135話 逃げと戦い
「そうだったのか……」
暗く沈んだ声で、ライルは呟く。
何か特殊な事情があるのだろうとは思っていたが、想定外に非情な話で衝撃を受けたようだった。
「同情は要らね――うわっ!」
と、ティガルはライルの方を見て叫ぶ。
何のことはない。
ライルが人類としてまず有り得ない量の涙を流しており、その様子を目の当たりにして驚いたのである。
「久しぶりに見たな、これ」
フゲンは、珍しさで言えば虹くらいのものに対する調子で言う。
同じく既に見、話も聞いていたモンシュとカシャも比較的落ち着いた視線をライルに向けていた。
だが初見のティガル、シュリ、クオウ、捜索隊の面々は完全に度肝を抜かれた顔だ。
困惑と心配、その割合は人それぞれながら、非常事態を前にした時のそれと同様の反応をしている。
「悪い……どうしても涙が……」
「い、いいよ別に……。ていうか、よくその状態で普通に喋れるなお前」
ティガルに至っては、いろいろ通り越してもはやドン引きだ。
完全に珍獣か何かを見る目でライルを見ている。
「まあ……そういうわけだよ。巫女から『隠し通路を開けられるはず』って言われたのも、通路の封がクシティ家にだけ開けられるからだ」
居たたまれなくなったのか、ティガルは少々強引に軌道修正をした。
誰からともなく、ホッと息を吐く音がする。
「あと混血って言ったのも嘘で……おれはただの海竜族だ。ヤシャの糸は、この尻尾で対処した。あの糸、海竜族の鱗よりは弱かったぜ」
「なるほどね。それは有益な情報だ」
マナがうんうんと頷き、そこで会話が止まった。
数秒、沈黙が流れる。
視線がいくつか交差した。
「それで……その、以上、だけど」
付け加えるようにティガルが言えば、場の面々は「だけど」の続きを待って耳を傾ける。
「…………」
「??」
しかし何も言わない彼に、皆首を傾げた。
様子を窺いつつ、マナがまた口を開く。
「……何待ち?」
「いや、お前ら……なんかねえのかよ」
「なんかって」
「海底国から逃げようとしてるおれに、なんか、文句とか」
しどろもどろにティガルがそう言えば、マナたち捜索隊はぱちくりと目をしばたかせた。
「え、無い」
「無いよ」
「無いなー」
「無いです」
面白いくらいに、同じ意見だ。
「むしろ何であると思ったのさ」
マナは心底不思議そうに問う。
他の者たちも、わけがわかっていない顔だ。
反してティガルは、わかりきった過ちを改めて白状するかのごとく、決まりが悪そうにもごもごと答えた。
「だって……お前らは、巫女のために戦ってるだろ。偉いだけの奴らの都合に振り回されても、一生懸命やってる」
「まあね」
「でもおれは自分のことばっかりだ。『箱庭』にも、この体質をどうにかしてくれって願うつもりだったし……。自分だけ逃げて、残された奴らのことなんか、何も考えてなかった」
要するに。
ティガルは後ろめたいのである。
苦境に負けず立ち向かい続けるマナたちを前にして、自分のことがひどく矮小なものに感じられたのだ。
あるいは、己を縛った一族の者たちと同類のように。
だから彼は、自分がクシティ家の者であると口に出すことができなかったし、独りで隠し続けては惨めな気持ちに苛まれていた。
が。
「えー、でもそれ普通じゃない?」
マナの態度は、何も変わらなかった。
世間話でもするかのようなトーンで、あははと笑って返事をする。
「確かに僕たちは人手不足だし、一緒に戦ってくれるなら嬉しいし助かるよ? でもそれを強制したり、協力してくれないからって責めるのは違うでしょ」
「それじゃアタシたち、酷い奴らになっちゃうもんねー」
「ねー」
ニパータとイハイも、軽い調子でマナに同調する。
それでもなお溜飲の下がっていなさそうな顔のティガルに、マッポがおずおずと口を開いた。
「あの……私、一応貴族なんですけど、不義の子で……。揉め事の種だからって、ほとんど人がいないような土地に追いやられてたんです。ただ見張りとかはいなかったので、逃げようと思えばいつでも逃げられる環境でした」
曖昧な愛想笑いをしながら、彼女は語る。
マッポは海竜族と魔人族のハーフ。
しかし基本的に、海底国の貴族は純血の海竜族ばかりだ。
つまり、両親のどちらかが魔人族の浮気相手と成した子が、彼女だということだろう。
「でも私は、マナたちが来るまで、何もしていませんでした。諦めて、受け入れてたんです。ですから、その、ティガルさんがやったことは……『逃げる』っていうのは、それだけで凄いことだと、思います」
へにゃ、とマッポは笑う。
似た境遇の者、しかし異なる選択をした者として、ティガルを励ましたかったのだろう。
実際、海底国では、家や親から逃れようとする子どもはそういない。
地位の高い貴族であるほどそれは顕著で、生まれた時から権力にがんじがらめにされているようなものだ。
名門の出でありながら家を抜け出したティガルが稀有な存在であることは、お世辞でも何でもない。
「そうそう! この国じゃ、子どもは大人の道具でしょ。で、その子どもが大人になったら、今度は自分が子どもを道具にする。負の連鎖だよね。そこから脱することも、戦いって言えるんじゃないかな?」
マナも言葉を連ねれば、ようやくティガルの眉間の皺が少し和らぐ。
「……そう、かよ」
「そうよ、ティガル! わたしも20年……くらい? かそれ以上? 塔から出られないでいたんだもの。1人で勇気を出すって、凄いことよ!」
「クオウ……っておい! 物理的に持ち上げようとするな!」
「大丈夫よ。魔人族とはいえ大人だもの。このくらい……えいっ……! よいしょっ……!」
「持ち上がってねえじゃねえかよ!」
「任せろ、俺も手伝う!」
「いらねえ!!」
クオウとライルに挟まれ、やいのやいのと騒ぐティガル。
うまい具合に気が紛れたのか、気が付けばすっかりいつもの調子を取り戻していた。
と、そこで彼らを眺めていたフゲンがおもむろに口を開く。
「あ、思い出した」
「ん? 何かあったか?」
ライルはじゃれる手を止め、彼の方を向いた。
「気になってたんだけどよ、ティガルお前、ウリファルジのことが信用ならないみたいなこと言ってたよな。あれ思った理由って、結局何だったんだ?」
「ああ……あれか。そうだな、今なら言える」
クオウからも解放され、椅子に座り直しつつティガルは答えた。
「ウリファルジはおれを、『ティガル』って呼んだんだよ」
は、と誰かが息を呑む。
やや間を置き、訝しげな表情で相槌を打ったのは、モンシュだった。
「確かに……それは引っ掛かりますね。ウリファルジ様がティガルの本名を知らなかったのか、それとも知っていて敢えて『ティガル』と言ったのか……」
「どっちにしても、何かワケがありそうね」
カシャも神妙な顔で頷く。
ウリファルジとは、人間を『箱庭』に導く存在だ。
人智を越えた者であるし、他の面々の名前はちゃんと言い当てたり、ライルたちの旅の様子を把握しているような口ぶりであったりもした。
なのにピンポイントでティガルの名前だけ……というのは、どうもおかしい。
「まあ推測しかできないけどさ。ウリファルジが絶対正しいとは限らないって言ったのは、そういうわけだ。最悪、こっちに悪意があるかもしれないしな」