171話 神に願うということ
「俺の邪魔をする気か?」
「そうだ」
ライルはきっぱりと答える。
剣を止める槍の柄には、切れ込みひとつ無い。
押し負けず、しかし押し戻しもせず、両者は膠着状態となっていた。
「お前に、こいつを殺してほしくない」
セツヨウの目を真っ直ぐに見据え、ライルは1音1音を明瞭に発する。
「だから肉親の仇を見逃せと? この怒りを堪えたまま生きろと?」
「違う。復讐をしたいならすれば良い。未来のためには、過去を清算することが必要な時もある」
一瞬の間に、ライルの脳裏には数人の人物の姿がよぎる。
イシュヌ村のユガ、エトラル公国のローズ……彼女らの悲痛が、目の前のセツヨウに重なって見えた。
耐え難い憤怒を抱えた者。
一生残る遺恨を刻まれた者。
あるがままでは歩けなくなった者。
負の感情が明日への道を閉ざしているのなら、それを排除するほか無い。
人間が未来を求めようとする行為を、ライルは肯定する。
「でも、人殺しはやめてくれ」
後ろにレイを庇いながら彼は言った。
その意志に、迷いは混入していない。
誰にどう捉えられるかは別として、その主張は確固たるものだった。
済んだ黄金色の瞳が訴えかける。
セツヨウは、わなわなと震える口を開いた。
「お前はッ、同じことが言えるのか! 大好きな家族を身勝手な理由で殺されても! のうのうと生きている悪人を許すことができるのか!?」
声を荒げ、彼は反論する。
それでもライルは静かに応えた。
「わからない。俺には家族が居たことが無いから、お前の気持ちを正確に理解することはできない。けど……例えば仲間が殺されたとして、その犯人を、俺は」
ひと呼吸分の沈黙。
ライルは今一度、考えた。
もしもあの時――海底国で、首を刎ねられたのがフゲンだったら。
神殿に行ったモンシュたちが、生きて帰って来なかったら。
エニシを、そしてマナたちを、自分はどう思っただろうか。
僅かな時間で、けれども鮮明に詳細に、その「もしも」を思い描く。
そうして、再び声を発した。
「殺せても殺さない」
眉を下げ、悲しそうに、あるいは申し訳なさそうに、ライルは言う。
どうあっても、彼が彼である以上、人間を殺すという選択肢は取らない。
それが良くも悪くも揺らがない、単純な答えだった。
「許さないことと、危害を加えることは違う。……セツヨウ。許さなくていいんだ。どうか命を奪うことはしないでほしい」
「綺麗事がそんなに好きか?」
「否定はしない。俺は誰にも死んでほしくないし、誰にも殺してほしくない」
ライルも、数多の悪事に怒りや悲しみを覚えないわけではない。
だが彼にとって憎悪は、人の命に比べれば安いものであった。
人の命が憎悪より重い、そんな理想を、彼は願っていたのである。
「…………」
セツヨウはしばし黙り込んだが、ライルの言葉に納得した様子は無かった。
「ふむ、ここは少し助言が必要かな?」
と、そこへ大仰な身振りと共にホンカが割り込む。
彼は自分が間に入る形でライルとセツヨウを引き剥がし、咳払いをひとつした。
「ひとつ話をしてやろう。ある子どもの話だ」
藪から棒に何なんだ、と若干名から訝しむ視線が刺さる。
しかしホンカは気にしたふうでもなく、語り始めた。
「その子どもは、とても幼かった。汚くて狭い家に父親と2人で暮らしていて、そして父親から毎日殴られていた……だけではないが、まあ省略しておこう。とにかく傷の絶えない日々だった」
軽い声色で、悲惨な「子ども」の状況が述べられる。
それはただ単に、前提に触れておくだけのように、深刻でも何でもないようにさらりと流され、話は続く。
「ある日、唯一の友だちが家に来た。彼女は包丁を持っていて、それで子どもの父親を刺したんだ。子どもは驚いたが、友だちに加勢して一緒に父親を殺した。心臓と息が止まるのをちゃんと確認した」
実際にその光景を見て来たかのごとく、ホンカは手で宙をまさぐるジェスチャーをした。
イチヨは彼の隣で、黙って立っている。
「子どもは友だちと逃げた。家から、町から。頼りは無いから2人きりで、どこまでも、どこまでも。金が無いから盗みをしたし、ある場所でヘマをして子どもは右目を取られたし、でもまあ最終的に大きな組織の傘下に入って落ち着いた」
既に他人の話をしているという体を忘れているのだろうか。
ホンカは「この通り」と言わんばかりに胸を張り、手を当てた。
「子どもは今年で16歳だ。友だちも一緒。後悔は無いし、あの時、父親を殺せてよかったと思ってる。そうじゃなきゃ、たぶんそのうち死んでたから」
しかしそこで、彼は身振りを止め、言葉を切る。
それから場の全員に響かせていた声を、セツヨウ1人に向けた。
「でも、もう戻れない」
誰かが音も無く息を呑む。
ホンカは自虐的に微笑んでいた。
「人を殺したら、殺す前の自分には戻れないんだ。どんなに平気な顔をして、実際平気だと思ってても。普通には生きられない。一度誰かを殺した手は、自然と昏い選択肢に引き寄せられる」
自分の命を守るために、酷い親を殺した子どもならば、憲兵に駆けこんで保護してもらうこともできただろう。
町を出たとして、大人に助けを求めることもできだだろう。
彼らはそうしなかった。
したけれど失敗した、ではなく、最初からそうしなかったのだ。
理由は本人らのみぞ知るところだが――曰く、それが昏い選択肢に引き寄せられるということなのであろう。
「毒を食らわば、体から毒が抜けた後も、『耐性』という痕跡は残るだろう。同じことだ。きみがそうなろうがなるまいが、正直おれには関係無いが……不可逆の分岐は慎重に、とだけ言っておこうか」
そこまで言い切ると、ホンカはいつもの調子で高笑いをしてどこかへ去って行った。
「役目は果たしたから。じゃ」
イチヨも彼の後を追い、暗がりの中に消えていく。
ライルはもう一度、セツヨウに語り掛けようとしたが、先に口を開いたのは彼の方だった。
「……こんな奴、捕まったらどうせ死罪だ。だったら俺が殺してもいいだろ!」
誰に言い聞かせるようにか、セツヨウは言う。
「毎日夢に見るんだ! ぐちゃぐちゃになった兄さんの姿を! 兄さんの優しい顔も、声も、手の感触も、全部それに塗り潰されて思い出せないんだよ!」
ぽろ、と彼の目から涙が零れた。
彼は泣いていたのだ。
恐らくは、ずっと。
「戻れなくていい! このまま生きるくらいなら! 邪魔する奴も殺してやる!」
「じゃあどうして冒険者になったんだ」
誰かが静かに問う。
みな一瞬、誰が言ったのかわからなかったが、それはライルだった。
彼はいつの間にか、槍を手放していた。
無防備な格好で、彼はセツヨウの前に立つ。
「お前の願いが何か、俺は知らない。でも『箱庭』に願いがあるのは、神様に縋りたいと思うのは……自分で自分を救うことができないと、わかっているからじゃないのか」
ライルや雷霆冒険団の面々は、セツヨウたちがどういう経緯で冒険団を組んだのか、聞いたことが無い。
それでも、冒険者であるということは、彼らが各々願いを抱えているということ。
確かなその一点を、ライルはそっと見つめていた。
「あの……ね、セツヨウ」
おずおずとフォンが口を開く。
不安でたまらないという顔をしていたが、同時に手元の命綱を決して手放そうとしないような、必死さが目の奥にはあった。
「私は、あなたがそれで幸せなら、人を……殺したって良いと思うんだ。ジュリもそう言ってる。でもさ、私はさ」
言葉を詰まらせつつも、彼女は言う。
「そんなに苦しそうな顔をしてるあなたが、この人を殺したら幸せになれるって、どうしても思えないよ」