172話 寄り道を終えて
は、と短い息の音が漏れる。
セツヨウは目を開き、フォンたちを見た。
ここにやって来てから初めて、彼女たちのことを見た。
「俺は……」
震える唇が言葉を紡ごうとする。
誰もがそれを、静かに待った。
やがて彼は深く息を吸い、吐き出す。
「俺は、こいつのことが許せない。できるだけ苦しめて殺してやりたい。こいつが兄さんにやったことを、やり返してやりたい。……でも」
彼の剣が、ゆっくりと下ろされた。
構えを解かれ、されど鞘に戻ることもない剣は、あてどもなく風にさらされる。
空気が剣を撫で、人間には聞こえない微かな音が鳴った。
「それよりも……兄さんのことを、ちゃんと思い出したいんだ。楽しかったこととか、兄さんの笑顔とか、声とか……。こいつのせいで失くしたものは、こいつを殺せば取り戻せると」
セツヨウは目を伏せる。
そうして絞り出すように、言った。
「……思い、たかったんだろうな」
言葉は懺悔のごとく、宙に溶けていく。
天上に佇む月が、雲の切れ間からささやかな光を注いでいた。
「仇を討てば、気が楽になるかもしれない。でもそれじゃ……兄さんの姿は、ますます見えなくなるって。本当は、頭のどこかでわかっていた」
かぶりを振って、セツヨウは顔を上げる。
その目はいまだ拭い去れないものがあれど、幾分か穏やかで、憑き物が落ちたようだった。
「うふ、ふふ……本当に優しいねえ……! 私を殺さないとどうなるかとか考えないんだ?」
と、凪いだ空気に水を差すかのごとく、レイがうわずった声を上げる。
彼女の瞳は、今なお濁った信仰心の中だ。
レイは何とか起き上がろうとしながら続ける。
「ねえ、例えばさ! 私が帰らないのを心配して、温存させておいた子たちが駆け付けてくる、とか!」
例えばと付していつつも、彼女の言葉が持つ響きは例示などではなかった。
そして実際。
彼女が言い終えると同時に、闇の中から大勢の影が揺らめき、現れる。
ライルたちは囲まれている気配など全く無かったことに驚き、急ぎ得物を手に臨戦態勢を取った。
が、彼らの目に入ってきたのは、黒服は黒服でも執行団員の黒衣ではなく、またそれを従えていたのは。
「温存させておいた奴らが……か。ねえな、それは」
前髪を上げた黒髪の若い男――シャーレだった。
彼の右隣には、煙草の煙を吐くフラジュが。
左隣には、僅かに眉間に皺を寄せたビックが居る。
幸運流通の三頭が揃い踏みだ。
「伏兵は配置場所が肝心だ。お外での大規模戦闘は初めてか? 張り切りすぎたな」
冷たい目でレイを見下ろし、フラジュは言った。
「っまさか……!」
途端にレイは青ざめる。
来ない増援、来た敵の追加勢力。
何があったかわからないはずは無い。
シャーレたちは既に、構成員殺害の落とし前を付けさせていたのだ。
「張り切りすぎと言えばアホ盗賊団もだな。普通、時間稼ぎするくらいに留めるだろ。俺らのメインディッシュを食っちまいやがって」
呆れ半分、苛立ち半分にシャーレは周囲を見回す。
だが前後左右いずれの方向を見ても、ホンカとイチヨは居ない。
「……あいつらどこだ?」
「どっか行ったぜ」
ティガルがさらりと答える。
不都合な動向を誤魔化してやるほどの義理は無かった。
「逃げたな、クソ」
シャーレは舌打ちをする。
まるで、というよりまさに問題児に頭を悩ませる上司のようだ。
がしがしと乱雑に頭をかき、彼は話を続けた。
「まあ何だ、お前らその様子だと気は済んだんだろ。後処理はこっちの好きにさせてもらおうか」
「殺すのか?」
ライルが槍を握りながらそう問えば、シャーレはニヤリと笑って答える。
「まさか。もっと有効活用するさ」
彼は上着のポケットに手を突っ込み、首を軽く振って髪を揺らした。
「損失を埋めるのは利益だ。町をぶち壊した外敵を、ただ排除するだけじゃつまらねえ。更地に前よりもっとデカい町を作るのが俺たちのやり方なんだ」
「違いない」
ビックが短く相槌を打ち、こくりと頷く。
フラジュも訳知り顔で、煙草の煙をくゆらせていた。
シャーレは片手をポケットから出すと、パチンと指を鳴らす。
と、即座に構成員が数名前に出、レイたちを縄――何やら普通のそれとは異なった風体である――で拘束し始めた。
「お前らは俺たちみたいにはなるなよ? 端から端まで見事に全員、向いてねえからな!」
ライルたちに向かって、シャーレは愉快そうに笑う。
彼らは道に迷っているふうではなかったが、しかし道から外れて荒野を歩いているようだった。
***
「色々、世話になった。ありがとう」
「縁があったら、またどこかで」
幸運流通の面々がレイたちを1人残らず連行していった後、ウロウを彼らの所有する墓地に埋葬させてもらい、雷霆冒険団はセツヨウ一行との別れの時を迎えた。
今回の件で更に仲を深めた両者だが、別々の冒険団であるからには、別の道を往くのが道理というもの。
同行を誘うのは野暮だと、誰もが言外に理解していた。
尤も、別れを惜しいと思う気持ちもまた、幾人かの心に在るのだが。
「なあ」
そんな中、ライルはおもむろに口を開く。
「これから……お前たちはどうするんだ?」
奇妙な問いに、セツヨウたちは顔を見合わせた。
なぜわざわざ訊くのだろう、と。
「どうって、今まで通り『箱庭』を探すけど」
「どっちが早く着けるか競走したい?」
フジャとフォンがそう答えれば。
「いや、そういうわけじゃ……ないんだが」
ライルはひどく、歯切れ悪く返した。
今、ライルの心中にあるのはひとつの懸念だった。
――もし、彼らの方が先に『箱庭』に辿り着いたらどうしよう。
それは彼の秘密の一部。
誰も知り得ない、彼が『箱庭』に最初に到着しなければならない理由に起因していた。
だがそれ故に、ライルはセツヨウたちに何も具体的なことを言えない。
ただ漏れ出してしまった不安の欠片を、誤魔化すように笑った。
「……気を付けて」
「お前もな」
ライルの複雑な内心を察してか、セツヨウは心なしか優しげに言う。
そうして、セツヨウ一行はどこか次の目的地へと、去って行った。
「急ごう。……軍の捜索隊に先回りされないようにな!」
気を取り直した様子を装い、ライルは元気よく仲間たちに呼びかける。
「おう! セツヨウたちなら良いけど、国に先越されて取られんのは困るからな!」
フゲンが威勢よく同調し、他の面々も各々気合いを入れ直すように頷いた。
短く、大切な寄り道を終え、再び彼らは歩き出す。
『箱庭』に辿り着くために、自らの願いのために。
憎悪の値打ちは人それぞれだ。
愛情や希望の値打ちも、また然り。
重要なのはそれを見誤らないこと。
優先すべきものを、違えないことである。
ライルは槍を握り直し、自分の優先事項を反芻する。
誰かに降りかかるかもしれない危機を払うこと。
そのために、『箱庭』にいち早く到着すること。
それが今の彼にとっての、最も重大な目的であった。