192話 暗闇の逃亡
ピンドーラは息を呑む。
それは決して、驚愕だけを示してはいなかった。
「っ、宰相に限って、そんなこと――」
「あるんだよ。そんなクソみたいなことが」
彼女の言葉を遮ってティガルは言う。
嫌な現実を突きつけるその様は、意地が悪いようにも、怒りに駆られているようにも見えた。
「ピンドーラ……」
次いで、ライルが口を開く。
彼は少し目を伏せて逡巡したのち、改めて言葉を発した。
「……悪いけど、俺も同意見だ。お前も、警戒はしてたんだろ?」
「…………」
ピンドーラは答えない。
唇を固く引き結び、ただ俯いていた。
彼女は幼い。
しかし、愚かではない。
世の中の人間が味方ばかりではないことも、とっくの前からよく知っていた。
だからこそ、一番でないにしろ、信を置いていた者の反逆に動揺せずには居られないのだ。
意気消沈のピンドーラを、カシャは軽く抱き寄せた。
「大丈夫。全員が全員、敵であるわけはないわ。信頼できる人のところまで行きましょう」
「……うん」
ピンドーラはようやくそれだけ、声を発する。
威厳も何もない、年相応の傷付いた声色だった。
「例の大将……は難しいな。ケサを探そう」
「あいついま何してんだ?」
「たぶんピンドーラを探し回ってる」
敢えて少し明るい調子で、ライルはフゲンと言葉を交わす。
ピンドーラの命はもちろん、その心についても、彼は大いに気を揉んでいた。
家族を喪い、年頃の人間らしさを取り上げられ、その上まだ傷付けられるところなど、とても見ていられるものではない。
双子が願った分も含め、必ずピンドーラをあらゆる意味で守らなくてはと、ライルは気負っているのである。
「逃がしませんよ。皆、やってしまいなさい!」
無慈悲、否、残酷にも、宰相は軍人たちに号令をかける。
徐々に化けの皮は剝がれ、目の奥に矮小な野心が見え隠れし始めていた。
「かっ……かかれ!」
筆頭と思しき軍人が叫ぶ。
軍人たちは迷いを残しながらも、命令に従い、ライルたちに斬りかからんと一斉に迫った。
幾振りもの刃が、群をなして襲い来る。
が、それを防いだのは、1つの大きな盾だった。
「シュリ!」
真っ先にティガルが彼の名を呼ぶ。
シュリは腰を落とし、ぐるんと盾を回して軍人たちを振り払った。
「自分が殿を務める」
言いながら、彼は次々迫る攻撃の波を、冷静に押し返していく。
問いかけではなく、確固とした主張の形を取ったその発言には、優しい力強さがあった。
「じゃ、おれもー」
「……俺も」
ティガルやライルたちが何か言う前に、ツイナとフーマがシュリの横に立つ。
そうするが早いか、ツイナは一番近くまで来ていた軍人に拳を入れ、得物である剣を奪った。
続いてフーマも、風の刃を飛ばし、まとめて3、4人分の武器をさらう。
その光景を見、ライルは目を丸くした。
ツイナはともかく、フーマが積極的に戦闘に出るとは思いもよらなかったのである。
彼の視線に気付いたフーマは、眉間に皺を寄せて振り返った。
「もう後戻りはできないし何かやってないと気が狂いそうなんだよ早く行け」
実に彼らしい理由だ。
ひと息に吐き出された、不愛想ながら実に人間味あふれるその台詞に、ライルは要らぬ心配の言葉を呑み込んだ。
「ありがとう! 死ぬなよ!」
代わりに感謝と激励の言葉を投げかけ、ライルは踵を返す。
かくして、一行は二手に分かれることとなった。
シュリたちに敵の足止めを任せ、ライルたち6人とピンドーラは一目散に場を逃げ出す。
もたつけばその分、足止めが無駄になるばかりか更なる危険にも繋がるからだ。
「ピンドーラ、城内の案内頼めるか?」
「……うむ。承った」
闇夜の中を走りながら、ピンドーラは頷く。
元気とは言えないが、少しは気力を持ち直してきているようだった。
しかしさて、今は夜更けだ。
城の敷地内に明かりはあるが、足元を意識せずに歩くには心もとない。
だが敵が多く、味方は土地勘の無い6人と運動に慣れていない1人というこの状況では、淀みない前進には明瞭な視野が不可欠。
……となれば、暗闇でもよく見える右目を持つフゲンの出番である。
「『目』はオレに任せろ。これくらいの暗闇ならよく見える」
「わかった。えっと……」
「フゲンだ」
まるでそこらの町人にそうするがごとく、フゲンは気軽に名乗る。
良く言えば気さく、悪く言えば無遠慮な態度に、しかしピンドーラは却ってやや安堵の表情を見せた。
「フゲン。三角形の窓がたくさん並んでいる建物はわかるか」
「おう」
フゲンは付近の建物の隙間から見える、周囲よりも背が低めの1棟に目を向ける。
ピンドーラの言うように三角形の窓がずらりとはまったそこは、他の建物と比べて若干古い雰囲気を漂わせていた。
「その一番北側の扉に向かうのだ」
「北ってどっちだ?」
「今の私たちから見て右手だ」
「おし、完全に理解した」
必要な情報を聞き取り終え、フゲンは深く頷く。
きりりと眉が吊り上がり、道標役として自信満々の様子だった。
「最短で行くぜ! 付いてきな!」
気合いの入った声を張り上げ、猪のごとくフゲンは走り出す。
「うむ。っと……」
ピンドーラは彼に続こうとするが、1歩を踏み出すと同時によろめいた。
あちこち駆けまわっていたせいだろう。
彼女の足は、疲労に浸食され始めていた。
「な、何でもない。さあフゲンに追いつくぞ」
それでも威厳のためにか、ピンドーラは虚勢を張ろうとすまし顔をつくる。
だがそんな彼女に、カシャがつかつかと近付いた。
かと思えば、ひょいと、彼女を抱き上げた。
「わっ」
カシャはクッションでも持つかのように、それはもう軽々と、ピンドーラを横抱きにする。
そうして子どもをあやすように、にこりと笑いかけた。
「御無礼をお許しください。こちらの方が安全に移動できますから」
「く……苦しゅうない。いや、頼んだぞ」
目をぱちぱちと瞬かせつつも、あくまで堂々と、ピンドーラは応える。
しかしやや間を置き、好奇心を堪えかねたらしく口を開いた。
「……有角族とは、本当に力持ちなのだな」
「触れ合うのは初めてですか?」
「うむ、天上国にはほとんど天竜族しかおらぬのでな」
ピンドーラは何の含みも無く言い、尊敬に似た眼差しをカシャへと向ける。
まるで初めて格闘家を直に見た子どものようだった。
「しっかり掴まっていてください」
「……ん」
ピンドーラはきゅっと腕に力を込め、カシャに密着する。
緊張のためか、それとも別の理由があってか、その頬は少しだけ紅潮していた。