160話 泥に埋もれる
「ああ恐縮です、レイ様! 私などのために……!」
すっかり感激しきった様子でウロウは言う。
目にはうっすらと涙さえ浮かんでおり、心酔ぶりが見て取れた。
「うふふ、いいよ気にしないで」
レイはライルたちから視線を外すと、彼女に微笑みかける。
だがライルには、その笑顔が表面上のものに見えて仕方が無かった。
「なんと寛大な……! ライルさん、こちらが我ら三番隊の隊長を務めておられるレイ様です」
先ほどのレイの視線にもライルの疑心にも気付かず、ウロウは純粋に紹介をする。
「レイ様、実を言うと彼ら――」
「うん、いいよ」
と、その時。
レイがウロウの目の前に手をかざす。
直後、その掌から閃光が走った。
「ッ!」
咄嗟に、ライルはウロウを抱き締める形で庇いつつ、レイに向かって槍を勢いよく突き出す。
火花が宙を駆け、瞬きの間に膨張し、爆炎となって空気を焼いた。
しかし炎も熱風も、誰を傷付けることも無かった。
ライルがその槍で相殺したからだ。
彼が直接守ったウロウはもちろんのこと、後方にいたフゲンたちも無傷である。
ぶわりと煙が巻き上がり、ほどなく静まっていく中、ウロウは遅れて、ぺたりと尻もちをついた。
「レ、イ様……?」
彼女は零れ落ちそうなほど目を見開き、震える声で言う。
状況を理解できていない。
否、理解することを拒んでいた。
「いきなり何するんだ! ウロウはお前の仲間だろ!」
槍を構え直しながら、ライルは抗議の声を上げる。
フゲンたちも、レイが攻撃を行った以上黙っているわけにはいかず、臨戦態勢に入っていた。
だがレイはそんな彼らを前に、至って平然と言い放つ。
「仲間っていうか部下かな。でも今は要らない子だよ」
特段強い嫌悪は無く、しかし興味も関心も薄い声色。
彼女はウロウのことを心底切り捨てていた。
「よくもまあ、こんな簡単に絆されてくれちゃってさ。ねえキミわかってる? そいつら敵だよ?」
「ご、誤解ですレイ様! 彼らは同志です! 特にこちらのライルさんは聖典を深く正確に理解しており、そうです、こちらの絵画にも共感を! 善き信徒なのです、決して敵などでは!」
自分とライルたちに向けられた疑いを晴らそうと、ウロウは必至に弁明する。
だがレイは、面倒くさそうに溜め息を吐くだけだった。
「だからあ、敵なんだってば」
「いえ、レイ様――」
「ていうかファストたちの二番隊潰したの、そいつらだし」
するりと言葉が滑り出る。
それはあまりにもあっさりとした暴露で、ライルたちは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え……」
数秒あって、ようやくウロウの口から声が漏れる。
ほとんど吐息のような、意味を為さない声だった。
「あ、そいつらっていうのは緑髪と目隠れ男とおこちゃまね。残りの2人は私が持ち帰った子の仲間」
事実を露呈させてどうこうしてやろうという意図は無かったのだろう、レイはごく普通の話をする時のように、情報を補足する。
残酷なほどに、無邪気だ。
「ライルさん……?」
ウロウはぎこちない動きで「同志」を見やる。
瞳は不安定に揺れ、唇はわなわなと震えていた。
「……本当だ」
ライルはうつむくように頷く。
不覚だった。
積極的に探されていないことから、自分たちの名や容姿までは執行団内に知れ渡ってはいないのだとばかり思っていた。
己の迂闊さを悔いるライルだったが、否、その権利は無いとかぶりを振る。
自業自得にウロウを巻き込んだ。
嘘を吐き、それを押し通すこともできずに彼女を傷付けた。
謝罪の言葉すらおこがましいような気がして、ライルはそれ以上何を言うこともできなかった。
「じゃ、じゃあ、私は騙されて……?」
「そうそう、そうだよ。やっとわかった? キミは危うく敵に塩を送るとこだったの! だからさ、死のっか」
あっけらかんと笑うレイは、その表情を崩さないまま再びウロウに凶刃を向ける。
あくまでウロウを先に始末しようとする彼女の殺傷魔法を、ライルは先ほど同様、強引に槍で阻止した。
「はー……。なあんで邪魔するのかな? もう正体バレたんだし、味方のふりする必要無いよね?」
ウロウを背に隠すライル、そして彼女を守るように立ち塞がるフゲンたちに、レイは口をへの字に曲げる。
横髪をくるくると指でもてあそび、行動を邪魔されたことへの遺憾を示していた。
「それとこれとは話が別だろ。お前こそなんで仲間殺そうとすんだよ」
堂々と言い返すフゲンに、レイは「仲間じゃないってば」と繰り返す。
「主にあだなす輩に一時でも心を許したんだよ? そんなの大罪だよね、命で償うしかないよね?」
レイの言葉を黙って聞いていたウロウは、唇を噛みしめてうつむいた。
どうやら執行団にとって、彼女の言い分は至極正当なもののようだ。
が、それはつまり、一般的には荒唐無稽な言い分ということだ。
ライルは強い視線と共に、正面からレイに対抗する。
「神様はそんなこと言ってない」
「言ってるよ。聞いたもん」
信じ難いことだが彼女の中ではそうなっているらしい。
ハッタリでも傲慢でもなく、レイは有り得ないことを有り得ると言い張った。
「ガタガタうるせえなイカれ女がよ!」
とうとう我慢の限界を迎えたジュリが、魔法で生成した火球と共に前へと躍り出る。
「さっさとセツヨウの居場所を教えろ!」
レイは戦闘者として格上であることは、今この瞬間においても彼女は肌で感じていた。
しかしそれでも、論理で感情を抑えることができなくなっていたのだ。
もはや少しも待ってはいられない。
このわけのわからない女から、何としてでもセツヨウを取り戻したい、と。
「何? 随分いきがるね、ビビって逃げようとしてたくせに」
障壁魔法で火球を軽く防ぎ、レイは鼻で笑う。
生半可な攻撃は通用しないようだった。
「まあいいや。みんなまとめて殺しちゃお!」
彼女は半歩、後ろに下がると、祈るように手を組んだ。
「泥魔法戦闘術――《死の胎動》」
途端に床、壁、天井すべての輪郭が一斉に歪む。
次いで、まるで粘土のように粘り気があり柔らかく、生き物のように蠢く泥が湧き出した。
「部屋が……!」
床から発生する泥はあっと言う間に堆積し、ライルたちの足元を埋める。
壁と天井からの泥も、落ちて来ることこそ無かったが、塗り重ねるように面を肥大化させていった。
このままでは、障壁魔法の中で悠々と様子を眺めているレイ以外は、みな泥で生き埋めになってしまうことだろう。
フゲンは踏ん張りの効かない中、渾身の力で泥を殴って打破を試みるも、拳は泥面を少々揺らすに留まった。
「クソッ! 手応えがねえ!」
泥から手を引き抜き、彼は歯噛みする。
続いてライルが天井に向けて槍を放つが、やはり泥に勢いを殺されるに終わった。
「はーい、終わり終わり。ゆっくり呑まれて死んじゃってね」
勝利を確信したレイは面白半分にパチパチと手を叩く。
四苦八苦するライルたちに反して緊張感の欠片も無い、余裕綽々の態度だ。
「このっ……氷魔法戦闘術、《氷堰》!」
体をよじり、ジュリは泥を凍らせようと魔法を放つ。
だが氷は一瞬、泥の表面を覆っただけで、湧き続ける泥にすぐ押し割られてしまった。
「駄目だ、押さえきれない……!」
壁を壊そうにも、泥の層が分厚く攻撃が呑まれてしまう。
天井を壊そうにも、やはり層の厚みでどうにもならない。
泥を堰き止めることも叶わない。
モンシュが竜態になれば部屋を壊して泥を流し出せるかもしれないが、この広さではその前にライルたちが押し潰されるのが目に見えている。
唯一、床は足が付く程度にしか泥が積もっていないが、ここは1階である。
この量の泥をはけさせるために、いったいどれほど地面を掘らねばならないかという話だ。
万事休すの状況に、ライルは固唾を呑み込む。
すると、その時。
「……ライルさん」
ウロウがライルの袖を引く。
その目には怒りと失望と哀しみと――善意が宿っていた。