上国に居るという話だったが、これは僥倖。
――などと、嬉しい誤算に内心喜ぶライルだったが、しかしそこへティガルが刺々しい声で割り込んだ。
「待てよ。お前、さっきまで何があったか忘れたのか?」
「う……い、いや! 大丈夫だ。ミトラは本当の本当に、信用できる!」
ピンドーラは半ばムキになったように反論する。
信用できるというより、信用したい、という気持ちが強いようだった。
「なあ、ミトラ?」
望まぬ不安を拭い去るためにか、彼女はミトラの方を見て同意を求める。
一瞬、場に緊張が走る。
それからミトラは、にこりと笑った。
「はい。ピンドーラ様」
求めていた回答をもらうことができ、ピンドーラはホッと胸を撫でおろす。
ライルもまた、彼女の期待が裏切られなかったことに安心した。
しかし。
「お手柄ですな、ミトラ大将。これで陛下の偽物も、不届き者たちも始末できますぞ」
ぱちぱちと手を叩き、廊下の奥から大勢の軍人を引きつれた男が現れる。
彼もまた軍人であるようだが、服装と振る舞いの具合からして、ミトラと同様に立場のある人間らしかった。
だが問題はそこではない。
彼の発した言葉の方である。
「え……」
ピンドーラの顔が引きつり、不安定に瞳が揺れた。
男の発言が示すのは、「裏切り」ただひとつだけだ。
「ミ、ミトラ……?」
「下がれ!」
ふらりとミトラに近付こうとするピンドーラを、ライルが引き戻す。
ミトラは微笑みを湛えたまま、すらりと腰の剣を抜いた。
戦闘の意思を示すかのごときその動作に、ライルたちの間で緊張が走る。
「こいつ、強いわよ」
「みたいだな」
ライルとカシャが前に出、モンシュとティガルがピンドーラの傍に付いた。
後から出てきた男や軍人たちは、さして脅威ではない。
しかしミトラ、この大将は別格だと、ライルたちは直感していた。
「……そういうことでしたか」
ミトラは目を伏せ、ゆっくりと息を吐く。
そして直後、指先が僅かに動いたかと思うと――彼は素早く振り返り、そこに立つ男の胸部を柄で打った。
「がっ……!?」
意表を突かれた男は、目を大きく見開いて崩れ落ちる。
他方、目を丸くしたのはライルたちも同じだった。
いったい何が起こったのか。
仲間割れであろうか。
否、そうではない。
ミトラはどよめく軍人たちを他所に、床に膝を付く男の目の前に立った。
「中将殿。あなたの目も、曇ったものです。いえ……欲に眩んだのでしょうか」
中将、と呼ばれた男は恨めしげにミトラを睨み上げる。
が、ミトラはほんの少しも怯まず、彼の鼻先に剣を突きつけた。
「天上国軍大将の名において命じます。我が君に刃を向けた罪を認め、今すぐに投降しなさい」
そこまで見、聞き、ライルはようやく理解する。
ピンドーラを裏切ったのは中将の方だけで、ミトラは彼女の味方なのだと。
何がどういう経緯を辿って今に至るのかは未だ不明だが、それだけは確かなようだった。
「ミトラ……!!」
ピンドーラは歓喜の声を上げる。
やっとの思いで親と再会できた迷子のようなその声に、ミトラは優しげな表情で答えた。
「はい、我が君。このミトラ、遅ればせながら馳せ参じました」
ライルたちは、警戒の構えを解く。
初対面の彼らにまで、ある程度の安心感を与える「何か」を、ミトラは持っていた。
膝を付いたままの中将は、無駄なことだと諦めているのか、抵抗する素振りを見せない。
他の軍人たちに至っては、露頭に迷ったかのようにおろおろとするのみだ。
「やれやれ……どうにかなったようですわね」
と、物陰からおもむろに姿を現したのは、ケサだった。
腕や額に切り傷を負った彼女は、しかし涼しい顔をしてピンドーラの傍へと歩み寄る。
「ケサ! ああ、お前まで怪我を……!」
「このくらい平気ですわ」
ケサは傷が痛むのをおくびにも出さず、柔らかに笑んだ。
「お前がミトラを呼んでくれたのか?」
「ええ。まあ、彼が天上国に戻ってきていたのは偶然でしたけれど」
言いながら、ケサはミトラの方を見やる。
ミトラは小さくかぶりを振り、空色の髪を揺らした。
「前々から、一部の者たちに嫌な雰囲気を感じてはいましたが……まさかここまで大それたことをするとは、思いもよりませんでした」
悔しさの滲む声色で彼は言い、ピンドーラに向かって深々と頭を下げる。
「このような事態を招いてしまったこと、謹んでお詫び申し上げます。我が君」
「や、やめろやめろ。ミトラは悪くない。悪事など、はたらく方が悪いに決まっているのだ」
慌ててピンドーラがそう返せば、ミトラは恐縮しつつも顔を上げた。
「ま、良かったな。軍の大将が味方に付いてくれれば、さすがに騒ぎは収まるだろ」
ライルは心底安堵したように言う。
彼らに一番足りなかった「ピンドーラ以外で、宰相に挑める権威」を得ることができたのだ。
二転三転した事態だが、今度こそどうにかなりそうだった。
「うむ。ミトラ、さっそくで悪いが、宰相を止めに行くぞ! 善き者たちが、今この瞬間も戦ってくれているからな!」
「かしこまりました」
「ライルたちはこの中将を縛り上げておいてくれ。後ろの者たちは抵抗しないならそのままで良い。後で詳しく事情を訊く」
すっかり気力を取り戻し、それどころか元気いっぱいになったピンドーラが、張り切って指示を出す。
するとその時、まるで明るくなり始めた空気に飛び込むがごとく、ライルたちの近くの壁が突然破壊された。
と言っても、そこから出てきたのは敵などではなく。
「おーい! 全員片付けたぜー!」
伸びた宰相を引きずり、満面の笑みを浮かべたフゲンだった。